第7話 セガの誤算の連続その1
海の向こうではMicrosoftのゲーム機もあるがこれは無視して、日本市場だけを考えると今や任天堂とソニーしか生き残っていない。今のセガのイメージと言ったらスマホゲーム特化したメーカーというイメージが強いと思う。
ただ、昔は違った。セガには熱いユーザーがいて、いつかセガのハードが任天堂を追い越すと思っていたものだ。
そんなセガは海外のピンボール輸入メーカーとしてゲーム業界に入った。これは花札屋からスタートした任天堂と比べるとかなり違うスタートだと思う。当時のピンボールはゲームセンターに置かれていたため、セガがその後アーケードゲームが主力になることはこの時に決まったと言ってもいいだろう。
アーケードの話は以前したので割愛して、ここではセガのコンシューマー市場についてお話ししたい。
1983年にセガと任天堂は相次いでゲーム機を発売した。セガはセガマーク1、任天堂はファミコンである。当時、早い時期からサードパーティを持つことができた任天堂と比較して、セガは長い間サードパーティを持つことができなかった。
任天堂のサードパーティ初はハドソンである。実はハドソンの社長がどうしてもファミコンで作りたいと言って始まったそうだ。任天堂でさえ、当時はサードパーティと言うものが何なのか分かってなかったらしい。
これに比べるとセガは初期から苦労した。キーボードがついたマーク1は価格こそファミコンと変わらなかったがハード性能が一目瞭然と言うくらい差があった。この差はCPUの差つまり6502とZ 80Aとの価格差なのだが、セガはこの事実を特定できずに随分長い間苦しんだらしい。
任天堂がこの6502を選んだもっともな理由はない。偶然、新しいハードにRICOが名乗り出てきて6502というよくわからないCPUを提案してきた。
当時の主流はZ80Aでドンキーコングなどアーケードもそれだったため、宮本さんは本心ではそれにしたかったが、6502でRICOが驚きの安さを出してきたため、これに決定。
このおかげで当時のハード戦争で他社を出し抜く高性能なハードを提示できた。本当に幸運だったのだ。
おかげでセガはマーク1、そこからキーボードを除いたマーク2を作るがいずれも敗退。性能的で追い越したのはマーク3からだった。
結局、メガドライブまでセガはサードパーティさえ持つこともできなかったが、この時にコアなファン。セガファンが誕生した。
1987年、セガのメガドライブが誕生するちょうど一年前にNECからPCエンジンというゲーム機が世の中に出てくる。ファミコンと比べて四倍のスプライトを扱え、四倍の大きさで、512色使うことができた。
CPUは6502。ファミコンと同じだが、クロック数が四倍あった。実はこれを開発したのはハドソン。当時、NECへの持ち込みだった。
ハドソンはディスクシステムなどファミコンの周辺機器を開発したノウハウから、ファミコンの6502のクロック周波数が異常に低く、これを上げればアーケードゲームの移植も可能じゃないかと考えていた。
そこから遅れること一年後、アーケードのメイン基盤で使われていたMC68000を引っ提げて登場したのがセガのメガドライブだった。
当時のセガはアーケードゲームの基盤開発の実績から、このCPUをどこよりも安く仕入れることができたため、このCPUを採用した。ただ、価格が安い6502に比べてそれでも16ビットCPUは高く、色数を減らすことで価格を下げた面は否めない。
PCエンジンが512色そのまま出せたのに対して一画面に512色中64色しか使えず、これが長い間ゲームメーカーを悩ませることとなり、見た目で劣ったイメージにもなってしまった。
ただ、使い方に慣れてくると、MC68000やFM音源やPCMを持っていたため、どんどんとユーザーに浸透して売れていくが結局日本市場ではその時にはすでに遅く、出遅れることになった。ちなみにアメリカのメガドライブは出遅れたスーパーファミコンに勝利することができ、初めて覇権を持つことができた。
この後、セガはアーケードをそのままの形で移植できる究極のゲーム機を作るためにアーケードトップの鈴木裕さんと長い間調整を続けることになるが、これは次回にやりたいと思う。
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