第7話 三十年後の意義
いろいろ考えてしまうと、未来に来てしまったことが悪かったのか、もっとも、過去に戻ったとしても同じなのだろうは……。
そのことを考えると、
「三十年後の未来の自分って、存在しているのだろうか?」
と考えた。
ひょっとすると、三十年後の自分に今の自分が乗り移ったのではないかと考えると、年齢的にはもう、還暦前くらいだと言ってもいいだろう。
しかし、意識だけは三十年前と同じである。鏡で自分の顔を見たわけではないので、どんな姿になっているのか疑問である。
ただ、さっきの発想で、過去の自分に乗り移り、そのまま過去に戻った時との間を永遠に繰り返すという発想でいけば、飛んできた未来から先、自分はどうなってしまうのだろう?
未来の自分に乗り移るのだろうか? それとも、そもそも未来にいくのと過去に行くのを同じ、
「タイムスリップ」
という言葉で表しているが、実は違うものであり、発想も別で考えなければいけないのではないかと思うのだった。
そういう意味での未来へのタイムスリップは従来のような考え方にしかならない気がする。未来においての自分に乗り移ると、急に過去がなくなってしまうことになるからだ。
だが、そこまで考えてくると、過去の記憶がなくなる人だっているではないか。それは事故であったり、ショックで記憶を失うと言われているが、ひょっとすると原因不明と言われている中に、タイムスリップしてきた過去に存在していた自分が乗り移り、その間の記憶があるはずがないので、記憶喪失という形で診断されているのかも知れない。
そう思うと確かに、失った記憶というのは、意外と近い過去のことで、子供の頃の記憶は残っていたりすることも多いというではないか。
それが、過去に行く時と同じ発想であれば、十分に理解できる感覚だと言えなくもないだろう。
「一体、どっちなんだ?」
と自分にいい聞かせるが、それこそ結論がそう簡単に出るわけもない。
少なくとも、自分でタイムマシンを作り、未来に来てしまったという意識は残っている。しかし、過去に戻ろうにも、なぜかタイムマシンの存在は知られてしまっていて、そう簡単に過去に戻ることはできない。
そうなると、
「この世界でいかにして生きていくか?」
という発想に、早めに切り替えなければいけないのではないかと考えるのだった。
考え始めてから、どの段階で割り切ることができるのか、それが問題だが、今までの経験からいって、
「結構かかるのではないか?」
と考えられた。
いつも一つ一つ納得しなければ、考えをまとえていくことができないという、科学者の宿命というか、性のようなものがあるからなのかも知れない。
「タイムマシンを開発しようがしまいが、結果は同じになっていたのかも知れない」
と感じたが、未来にだけは、さすがにタイムマシンでなければいけないように感じたのは、やはり都合よく考えるという科学者のエゴからくるものではないだろうか。
この世界兄とどまっている間、もう一人の自分が存在しているのかどうか、探してみようかと思ったが、
「見つかったところで、どうなるというのだ?」
と感じた。
確かに、ドッペルゲンガーの正体を突き止めるという意味で、もう一人の自分が未来に存在しているのかどうかを探すのは、一つの手段かも知れない。しかし、それが分かったところで、ドッペルゲンガーの正体が分かったところで、自分が過去に帰るという今一番問題となっていることへの解決になるものではないだろう。
そう思うと、まずは、なぜ自分がこの世界にやってきたことを、タイムマシンを隠したところで張っている連中が知っているのか、そして、自分を探しているとすれば、自分にどんなようがあるというのだろう? もし、自分が過去に帰ることを阻止しようとしているのであれば、やつらはきっと必死になって阻止するに違いない。何しろ軍隊並みの装備だからだ。
あそこまで大げさにするのが、この世界の警備方法なのかも知れないが、もしそうだとすれば、
「抵抗すれば、射殺しても構わない」
などという法律が出来上がっているのかも知れない。
さすがに殺されてはかなわない。
だが、たったの三十年で、ここまで世界が変わってしまうものだろうか? 自分たちのいた令和三年を思うと、そこから三十年前というとどうであったか?
やっとケイタイが普及し始め、パソコンも社員に一台あるようになったくらいか。ただ、ノートパソコンよりもデスクトップ型が主流で、モニタ―も液晶ではなく、ブラウン管だった時代である。
インターネットなどというものもなかった時代である。
経済的にはバブルが弾けた影響が、経済を直撃していた時期で、リストラの嵐であり、サブカルチャーが流行り始めた時期でもあっただろう。そういう意味でのパソコンの普及は時期としてはちょうどいいタイミングだったのかも知れない。
そんな時代から練和三年を見ると、信じられない世界なのかも知れない。
パソコンもノートだったり、液晶である。テレビ自体が液晶になっていて、ケイタイもスマホと呼ばれる指で画面をこするだけで、スクロールするなど、発想すらなかっただろう。
過去から未来を見た時と、未来から過去を思い出しながら見た時とでは、かなりの違いがあることだろう。
先ほど聞いた話では、タイムマシンもロボットも、開発はされていないということだった。
その理由として、
「法律で開発が禁止されている」
ということだったが、どういうことなのだろう?
確かに、令和三年においても、
「ロボット、タイムマシンの開発には、大いなる危険が伴う」
と言われているが、それでも開発に対して規制が掛かっているわけでもない。
逆に政府が率先して開発チームを形成しているくらいなので、科学の発展という意味で、大切なプロセスのはずだ。
ということは、令和三年から三十年後の世界までの間に、何かロボット、タイムマシンにおいて危険なことが起こり、それを規制する必要が生まれたのかも知れない。
それがどういうことなのか、そして、いつくらいのことなのか分からない。先ほどの人に詳しく聞いてみようとしたのだが、教えてはくれなかった。
皆承知なのだが、口にしてはいけないタブーなことなのか、それとも、本当に知らないのかは分からない。とにかく緘口令は敷かれているようだ。
洞窟だと発見されにくいと思ったのが間違いなのか、最初から彼らには、この日になってタイムマシンがそこにあるのが分かったのか、そう考えると
「さっきの軍隊のような集まった人の中に、ひょっとすると、三十年後の自分がいるのかも知れない」
とも考えたが、そうなると自分が一度は過去に戻っていなければいけないということになる。
「だったら、どうなるのだろう?」
過去に向かって戻った自分が、もしそこにいるとすると、彼はどこまで知っているのだろう?
自分は蹂躙されているのか、それとも、まさか、あの中の首領ということなのかも知れないとも感じた。
過去に戻ったことで、何かを変えたいという意識があるわけではない。
確かに未来に来るということに、何らの覚悟がなかったわけではない。
「過去に行くよりも被害は少ないだろう」
という安易な気持ちを持っていたのは間違いないが、未来にくることで何も起こらないとも思っていない。
一ついえることは、
「未来から現在に帰ることも、ある意味、過去に行くことになる。一度未来に行って未来を知ってしまうと、その時点で未来人としての認識から、自分の飛び立った先が、過去になってしまうかも知れない」
ということだった。
難しい言い方をしてしまったが、要するに、
「一度未来にいくと、自分も未来人の仲間入りになるのか?」
ということである。
さらに、
「未来人になるとすると、それはいつから未来人としての認識になるのだろうか?」
ということである。
そのタイミングによって、自分が現在という過去に行くことで歴史を変えてしまうことになるのであれば、本末転倒だからである。
そういう意味で、今のタイミングで帰ることができればよかったのかも知れないが、タイムマシンを拘束されて、戻れなくなってしまったのだとすれば、実に腹立たしいことである。
ただ、それも一応覚悟の上だったはずなのだが、それでも自業自得なら仕方がないが、外敵によるものであるということであれば、こうなったら意地でもやつらの化けの皮を剥がずにはいられないと思うのだった。
「一体、どこに戻ればいいというのか。戻る場所など最初からないということなのか?」
とさえ思えてくるほどだった。
現在から、いきなり未来にやってきた。タイムマシンを拘束され、戻れる様子がない。もう一つ気になったのが、
「俺は、このまま、過去のことを忘れて行ってしまうのではないか?」
という意識であった。
昔に戻った時、
「ひょっとして、未来での記憶が消されているかも知れない」
という思いはあった。
何しろ、未来に行った時、戻ったところで、未来の話をされることを嫌う時間の神様であれば、それくらいのことは造作もないと感じたのだ。
タイムマシンというものでなくても、タイムトラベルは可能だ」
という考え方の中に、異星人によるタイムトラベルという発想もある。
いわゆる「宇宙人」である。ただ、これは自分たちが知っている生物という意味で、地球上であっても、未知の高等生物がいれば、彼らも宇宙人と同じ括りになる。地底人や海底人、あるいは異次元人という発想もある。
タイムトラベルという発想であれば、異次元人というのが一番当て嵌まるだろうか。
タイムマシンという発想が異次元旅行という発想なので、異次元からこちらの世界に来ることができるのであれば、時間を飛び越えるくらいはできるのではないだろうか。
そう考えるようが自然であり、今まで人類が体験している不可解な出来事も説明はつくのかも知れない。
例えば、古代遺跡などは、宇宙人という発想が強いが異次元人であってもありえることだ。
「空を飛ぶことができなければ、作ることのできない巨大な絵であったり、ピラミッドのような幾何学で正確に作られたものなど、とても、古代人ではありえないだろう。
だが、これも、
「過去にさかのぼれば遡るほど、人類は原始化しているのではないだろうか?」
つまりは、
「過去の人間ほど、自分たちよりもさらに劣っている」
という固定観念である。
確かに文明が過去から未来に向かって時間軸に逆らうことなく継承されているのだとすれば、その考えに間違いはないだろう。しかし、果たしてそれらの建造物や肖像を描いたのは、自分たちの直系の先祖なのであろうか?
その証拠がどこにあるわけでもない。
旧約聖書に出てくる、
「ノアの箱舟」
のような大洪水が起こって、人類すべてが死滅したのだとすれば、考えられなくもない。洪水に限らず、氷河期、食糧難、そして細菌による伝染病の蔓延。
それらを繰り返して今の世界が成り立っているのだとすれば、最悪、いつ何が起こっても不思議がないと言えるではないだろうか。
さすがに三十年で、世界が死滅し、まったく違った世界を作り上げたというのは考えられない。しかし、さらに突き止めれば、これが本当に三十年後なのかも分からないからだ。
いわゆる三十年というのは、一度皆が死滅してしまって。そこから人類がまた増えて行って今のようになったのだとすれば、やはり三十年ではあまりにも短い、
ただ、人間を冷凍保存していて、何かの危機が去ってから目を覚ますような仕掛けになっていたとするならば、人類が死滅するような天変地異があったとしても、皆生き残れたという考えもある。それこそ、
「現代版:ノアの箱舟」
と言えるのではないだろうか。
ただ、天変地異がどのようなもので、生き残った人たちは、どのようにして選ばれたのか、当然人類すべてが冷凍保存できるはずもない、かなり限られた人のはずだ。
「年齢による選別であろうか?」
しかし、そうなると、老い先短い人が冷凍保存と考えると、それよりも若い人の方が社会のためになるし……。
また、年齢ではなく、
「誰が社会のために立つか?」
ということになると、その基準も難しい。
仕事のないようによるのか、ポストによるのか。
そうなると、結局は年齢と同じ発想になり、年功序列にするのか、それとも若い有望者を残すのか、それによって、かなり変わってくるだろう。
それとも、やはり最後は、カネがものをいうのか、高額納税者は優先獣医が高くなり、必然的に狭まった枠を、どう平等に分けるかが問題であろう。
「まさか、くじ引きというわけにもいくまい」
と思ったが、考えれば考えるほど、差別でしかなく、逆にくじ引きの方が不公平がないという考え方もできるのではないだろうか、
この問題は、
「すべての人を助けることはできない」
という場合の究極の選択である、
どこをどう切り取っても不公平でしかなく、いかに不満が起きないかということを考えなければいけないだろう。
しかも、このことを考えている人たちは当然助からなければいけない立場でなければいけないだろう。
まわりから文句が来る状態の立場に追い込まれて、その状態で、自分の命も保証されていないなどというのは理不尽極まりない、
「俺たちの命が保証されていないんだったら、こんな役目まっぴらごめんだ」
と言って、逃げ出すことだろう。
さすがに政府も彼らには緘口令をしなければいけない。当然政府高官も生き残るという保険を持っている。ただ、それが国民にバレルと、生き残った人たちからも世の中の再生の時に大いなるバッシングを受けるだろう。
彼らは、国家に命を救ってもらったなどと思わないからだ。どんな方法で生き残ったとしても、それなりに後ろめたさがあるからのはずである。
だから、生き残った自分たちが新しい世の中における人類としての使命を、今まで以上に噛みしめなければいけない。政治家は、生き残ったことを当たり前のように思っているので、まったく今までと違わない、
しかも、政治家は、人間を選別しなければいけない部署において、
「最終的に決められないのであれば、政党支持によって分けるのもいいんはないか?」 と、自分たちを支持する人を優先的に助けるという考えを示した。
さすがに、選別委員は開いた口が塞がらなかったが。
「我々は民主主義で選ばれた人間なんだ。過半数以上を持っているから、責任政党となり、政府の中枢でいるんだ。だから、過半数の人間はまず助けられる。その後に人たちは政党指示に比例して選べばいいんじゃない? 個人に関しては、くじ引きであったとしてもね」
と言い出す始末だ。
「隠蔽すれば、何をしてもいいというんですか?」
と抗議すると、
「じゃあ、君たちはどうすればいいと思うんだね? その案も出さずに勝手なことをいうんじゃないよ」
という。
自分で勝手に想像していることであるが、ハッとしてしまった。
「これって、令和三年の世界にいて、自分が思っていたことではないか」
ちょうど、伝染病問題が勃発していて、そのワクチン接種の順番をそうするか。
そして、そのワクチンも、どうやら、最初の一回は国民にすべて行き分かるという保証はない。三分の一が精いっぱいだというではないか。
その時に優先順位をどうすればいいかということで、さすがに政府はここまでいうことはなかったが、やっていることは露骨な贔屓であった。
「俺たち国民は、お前ら政治家が思うほどバカじゃないんだ」
と言って抗議していたが、政府は別にどこ吹く風である。
少々の批判には慣れっこなのだろう。問題は口で言われるよりも、次の選挙で過半数を獲得できるかということだけだった。
そのうちに、政治家の一人が、
「かつての投票率で優先順位をつければいいじゃないか。どうせ、政治に興味のない連中なんて、助ける必要はないんだ」
というような言い方をしている人が出てきた。
それを、何と政府は容認しているようだった。
「確かに言い方はきついが、この国で真剣に生きて行こうと考えている人を優先するのは当然のことである」
という言い分である。
さすがにそこで野党を中心とした反政府主義の人たちが声を挙げた、だが、最悪なのは、せっかく野党や反政府主義の連中が声を挙げているのに、肝心の選挙にいかなかったからと言って、見殺しにされそうになっている連中がその運動に参加しないのだ。
それでも、野党は、
「与党の攻撃は今がチャンス」
とばかりに、強行に責め立てるが、
「代替え案を出すこともせずに、何を好き勝手なことを野党さんはおっしゃっているのか?」
と言われると、バックにつくはずの、
「見捨てれる連中」
は助けてくれないのだから、野党もやる気はない。
そうなると、当然、法律は制定されてしまい、その法律はそのまま、
「有事の際の優先順位」
ということで、法案は決定してしまった。
ある意味、民主主義の発想に一番近いと言ってもいいだろう。
究極の選択なのだから、しょうがないところがある。しかも、政権与党としても、これによって投票率があがるのは、本当は翻意ではないだろう。
なぜなら、政権与党としては、なるべく投票率が低い方が、自分たちには有利であるのだが、彼らにとっても、この法律制定は、
「諸刃の剣」
だと言ってもいいだろう。
それを考えると、どちらにとっても、利益のない、
「痛み分け」
でも仕方がないと思っていたが、国民のやる気のなさが、政権維持をさせてしまうというとんでもない世の中になってしまっていた。
そうなると、ますます、
「高級市民」
であったり、
「特権階級」
の連中が、私服を肥やす時代になってくる。
そんな時代をいかに乗り越えてこれたのかが知りたいのだが、ひょっとすると、あの時を契機に、民族の滅亡がカウントダウンされたのではないかと思った。
「未来を見てみたい。それも三十年後を」
と感じた本当の理由はそこにあった。
あれだけ酷い世界が一体どうなってしまったというのか、それを考えると、三十年後が実際に存在しているのかということすら怪しいと思えたのだ。
「もし、三十年後に、日本が、いや、世界がなくなっていたら、すぐにでも、元の世界に戻ってこようとするだろうが、戻ってこれたのだろうか?」
と考えてしまった、松岡だった。
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