EP.1
「退屈だな」
解は心の中で呟く。生ぬるい空気が教室に満ちていた。高校受験は既に終わり、卒業式まで残すところ数日。形だけの授業。生徒にやる気は無かった。
「お前らシャキッとしろ。高校行ってから苦労するぞ」
黒板の前、先生のお説教にも覇気が無い。どんよりとした曇りだ。御堂解はコードレスのイヤホンで音楽を聴きながら、窓の外を眺めていた。代わり映えのしない景色。携帯端末が繰り返し吐き出す、この楽曲だけが美しい。
不意に、後ろの席の少女が解を
「おい御堂。ボケっとするな」
教師が不機嫌そうに言った。どうやら自分が指名されていたらしい。
「これくらい常識だぞ。何年だ?」
壁、壁、と後ろの少女が囁いた。
「一九八九」
解が答えて、教師がため息を吐く。
「それはベルリンの壁だろうが。しかも壊れた年だ。日本だよ。日本の壁! 完成した年! おい、
「二〇〇〇年です」
後ろの少女が
「こんな覚えやすい年号も無いだろうが。春から高校生だからな。しっかりしろ」
押し殺した笑い声。解にはそれが
歴史の授業もいよいよ大詰め。現代史の単元に入っていた。解が生まれる十数年前、巨大な壁が日本を東西で分断するようになった。静岡、山形、長野、新潟の四県をまたぎ、北は日本海から、南は太平洋まで。日本を分断する壁の名前は「
解たちが暮らすのは、壁の西側。東側はどうなっているのか分からない。衛星写真を見ると、一面の緑だった。都市の面影など無く、全てが「森」で覆われていた。政府は未知のウイルスが
やがて授業が終わる。
「みー、どー、うっ!」
後ろの席の少女に背中を叩かれた。日に焼けて、いかにも運動部です、といった感じの少女だった。田中だっただろうか、と解は悩みながらイヤホンを外す。
「アンタ、授業中は止めた方が良いよ?」
「そうだね」
解は同意しておく。止めるつもりは無かったけれど。
「さっきはごめんね。壁、じゃ分かりにくかったよね」
「別に」
そんな事はどうでも良いよ、と解は思う。
「お
「いや。悪いのは俺だから」
面倒臭いな、という言葉が危うく口から出そうになった。
「クーポン持ってるんだよね。駅前に新しくできたドーナツ屋さん!」
「本当、大丈夫だから」
「あ、御堂! 待ってよ!」
少女を振り払うように解は教室を出た。後ろで解を呼ぶ声が聞こえた。 まだ六時間目が残ってるぞー、と。
◆
「なるほど。それで保健室に来た、と」
養護教諭の二階堂ゆず葉が言った。
「頭が痛かったから」
「君も案外うっかりさんだなあ。五限と六限を間違えたのかい?」
「だから、頭が痛かったから」
「まあ、そういうことにしておいてやろう」
解は勝手にベッドに横になると、イヤホンをはめた。
「頭が痛いのだろう? 音楽は止めた方が良い。それとも教室に戻るかな?」
解が
「よろしい。君は私とお喋りをするんだ」
「頭が痛いから無理」
「どうせ仮病だろう」
「おい」
ゆず葉は、丸椅子をベッドの傍までを引きずってくると、足を組んで座った。彼の携帯端末を取り上げる。
「あ、おい」
解の非難は聞き流し、白くて長い、だけど一切のアクセサリーも無い指で、液晶画面をピッと弾く。ゆず葉はプレイリストを上から下まで眺めて、ため息を吐いた。
「望月詩灯ばかりだね……。君はもう少し、彼女の歌以外にも興味を持った方が良い」
「悪いかよ」
「悪いね。詩灯は気に食わない」
「今時、詩灯が嫌いな方が珍しいけど」
「私はね、皆が好きなモノが嫌いなんだ」
「
「権力に媚びている感じも好かないね」
「そんな事は無いだろ」
「詩灯は、民放には絶対出演しない。広告も政府関連のものだけだ。「選挙に行こう」だとか、「献血しよう」とかね。君は、彼女が「春の新色!」とか言って、リップのポスターに出ているのを見たことがあるか?」
「無い。……だけど、ちょっと見てみたいかも」
ゆず葉がため息を吐く。
「私は不満だよ」
「何が?」
「本当に腹立たしい。君はもっと、目の前の素敵なお姉さんに興味を持つべきだと思うのだが、どうだろう?」
「どこだよ?」
「私だよ。私。ほら。こんな美人と二人きりだ。嬉しくないかい?」
「嬉しくない」
「おや。美人であることは否定しないのだね? ん?」
ゆず葉が意地悪そうに笑う。
「世の中にはね、美人とちょっとばかりお話するために、お金だって払うって輩が山ほど居るというのにね。そういうお店だってあるくらいさ。君はもう少し、この状況に感謝したまえ」
「先生、もう三十歳だろ?」
「よろしい。これは
「あ、待て!」
ゆず葉は解の端末を鍵付きの棚に入れてしまった。結局、六時間目が終わるチャイムが鳴っても、それは帰って来なかった。
◆
その夜のことだ。解は自室で詩灯の歌を聴いていた。
「退屈だな」
解が呟いた。今日、同じことを何度呟いたか。
開け放した窓から風が吹き込む。それは春の風だ。その風が解の心をくすぐる。
「……散歩でも行くか」
気が付けば、解は家を出ていた。
目的地はない。
時刻は午前一時。
ただ、夜の街を歩く。
景色がいつもと違って見えた。
ポイ捨てのタバコや、空き缶。手入れ不足でボサボサのガーデニング。見苦しい物は全て夜に沈んだ。自分以外、誰も居ない街並み。猫背の電灯が静かに青白い光を吐き出していた。それは、何かを
景色がいつもと違って見えた。
何かが起きる気がした。
夜の街を歩く。
ただ、歩く。
歩く。
いつの間にか時刻は午前二時。そう気づいた時には、随分と遠くまで来ていた。明 かりに引き寄せられるように、解は国道沿いのコンビニに入った。小銭と引き換えに空のカップを受け取る。それをマシンにセットしてボタンを押すと、香ばしいコーヒーが注がれた。普段は飲まない飲み物は、苦いだけで別に美味くも何ともない。
夜の街はいつもと違って見えた。
何かが起きる気がした。
だけど、何も起こらなかった。
どこまで行っても、街はただの街だった。
「帰るか……」
解は醒めた頭で呟いた。そんな時だ。サラリーマン風の中年男が解の隣に座った。決して広くはないイートインコーナーだったが、解以外に客はいない。空いている席は他にもあった。
「学生さん?」
男が訊いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます