この歌を、偽りの英雄に捧ぐ。

夕野草路

EP.0

 夏の夜空にはかすかな青さが混じる。まばらな星々の光が空を染めるからだろうか。とにかく、寝転んで眺める夜空の深い青が、傷口に滲みた。

 少年、御堂みどうかいは鼻水をすする。

 クラスメイトに夏祭りへ誘われた。初めての事だった。喜びいさんで待ち合わせ場所にやって来た。そんな彼に、クラスメイトが要求したのは財布だった。当然、解は拒否する。そして、会場外れの雑木林ぞうきばやしに連れ込まれ、この様だ。

 教室での立ち位置は解も理解しているつもりだった。こうなると予想するべきだったのかもしれない。それでも解は来た。誰かと夏祭りなんて初めての事だったから。

 りむいたひざから、にじんだ血はもう乾いていた。

 ただ、涙が止まらない。

 解は鼻をすする。

 涙は三十六度の体温より少しだけ熱い。

 それは涙に溶け込んだ、感情の持つ熱なのか。

 解が目を擦った。その時だった。夜空に一筋の線が走った。余りにか細い銀色の線。それは瞬きする間に、夜空に溶けるように消えた。


「なんだろう?」


 少年はゆっくりと身体を起こし、光の線が消えた方へふらふらと歩き出す。夢でも見ているような気分だった。やがて雑木林が途切れる。

 夏祭りの会場の外れにある野外ステージだった。そこではチャリティコンサートが行われていた。観客はまばらで空席が目立つ。そんな寂れたステージに、一人の少女が上がった。解と同じくらいの年頃。十歳ほどか。遠目にも可愛らしい少女だと分かる。自然と解の頬が紅くなる。

 少女は頭をぴょこんと下げて、上げる。お辞儀のつもりらしい。それからマイクに向かって踏み出す。ただ、マイクは小さな彼女の頭上に有った。少女は腕を伸ばしてスタンドからマイクを外すと、それを大事そうに両手で持つ。彼女のあどけない振る舞いに会場が和んだ。

 そして、少女は

「すぅ」

 と息を吸った。

 最初の一音がつむがれる。

 その時だった。

 空に星が流れた。

 一つ、二つではない。

 流れる星々というより、星の流れとでも言うべきか。白銀の線が空に走っては消える。空の底でも抜けたようだ。白銀の濁流だくりゅうは、北の空から南の空へと 滑り落ちる。

 誰もが、この流星群に気付いていた。

 しかし、静寂せいじゃく

 一人として何も言わない。

 これだけの奇跡を前にして、歓声を上げる者が一人もいない。

 何故か。

 それは少女が歌っているから。

 息をすることさえ躊躇ためらう程の、静けさの中に人々は居た。その静寂に染みわたるように、彼女の歌声は響く。ひたすらに美しいその歌を、ほんの一欠片でさえも聴き逃したくない。だから、天上で奇跡が起きようと、誰もが口を噤む。

 流星群は背景に成り下がっていた。

 星は音も無く夜空を流れ、ただ、歌姫をいろどるのみ。

 解は客席の一番後ろで、この光景を眺めていた。

 瞬き一つせず、身じろぎ一つせず。

 ただ、胸の鼓動だけが速く。


 この夜の出来事は、やがて日本中で話題となる。彼女の歌声と、際立った容姿はもちろん、さらに人々の耳目を集めたのは、これだけ大規模な流星群が全く予測されていなかった、という事実だ。いつしか、少女にはこんな綽名あだなが付けられた。

 彼女が歌うと星が零れる。

 だから、星零せいれいの歌姫。

 やがて国民的大スターとなる、望月詩灯もちづきしいかの最初の舞台だった。

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