二重の存在
今思えば、あの時言ってやれば良かったのかもしれない。
あの時あの場所で、入れ替わった俺は本能的に言ってしまった。
「お前……誰だ?」
あの後菜穂は駆け足で帰ってしまい、俺はそこでようやく彼女の事を思い出した。
やってしまった――……それだけが頭の中に残る。
後悔なんて久しぶりだった。無茶ぶりにはなるべく応えてやりたかったのに、それに失敗してしまった。
外出しているのか、屋敷に戻って日記を見ても、書かれてあるのは午前のことだけだった。そこからある程度を予測して今に至る訳だが――。
「……分からない。こんな事は初めてだ」
椅子に座りながら、俺は白亜に向かってそう零す。
時刻はもうじき六時を超えようとしている。
しかし入れ替わりの予兆である頭痛がしてこない。眠気も感じない。
「朝起きた時、俺は俺のままだった」
夜の世界に生きる俺には勿体ないぐらいの朝の景色。
緑が艶やかに光り、陽の光の暖かさに感動すら覚えそうになった。
初めての世界――しかし俺の心中は不安で一杯だった。
主人格・白理有の消滅――あり得ないという訳ではない。
殺人事件に巻き込まれ、警察に冤罪を掛けられそうになったアイツの精神は摺り切っていると考えてもおかしくない。
「……それに加えこれか」
俺は日記を手に持ちながら事の顛末について思考を巡らせる。
恐らく有は今の今まで菜穂の存在に気づいていなかったのだろう。
その気持ちは少し分かる。彼女はそれくらい変わっていた。
「そうか……数学オリンピックか」
片田舎の、人見知りの少女がこんな領域にまで行ってしまった。
それに気づいた時、少し嬉しいと思ってしまった。
出会えた奇跡に、そしてこれまでの軌跡に。
「悪いな白亜、今日は止めにする。続きは明日からだ」
「……ん、了解」
コクリと白亜は何か察したのかそう頷いて、部屋から出てくれた。
「ったく、いつまでも迷惑かけやがって……」
俺はよっ、と椅子から立ち上がると、机の下にあるタンスを開けてノートを探す。
探し当てるのは簡単だった。整理整頓がきちんとされている中身で、俺は一冊のノートを持ち上げる。古びた青色のノートであり、ぺらぺらと捲りながら、俺はある日時のところで手を止めた。
「六月七日、今日は算数のテストがあった。図形の問題だった。相変わらずみんなは冷たくて、そのテストはイジメかと思うほど酷かった」
淡々と綴られるその文章は、普通そうに見えるが俺だけはそこに、僅かな怒りが込められていることに気づいた。しかし後に続くにつれ、そこに喜びや驚きが色よく反映されている。
「僕と菜穂ちゃんだけは別の問題で作られていて、多分、数学の分野も入っていたと思う。入試問題に近かった」
テスト用紙は……流石に無いな。
俺は部屋に付いている照明を全部消して、窓の向こうを見ながら椅子に再び座る。
息を整えさせて、深く――自分に言い聞かせるように、言葉を紡いだ。
「俺は豊崎菜穂の事を知らん。お前の振りをして会いに行く事も出来るが、それで傷つくのはお前だ。俺はお前で、俺はお前を守るためだけに存在している」
俺は実のところ有と話した事が無い。
よく二重人格ものの小説だと、精神世界とかそう言うので話せるとかあるのだが、そんな都合の良い展開がある訳もない。
あくまで筆談を通じて繋がり合っているだけだ。
『君を――認めて、良いのかな』
……思えば懐かしいものだ。
俺はアイツを知らない。だが昔声が聞こえた様な気がした。
幼いころにアイツが言った一言。何故かその言葉は精神の中にいる俺に届いた。
未だ持って、何故アイツの声が聞こえたのかは分からない。
ただ精神というのはそういうものだ――と、俺は思っている。
良いじゃないか。現実は苦しくとも心だけは自由であってほしい。
「凄ぇよな。アイツ、数学オリンピックだってよ。ったく片田舎の天才美少女がこんな所まで行っちまったよ」
俺は会った事ないけど、有の日記を読んでその凄さが分かる。
第三者である俺が凄いと褒めたんだ。居合わせた有の驚きは計り知れない。
俺は
「聞いたよ。豊崎菜穂がどうして探偵を志望していたのか。どうしてあんなにもひたむきに勉強を……頑張り続けてきているのか」
その時、片腕がビクンと唸るように痙攣した。
自分の体の支配権を取られる様な錯覚。
意識しなければ呼吸でさえままならない中、俺は薄く目を開けて言った。
「――会いたい人がいるんだってさ。遠い昔に出会った一人の男の子に。その子にもう一度会いたいが為に、豊崎菜穂は努力し続けた」
もう既に、体の神経が言う事を聞かなくなった。
「だから……俺は行けない。知った様な口振りで……あの子の努力を、何もかもを台無しにしたくない」
息を吐いて、途切れ途切れになりながら俺は言い続ける。
こんな事、余計にアイツを追い詰めるだけだ。
だがそうしなければならない。
残念ながら俺はカウンセラーでも何でもなくてね。
ただ理不尽な現実から、
しかしこれは違う。自分で乗り越えなければならない。
『……なんて、』
その時、冷たい暗黒に漂う意識の中、そんな声が聞こえた。
俺は黙ってその声に耳を傾ける。
『なんて、言えば良い……? 菜穂ちゃんは僕の為にあんなに頑張っていたのに、僕はそんな努力も無しにのうのうと生きて……卑怯だ』
「あぁ……そうだな。お前は、とんでもねぇ……卑怯者だ。豊崎菜穂も、男を見る目がねぇな……」
『だけどな』と、俺は続けて言う。
「そんなお前を、豊崎菜穂は気に入ったんだ。……なら最後まで恰好つけろ。あの子に幻滅されたく無いんだろ?」
『……僕にできるかな?』
「お前は俺だ。だから平気だ、大丈夫だよ――いつもどうりのお前に、格好つけてるお前に、あの子は惚れたんだから」
意識が薄れる中、俺は最後の力を振り絞って声を発した。
その瞬間、ブツンとケーブルでも切断したのかという程の音が響いて、辺りが真っ暗になる。
『ありがとう、頑張ってみるよ』
『……おう。ったく、迷惑かけやがって』
落ちていく、沈下していく。
まるで暗黒の水の中にいるみたいだ。
光る水面を背に、黒い人影がいた。その人影は光を目指して浮上していく。
あぁ、そういえば。
この言葉をまだ、言っていなかったな。
『じゃあな、精々頑張ることだ……それと、もうこんな事は、こりごりだからな』
――頑張れよ、有。
そうして俺は、虚無の水底に意識を沈めるのであった。
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