すれ違い
広い室内には、家具や寝具が置いてあり、家具の殆どは愛着が込められているのか年季を感じられ、ベッドにはぬいぐるみが沢山鎮座している。
棚には少ないながらも写真が存在し、その殆どは家族や友達と撮ったものだった。
ベッドの上で蹲る少女――菜穂は、ふと視線を横に向けた。
そこから見えるのは、大きな窓ガラスと文机であり、その奥にある棚――の、中段に位置する写真。
この写真はいつでも見れるように置いておいたものだった。
写真には幼い少年と少女が並んでおり、それは生活の一部を切り取ったかの様に撮られていた。
『お前……誰だ?』
「う~……あ~……」
それを見る度に、あの言葉を思い出す。
そして足をバタバタさせて、一旦休憩。
心の傷を癒すためにもう一度チラ見。
また足バタバタ。
そんな事を何回も繰り返して、心だけが傷ついている。
分かっている、この行為は意味のないものだと。
机の上にある数学のノートは開かれっぱなしで、昨日だって一問も手を付けずに寝てしまった。
早く立ち直らなければ、勉強にも付いて行けなくなってしまう。
菜穂は数学に置いて天才的な発想能力を有していた。
しかし仮に『天才』をランク付けするのであれば、その才能は下の方になるのだろう。
これまでの菜穂を積み上げてきたのは、偏にひたむきな努力にある。
朝起きて勉強。とにかく勉強。如月学園の特待生に登校義務はない。
その時間をフルに生かして、数学の勉強に明け暮れていた。
何故そこまで彼女は努力し続けるのか。
並々ならぬ情熱の、その始まりの火花は意外にも不純な思いだった。
『菜穂ちゃんは算数が得意なんだね。凄いと思うよ』
最初に彼にそう言われた時、嬉しいと思った。
なんてことは無い、算数の小テスト。範囲は確か図形の問題で、少しだけレベルの高いやつだった。
確かにそのテストで満点を叩き出したのは菜穂一人のみ。
次に八十五点の当時の白理有で、他は二、三十点がいいところだった。
しかし菜穂はその結果に、喜びはするもののそれ以上のものは持たなかった。
何故なら、菜穂はそのテストに何十時間も勉強して望んでいたからだ。
努力故の成果。だけどなおも彼は続けて言った。
『きっと菜穂ちゃんは数学の天才さんなんだね』
『えっ……?』
『うん、きっとそうだ間違いない。はははっ、菜穂ちゃん凄いや本当に!』
テストの用紙を見ながら、彼は珍しく笑顔でそう言った。
夕焼け小焼け、いつものあぜ道。だけどその日の思い出は鮮烈に焼き付いている。
何故豊崎菜穂が数学を勉強し続けるのか。
それは至って単純――もっと白理有に褒められたいから。
数学を楽しいと思った事は事実だ。しかしそれよりも先に来たのは不純な動機。
学校の先生でも、両親でも、身近な友達でもない――豊崎菜穂は、今もただ彼に褒めて貰いたいが為に頑張っている。
「……起きよ」
のそりと起き上がって、ふと時計を見る。時刻は六時を過ぎていた。
そう言えば朝昼と食べていない。取り合えずご飯からか。
そう思い菜穂は部屋から出る。一階へと下り、部屋の電気を付ける。
「お夕飯はどうしようかな.....もう面倒くさいから外で済ませちゃおうかな......」
今はとても台所に立てる気がわかない。
菜穂の父親は現在海外へ赴任しており、半年に一回だけ帰ってくる。
母親はいない。強いて言うなら空より遠い場所に行ってしまった。
だから菜穂が作らなくとも困る相手は誰もいないのだ。
テーブルの上に置かれたスマホをチラリと見る。
充電のされていないスマホの充電は、残り三パーセントほどで、何件かメールが来ていた。
「宙ちゃん……」
ただ一人の親友、月見宙からのメールはただ一言。
『大丈夫?』――彼女が自ら発信するなど珍しい。如何に心配させていたかが分かる一言だった。
本来ならば直ぐにでも連絡しなければならないが、今はまだその気分ではない。
簡単なメッセージを送ろうにも、なんて書けばいいか分からない。
その時、菜穂はもう一件メールが来ていることに気づいた。
宛先名は――『白理有』。
「はっ、白理君!?」
そう言えば、初めて会った時に連絡を交換したのだった。
しかしメールのやり取りはしていない。
何なら、昨日の待ち合わせのメールが初めてだったりする。
昨日の事を思い出しながら、恐る恐るメールを開くと……。
『月見さんから聞きました。元気ですか? 風邪でも引いてしまいましたか?』
「か、風邪……!? 宙ちゃんなんて言ったの……?」
菜穂は驚きながら続きを読む。
どうやらメールは最近送られてきたようで、『18:46』のログが残っていた。
『昨日の件について謝りたいです。実は自分も少し体調が悪かったようで、あんな言葉を言ってしまいました』
その文章を読んで、少しだけ菜穂はほっと息を吐いた。
どうやら自分の思い過ごしらしい。確かに、あの時の有は少しおかしかった。
そんな事を思いながら、なんて返そうかと思案しながら、最後の文章を読んだ。
『今から家に行っても良いですか?』
「……へっ!?」
その一文に目を奪われた瞬間、スマホの電源が落ちる。
それと同時に――ピンポンと、軽やかなチャイムの音が鳴り響いた。
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