決意
そこは暗く、どこまでも暗かった。
冷たい地下牢の中、こびり付いた血の匂いが充満するその部屋は、子供ながら恐怖を覚えたものだ。
「なぜお前はそんなにも物覚えが悪いのか」
――ごめんなさい、おじい様。僕が悪いのです。
「こんなにも良くしているだろう? えぇ?」
――ごめんなさい、おじい様。僕が悪いのです。
「なぜ盗まなかった。お前の力なら簡単に盗めるだろう」
――ごめんなさい、おじい様。でも、盗みはしたくありません。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
僕が悪いんです。僕が弱いから、情けないから、意気地なしだから、だから悪いのです。
ごめんなさい、盗みが出来なくてごめんなさい。
ごめんなさい、悪い子じゃなくてごめんなさい。
ごめんなさい、こんな子供に生まれてきてごめんなさい。
ごめんなさい、こんな僕を産ませてしまってごめんなさい。
ごめんなさい、こんな僕でごめんなさい。
もっとがんばりますから、殴らないで下さい。
もうあの場所はイヤです。暗くて冷たくて、怖いです。
コワイ、コワイ、コワイ、コワイ、コワイ、コワイ。
嫌だ嫌だ嫌だ、でも僕が悪い。僕が悪いから、ダメなんだ。
だけど盗みはいけない事で、だけど盗まないと幸せになれない。
これは僕の問題で、悪いの僕だから――。
だから――。
「 ̶誰̶か̶助̶け̶て」
==
「おはようございます、有さま」
「………っ、おはよう、雪」
目覚めは最悪だった。まだ寒さが残る季節なのに、汗がじっとりとかいて気持ち悪い。隣でいる雪が心配そうにこちらを見ている。
「すみません、お体触りますね」
そう言って右手を僕の額に当てる。
「熱は……無いようですが、ご気分が悪い様でしたら今日は――」
「行くよ、学校。いま何時?」
僕は起き上がって、急いで時計の方を見る。
針時計は午前の七時四十五分を指示していた。
マズい……雪がこうして起こしに来てくれた時点で、嫌な予感はしていたが……。
「申し訳ございません。有さまが起床するであろう六時半に起きてこられなかったので、七時には有さまを起しに来たのですが――」
「……僕の聞き間違いかな? 七時に僕を起しに来たと聞いたんだけど」
彼女から手渡される制服を次々に着ていく。
もう慣れたとはいえ、流石に下は恥ずかしいから出て行ってくれると助かるんだけど……。
「はい、ですがここで問題が発生しました」
「問題? あ、僕が中々起きないって事? それはごめんだけど……」
「いえ、有さまの寝顔が可愛すぎるという、想定していた
「僕の謝りを返して欲しい!」
どんな
しかも想定内って……いや問い詰めるのは後でだ。
今は一刻も早くズボンを履かないと。
「取り合えず出て行ってくれ」
「下の方も私が――」
「やらなくて良いから! マジで! もーうっ!!」
==
結局、そんな事がありながら僕は今、校舎を全力で走っている。
時間は校門に入った時に二十五分を過ぎていたので、僕の学校は三十分までに教室に着いていれば遅刻扱いにはならない。
廊下には誰もいなくて、シンと静まり返っている。
そのまま階段を駆け上がって、勢いよく教室の扉を開けた。
「おはよう……ございます……」
ガラリとスライド式のドアが開けられる。
その時、教室内から異様な空気になっている事に気づいた。
その事に、だけど僕は表情を変える事なく、平然と自分の席に着席する。
先生はまだ来ていないようだ。鞄を開けて、中身を取り出していく。
視線――それは、一般人であれば気づかないほどのものだった。
だけど僕は逸脱していて、だからこそ、そう言うものに敏感だった。
突き刺すような視線――針の
「つーかさ」
誰かが言った。それは静かな教室内でも気づかない程の声量だった。
「なんで平然とクラスにいるんだよ」
「白理って、よく分かんねえ奴だなと思ってたけど、あんな事するんだ」
「まあ俺、佐藤先生の事嫌いだったけど、幾らなんでもねぇ……」
「やりすぎだろ、自殺に見せかけて殺したって話だぜ?」
「こわっ、なんでそんな普通っぽくいられるんだよ」
「サイコパス? うーわ、キッショ……」
「白理ってそんな奴だったんだ……」
「あの人やりそうだなーって思ってたんだよね、私」
「まあ、取り合えず――」
「「「「「早くいなくならないかな」」」」」
「――――――」
正直な話、これは読めていた。
読めていた、計算していた、何なら、取り調べを受けていた際には既に察していた。
こうなるなと、僕はクラスの人気者でも何でもないし、嫌われ者でもない。
だからこそ、こういう日陰者って言うのは。
たった一つの情報だけでこうも簡単に評価が変わる。
それが嘘でも真でも『みんなが言っているから、だからアイツはああなんだ』っていうのが、簡単に確立してしまう。
分かってた。理解していた、生憎僕はおじい様から人間というものをとことん学ばされた。集団心理、行動の裏側。善意の裏の悪意、悪意の裏の策略。まだまだ語り尽くせないほどの事を、僕は詰め込まれて来た。
だから、こんなもの屁でもないさ。
悪意には慣れている。誤解にも寛容だ。僕は悪意に対する耐性が付いている。
やり方は簡単だ。
ほら、こうやって心を無にして、後は時間が経つのを待つだけ――。
「お前らいい加減にしろよ」
その声はあまりにも静かで、だけどその言葉は誰の者よりも大きく聞こえた。
横の方に視線を向ける。
靖国だ。
「まだやったとは限らねえだろ。そんな根も葉も無い噂で人の事を決めつけんなよ――格好悪いだろ」
靖国は立ち上がる訳でもなく、声を荒上げる事もなく、かといって激高するわけでも無く――ただ、その言葉には怒気があった。
凍る空気、口をつぐむクラスメイト。されど靖国は真剣で、睨むという訳では無いのだが、目つきはやや鋭かった。
「そ、そうだな……靖国がそう言うなら」
「そうね、海瀬君がそう言うなら……」
「海瀬君本当にやさしいね」
ガララとドアが開いて、中から先生がやってきた。
先生は紙束を抱えており、それをドンと机の上に置く。
クラスメイト達が黙って、先生の方を向いた。
「もう皆知っていると思うが――先日、佐藤先生がお亡くなりになられた。この学校でだ」
先生は遺憾そうに瞼を閉じると、それでと紙束の上に手を置く。
「葬儀は身内内で行われるそうだ。……自殺か他殺か分からない以上、しばらくの間、休校することが決まった」
「イエーイ!!」
クラスの中の誰かが叫んだ。不謹慎だが、正直言って皆喜んでいる事だろう。
それくらい、佐藤先生は嫌われていた。死者を冒涜する気は無いが、流石に可哀そうになってくる。
「人が死んでいるのに何を言ってるんだ!」
ウチの担任はドが付くほどの真面目だ。
それから、一人一人が立ち上がって、先生から極太の宿題を手渡される。
これを一週間で終わらせろと……憂鬱になってきた。
朝のHRが終わると、それからは各自解散という流れとなり、それぞれが帰ろうと教室を出て行く中。
「白理」
「は、はい」
「昨日の件についてだが……俺はよく分からないが、少なくとも、俺はお前がやったとは思ってない。お前が優しい奴だという事を俺は知っている。だから……あー何というか、あんま気にすんな。先生はお前を信じているぞ!」
黒ぶちの眼鏡を掛けた体の細い僕らの担任――
「おーい、有! 何してんだよ、一緒に帰ろうぜ!」
教室の扉の方で靖国が叫ぶ。僕は先生にお辞儀をして、そのまま靖国の所へ行った。
「先生と何話してたん?」
「いや……何でもないよ」
廊下には誰もいない。コツコツと
はぁ……朝のHRだけでこんなにも疲れるとは。
このままどうなるんだろうか――矢車にはいい思い出が無いが、一目見ただけで分かった――この人、デキる人だと。
だけどどうにも引っかかる。『黄金郷の呪い』がその最たる例だ。
これは直感だけど――この呪いの謎を解き明かさなければ、あの事件の真相に辿り着けない。そんな予感がする。
「この後どうする? ラーメン……は、まだ開店時間過ぎてねえよな。……俺は
「うん、そうだ――」
そうだねと、言おうとした時――僕は見てしまった。
前方、向かい側からやってくる生徒の姿を。
僕はその人物を知っていた――知っていたから、驚いたんだ。
僕はその人を、実は何度か見かけた事がある。
大体、いつも何人かと一緒にいて、一人になる時が無いってくらいに人気だった。
その人は、イケメンという訳でもないけど、和ませるような雰囲気を持つ人だった。
だから皆彼の事が好きなんだと思った。一緒にいて楽しい人が、最もモテる人なんだという事を、僕は彼を見て知った。
――霧島ミノルは、右目に包帯を巻いてトボトボと歩いていた。
昨日見た時とは大違いだ――!
「ミノル君……?」
「――! ……あぁ、なんだ、白理君か。おはよう」
「おはようじゃないよ! どうしたのその傷!」
「これは…………」
ミノルは言いにくそうに、はははと力なく笑う。
「クラスの人……名前は言わないけど。その人に殴られたんだよ」
「なんで……!」
そう言って、自分でも気づいた。今の僕たちは容疑者候補なんだ。
それが公にされていないものだとしても、もうそうなっているんだ。
事実の確認なんて出来るはずが無い。
何度も言うけど、結局の所――人間というのは流されやすい生き物だから。
「先生には言ったか? 言いにくいなら、俺が言おうか?」
靖国が顔をしかめながらミノルに訊く。
二人は知り合いなのか、だけどミノルは首を横に振って。
「ありがとう靖国。でも良いんだ。傷も深くなかったし、少ししたら皆気づいて貰えるよ」
「けど……」
「良いんだ、白理君――本当に、大丈夫だから」
ミノルはそのまま僕たちの間を通り過ぎて行ってしまった。
僕は反射的に後ろを振り向いて向かおうとしたが、その肩を靖国に掴まれた。
「今は誰とも話したく無いんだろ……それに、これはアイツの問題だ。アイツが決着着けるしかないんだよ」
「でも……」
「何も助けるなとは言ってねえよ。無理そうだったら助けてやれば良い。少なくとも俺はそうする――それが
靖国はそう言って、少しだけ笑った。安心させるような笑いだった。
だけど僕は心配だった。靖国は聞こえなかった。
ミノルは、通り過ぎた間際、こんな独り言を言ったんだ。
「みんな信じていたのに……どうして……」
「――靖国、ごめん。今日はサッカー出来そうにもないや」
僕はそれを聞いて、とある決心をした。
僕がそう言うと、靖国は何も言わなかった。
だけど、ただ僕の背中を叩きながら――。
「頑張れ、応援してる」
ただそれだけを言って、ニカッと笑った。
本当に、良い奴だな……ありがとう、もう一人の僕。
コイツと友達になってくれて。僕だけじゃあ、多分ここまで仲良くはなれなかった。
僕は走り出して、靖国に振り返りながら叫んだ。
「ありがとう靖国! あの時助けてくれて!」
「よせやい、照れるだろ……ま、何か困ったらいつでも相談しろよ! 有!」
「あぁ!」
あの時、本当は泣きそうになったんだ。
それはクラスの皆に言われたからではない、こんな僕を信じてくれる人たちがいるって言う事実に、泣きたくなるくらい感謝したんだ。
だから僕は大丈夫――だけどこのままだとミノルが危ない。
この事件が犯人ありきなものだとすれば、きっと警察の力だけでは時間が掛かるだろう。何故なら、状況証拠だけでは自殺の線が高いからだ。そして残念なことに警察は『
――最終的に自殺という事で決定づけられる可能性が極めて高い。
階段を下って、廊下を全力で走る。先生たちは今頃職員室にいるだろう。
『私たちはこの事件を追う事にするわ』
昨日の記憶が蘇る。あの夕焼けの空の下、そう彼女は言っていた。
『本当なら一番傍に居て、かつ殺人の瞬間を目撃した白理君達にも手伝って欲しいけど、無理強いはしないわ』
二手道。彼女たちは別れ際、僕に向かってこう言った。
『――それでも、』
図書館の扉を開けて、僕は中に入る。
図書室の司書はいない。静かにしてなければいけないこの空間に、されど僕は走っていた。ドクン、ドクン——と心臓が脈打つ。
誰もいない――当たり前だ。みんなとっくのとうに家に帰ってる頃だろう。
特待クラスの生徒はそもそも、登校義務も無いので、そもそも学校に来る人もあまりいない。
――だけど。
『あなたがもし、事件を追いたいと思うのなら――図書室に来なさい。私はそこで待ってる』
誰もいない図書室。春の終わり、夏の前触れの気温は温暖で、だけどそれは奥に進むにつれて薄ら寒くなっていく。窓の外に映る樹木の量が増え、木造の匂いがツンと鼻をくすぐる。
日差しが入り込む所――大きな机に小さな椅子、そこに座る一人の小さな少女。
彼女はいつもの様にミステリの本を読んでいた。変わった事があるとすれば、机の上にはノートが広げられており、そして彼女が読んでいる本のタイトルが変わっている事だけだろうか。
「――そう。覚悟はあるかしら?」
彼女は僕の顔を見て、そう訊いた。
「覚悟とかそんなのまだ分からないけど。――やられっぱなしは嫌なんだ」
僕は僅かに荒れる呼吸を整わせながら、そして言った。
「僕もこの事件を追う――君たちの仲間に入れさせてくれ」
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