第6話 未来での彷徨

 そんなこともあって、兵器になるもの、肩や平和利用できるものと世の中にはその両面を持ったものがたくさんある。

 TNTであったり、ニトログリセリンなどは、有名なのは爆弾であるが、実は医薬品としても重宝される。。

 特にニトログリセリンなどは、心臓病などの人の発作の特効薬として、携帯していないと危ないという人だっている。

 そういう意味でも、まだ開発されたばかり、いや、まだ承認もされていないタイムマシンという発明品は、果たして兵器になるのか、クスリとしての平和利用になるのか、まだまだ海の者とも山の者とも分からない。

 ただ、よく言われているのは、

「タイムパラドックス」

 を引き起こして、入り込んではいけないゾーンに入り込んでしまうことで、人類の破滅を意味するという話もある。

 もちろん、都市伝説のようなものであろうが、かといって、笑い話では済まされないほどの説得力がある。

 小説やマンガの題材として使われることも多く、それだけに単純に終わらせるわけにもいかない。

 承認を得るにしても、十分なる議論と、そして運用する場合の確固たるマニュアルやトリセツの作成、そしてモラルの認識を使用する人には念を押さなければいけないだろう。倫理的にも科学的にも納得がいくまで話をしないと、使用はできないということにしなければいけない。

 当然扱える人は限られるだろうし、使うにしても、免許なども必要だろう。

 そうなると、研修や教習をするための場所であったり、先生が必要になる。ただ、そのためには先生を作る必要もあり、それを考えただけで、承認されたとしても、実用までにどれほどの年月がかかるのか、分かったものではない。

「タイムマシンを作っただけで、まだ承認されていないのかも知れないな」

 と思った。

 少なくとも柿崎研究所から、大学、そして、そこから文部科学省、そして、政府、国会へと話が行って、そこまでいくと、マニュアルやトリセツの他にも必要となるのが、その運用に関しての法律である。

 実は、これが一番重要なことで、

「タイムマシンを間違った方向に運用しないようにしないといけない」

 ということでの罰則を基準とした法律の制定が不可欠である。

 しかし、当時の腐り切った政府では、その貴重な発明を、政治家個人の私利私欲のためだけに論議しているようにしか思えない。そうなると、論議が紛糾するのも当たり前で、特許の問題や、開発費用などをどこが受け持つか、さらに大量生産を考えるのであれば、どこに委託するかの問題がある。

 少なくとも兵器になりかねないものであるから、簡単に敵外国に方法が漏れてしまっては、本末転倒である。

 そのあたりのセキュリティ感覚は、利権よりも優先しているだろうとは思っているが、それもまったく信用できないのが、今の政府であった。

「何しろ利権のために、国民の命を利権よりも低いところに優先順位を置いたという、オリンピック問題の前科がある政府だから、信用しろという方が無理なんだ。安心安全なんて、クソ食らえだ」

 と、当時の国民が皆思っていることであった。

 そんなことを考えていると、元の世界に戻らなければいけないと思った松岡はタイムマシンを隠しておいたその場所に行ってみることにした。

 あの隠し場所は、ずっと誰お立ち寄っていないように見えた場所なので、誰が気付くものかと思っていた。しかし、その予想はまったく違ったものになっていた、

 何とそこには、軍隊のような武装兵がバリケードを作っていて、鉄砲を手に持って、まわりを警戒していた。

「これは一体どういうことだ?4 まるで俺が最初からそこにタイムマシンを隠すとでも考えていて、それを待っていたかのようではないか」

 と思った。

 タイムマシンで、戻ったような気になっていたのは、こちらの世界についてから、どうやら夢を見ていたからなのかも知れない。それも眠っていて見る夢ではなく、起きていて見るという戯言のようなものだった。

 それをリアルに感じたのは、それだけこの世界が自分にとって違和感のあるものだったからなのかも知れないが、それにしても、この世界で話をした人との会話は、今までの世界で同じ目的を持った研究者とする、

「深みのある話」

 よりも新鮮だった。

 その新鮮さというのは、

「一足す一が、三にも四にもなる」

 というような、倍々を感じさせるものであった。

 話をしていて、

「目からうろこが落ちた」

 という感覚は久しぶりだった。

 タイムマシンの完成を確信した時でさえ、そんな大きな感動はなかった。むしろ、別の意味での感動だったと言えるのではないだろうか。

 タイムマシンというものが、悪にも善にもなるという考えは最初から持っていたが、

「未来の人と話をするというだけで、そこに出てくる話のすべてが、自分にとっての回答であり、甘んじて受け止めなければいけないものだ」

 と考えなければいけないと思うのだった。

 目の前で見張っている連中の前に飛び出していくわけにはいかない。あれはあくまでも、タイムマシンを確保していることで、自分をおびき出そうとしている作戦なのかも知れない。

 いくらマシンがあっても、それを使ってやってきたのは、この自分だからである。

 そこでもう一つ思ったのが、

「待てよ? あそこにいる連中は、あれがタイムマシンだということを分かって、あそこで見張っているのかな? 怪しい機械だということだけで見張っていると言えないだろうか?」

 と思ったが、そうではないことがすぐに分かった。

 あの場所にあるということは、

「過去から何かの知らせがあったことで見張っていたら、ちょうど、その場所に本当に機械があったので、驚いている」

 のではないかと考える方がよほど発想としては、スムーズで、説得力もあるというものだ。

 兵隊の服装は、自衛隊ではないようだ。雰囲気とすれば、写真で見たことのある旧日本陸軍の軍服に実によく似ている。まるで、

「未来ではなく、過去の戻ったのかな?」

 と感じるほどで、まさに過去を微妙に違った形でやり直しているような感覚だった。

 それこそが、

「パラレルワールド」

 というものの発想で、ある意味その存在を証明したくて、タイムマシンを作ったと言っても過言ではなかった。

 松岡がタイムマシンの研究に打ち込んだのは、タイムトラベルが目的ではない。タイムパラドックスや、パラレルワールドの存在を証明したかったのだ。

 いや、逆にいえば、

「タイムパラドックスや、パラレルワールドなどありえない」

 ということを証明したかったというべきなのかも知れない。

 要するに曖昧なことは嫌いなので、白黒つけたかったというところであろうか。

 ただ、松岡という男は、曖昧なところが嫌いだとはいいながら、

「決して破ってはいけない結界が、この世には存在するのだ」

 という考えも持っていた。

 その発想が松岡にとってのタイムマシン開発の原動力であり。今でもその時と気持ちの大きさは変わっていないのではないかと自分では思っていた。

 松岡は、科学や物理も好きだが、本当に好きなのは歴史だったのだ。タイムマシンの研究も、歴史好きが高じて始まったことで、

「やり始めたら止まらないのが科学の世界」

 ということを分かってしまい、タイムマシンから抜けられなくなったのだ。

 一つのことを証明するには、それ以外のことがすべて否定できれば、それを証明することができるという逆の発想もあった。

「悪魔の証明」

 などと言われるものもそうなのだろうが、詳しい話はあまり分からなかったが、後から考えると、結局のところ、

「自分の考え方は悪魔の証明にいつも近づいているような気がする」

 と考えていた、

 そういう意味ではタイムパラドックスに対しての発想も逆説という意味から、悪魔の証明に近いところがあったようだ、だが、結局は似ているとは言いながら、どこが似ているのか分からないところが、ある意味結界なのであって、

「分かっていない部分が存在することで、余計に悪魔の証明に近いことを証明しているようだ」

 と教授から言われたが、まさしくその通りなのかも知れない。

 それにしても、今のままでは、過去に戻ることはできない。

「それにしても、なぜ自分があそこにタイムマシンを隠しているということが分かったのだろうか?」

 一つの考え方としては、自分が、このまま過去に帰り、未来のことを日記か何かに書き残したとして、それが何かの理由で、のちの権力者の手に渡り、タイムマシンを手に入れようと思ったのかも知れないという考え方だ。

 しかし、自分が過去に帰って、タイムマシンの成功をまわりにいうか、承認を得ようと働きかけたとすれば、承認されれば、タイムマシンは機密ではないし、承認されなければ、国家として取り扱うことはできないはずだ。

 となると、国家転覆を狙う秘密結社が、柿崎チームがタイムマシンを密かに作っているということを分かっていて、密偵でも送り込んでいれば、そこから話が漏れて、タイムマシンを手に入れることになるのだろう、

 しかし、そのタイムマシンが何かの影響で、不具合を起こして使い物にならないと判断されれば、ただちに解体、そして永久にタイムマシン開発は封印されることになるだろう。

 だが、その陰で暗躍する秘密結社は、政府が投げ出した計画を自分たちで手に入れ、国家転覆の材料にしようとしているとすれば、話は変わってくる。

 ただ、なぜ、この時代のタイムマシンなのかが祇園であり、

「ひょっとすっると、過去に戻ってから、何かの原因で、過去のタイムマシンがなくなってしまったことから話が繋がるのかも知れない」

 と思った。

 だが、過去に戻ってタイムマシンがなくなったとすれば、今の残っているのはおかしいのではないか?

 それは、あくまでも二度目に帰った自分が、どの位置に戻ったかによるだろう。

 タイムマシンが開発される前に戻って、タイムマシンの開発に一役買ったとすれば、また話がややこしくなる。

「そういえば、タイムマシンの最終段階で、何か夢の中でタイムマシンのヒントを得たような気がしたな」

 と感じた。

 だが、そのヒントというのも、未来において、もし夢を操ることができるだけの医学的、さらに算民心理学的に、

「夢を表から捜査できるアイテム」

 が開発されたとすれば、それを利用したともい寝なくもない。

 まだ、未来に来てから少ししか経っていないので、未来がどういうところなのか分からない。

「まさかと思うが、未来の世界を自分に分からせるために、過去に戻るすべを失くしているのかも知れない」

 という、実に都合のいい解釈すらできるほどだった。

 だが、時代の流れと、時間を飛び越えることで、過去のブームを未来で見ることができたり、ブームが定期的に繰り返されるという理屈も、どこか、タイムトラベルやパラドックスに関係があるのではないかと思うのは無謀なことであろうか。

 とりあえず、過去に帰ることは、今のところ断念しないといけないようだ。ポジティブに考えるなら、

「この時代における自分の役割を考えて、知りたいと思うことを、貪欲にそして素直に吸収する気持ちを持っていなければいけない」

 と思うようになった。

 三十年後の世界と自分で確信していながら、本当にそうなのかと、疑問に感じる松岡だった。

 今のところ、

「未来にとりのこされて しまった」

 という感じになってしまった松岡だったが、さらに冷静に考えてみた。

「人生をリセットしたい」

 という考えは誰しもが思っていることだろう。

「ああ、あの時、こうしていれば……」

 というのは、人生、必ずあったはずだ、

 人生の中で、選択しなければいけないことは、一度や二度ではないはず、無意識に選択していることを考えれば、無限にあるはずだ。その日家を出る時、踏み出す足を右足にするか左足にするか。皆無意識にではあるが、選んでいるはずだからだ、

 もちろん中には意識して選んでいる人だっている、

「演技を担ぐ」

 という意識を持っている人だってたくさんいるはずだ。

 それを思うと、選択が無限にあるのだから、無限にその時に可能性があったということだ。これこそがパラレルワールドの考え方。いかにたくさんの、

「やり直しがしたい、人生をリセットさせたい」

 と思う人がいることだろう。

 タイムマシンがあれば、それが可能なのだ。

 しかし、人生をリセットするということは、さらにそこにもたくさんの可能性が秘めている。なぜなら、やり直しをするための選択肢がどれだけあるかということに掛かってくるのだが、問題はそのタイミングである。

「一体、どのタイミングからやり直せばいいというのか?」

 これは非常に大きな問題で、結果として、悪いことに繋がってしまったのであれば、その原因が生まれた瞬間からやり直すのがベストなのだろうが、確かに後から思えば、例えば右と左の選択という分かりやすい例であれば、右を選んで失敗したと思ったならば、

「リセットした時、左を選ぼう」

 と、単純に思うだけでいいのだろうか?

 本当に左を選んだだけで、いい方に転がると言えるのだろうか? 下手をすると、もっと最悪の結果が待っているかも知れない。

 そう思うと、迂闊に判断ができなくなる。リセットするということは、それだけのリスクも伴いのだ。

 さらにもう一つの懸念がある。それは、

「いつをもって、悪かったと判断するのか? つまり、間違った選択をしたのかというのを判断すればいいのか?」

 ということである。

 ひょっとすると、その段階では、悪いことではあるが、次の瞬間には、いいことが待っているかも知れない。あくまでもタイミングの問題で、結果が現れるのがいつなのかということを確信していなければ、迂闊に人生のリセットなどできないだろう。

 これと同じ理屈で、人生をやり直した時、

「やり直した人生が、正しかったのか、それとも間違いだったのかという判断をいつの段階ですればいいのか?」

 ということだ。

 判断とすれば、リセットして時間を飛び越えたその瞬間が正しいと思うしかないだろう、そう思うと、時間を元ってやり直すということが果たして正解なのかどうか、分かるはずはないとも思える。

 だが、そもそもの考え方として、

「リセットしようと、過去に戻った時、未来に起こった記憶を持ったまま、過去に戻るということができるのか?」

 ということも考えなければいけない。

 タイムマシンを使うと過去にも未来にもいけるという発想は、あくまでも、人間が都合よく考えることであって、

「タイムトラベルをしても、その記憶は持ったままタイムスリップするのだ」

 というのを、当たり前のように誰もが考えている。

 しかし、これって本当にそうなのだろうか? 過去にタイムマシンが開発されたということはないわけで、タイムスリップを実際に経験したという話が残っているわけでもない。ということは、誰も、その保証はないということだ。

 ただ勝手にタイムスリップをすると、一瞬にして、未来であったり、過去出会ったりに移動するので、意識もそのままだと思っているだけだろう。だから、過去に戻ることでリセットできると思い込んでいるのだろうが、それはあくまでも小説やマンガの世界では、

「こういう発想の方が面白いし、テーマにはなるのだ」

 と考えることだろう。

 タイムスリップというのは、大いなる危険を孕んでいる。それがタイムパラドックスという発想で、

「過去に行って、歴史を変えてしまうと、ビックバンが起こり、世界が消滅してしまうのではないか?」

 などという究極の発想が生まれたりするのであろう。

 だが、過去に行ったことで、未来における記憶がなくなってしまい、自分が過去にいることになんら違和感がないとすればどうだろう?

 この場合は、過去に存在している自分に置き換わってしまう。あるいは、乗り移るという意味になるのだが、つまりは、タイムマシンで過去に行った瞬間、そこからその人は、過去に飛んだ瞬間と、過去に戻って、元の自分に乗り移るという瞬間を絶えず繰り返しているということになるのだ。

 そういう考え方をしてしまうと、タイムマシンというのは、限定的な機械だということになる。

 どういうことかというと、

「タイムマシンで移動できる範囲は、自分が存在している時間しなない。つまり、乗り移る自分が存在していなければ、タイムマシンは移動することができない」

 という考え方だ。

 これにはかなりの無理があるだろう。だが、タイムパラドックスということを考えれば、こちらの方が実に自然なことなのだ。

「もう一人の自分と会ってはいけない」

 などという縛りもないし、過去を狂わすにしても、未来を知らないのだから、そこに罪はなく、変わってしまったとしても、それも運命だということになるのではないか。それが本当のパラレルワールドという発想だとすれば、ごく自然に受け入れることができるだろう。

 もう一人の自分が存在するということを、いわゆる、

「ドッペルゲンガー」

 というのだが、ドッペルゲンガーの存在するパターンがいくつか研究されているのだが、その中に、

「ドッペルゲンガーは、実態である本人の行動範囲以外の場所に、決して現れることはない」

 と言われている。

 これも、今の説を考えれば、納得のいく考えではないだろうか。

 ドッペルゲンガーの発想も、タイムスリップの発想も、要するに、自分が存在得た場所にしか現れることができないのだ。

 ドッペルゲンガーという発想がどこまで信憑性のあるものなのか分からないが、すべての人に起こっているわけではない、タイムスリップがもし、横行している中での一部なのだとすれば、それは過去の自分に戻ることのできなかった失敗が、最悪な結果を生んでいるのかも知れない。

 そもそも、過去に自分が戻ってくるという発想は夢で見ることであり、正常に戻ってくることができたその時には、未来の自分が乗り移って、その瞬間に、夢のこともドッペルゲンガーのことも忘れてしまうのではないか、失敗した時だけ記憶に残っているので、

「ドッペルゲンガーを見てしまった」

 ということが、恐怖で残ってしまい、言われている通り、タイムパラドックスを起こしてしまい、死に至るという考えは無理なのだろうか?

 そう考えると、

「ドッペルゲンガーの正体は、タイムスリップの失敗によって引き起こされることだ」

 と言えるのではないだろうか。

 ただ、そのタイムスリップもどのようにして起こるのかということが、一つの問題として残ってくる。

「タイムマシンのような、人間の発明品によるものなのか、人間の中に潜在している、能力、いわゆる超能力によるもので、しかもそれは無意識に起こるものなのではないのだろうか?」

 という考え方が生まれてくる。

 いや、この考え方は、タイムマシンを作っている間に、生まれてくる発想ではないか。松岡もその発想をどこかで感じたはずだった。

 今思い出してみると、それはタイムマシンの開発を始めた最初の頃ではなかったか、それを思うと、松岡は、

「そんな風に最初に思ったことなので、いまさらのように感じていることなのではないだろうか?」

 と思うのだった。

 タイムマシンというのが、開発されようがされまいが、タイムスリップを無意識に繰り返しているのが人間であるとすれば、ある意味タイムマシンの開発というのは、あまり意味のないことだったのかも知れない。

「過去の科学者の人は皆そのことを危惧していたのではないか?」

 と、いまさらながらに気づいた松岡だったが、彼はそのことに気づく前にタイムマシンを開発し、運用してしまった。

 これは、

「タイムマシンの開発が早く、それだけ頭がよかったと見ればいいのか、それとも、タイムトラベルの本質に気付かなかったことが招いた勇み足ということで、気付かなかった頭が、悪いということなのか、それは五十歩百歩の考え方で、どちらをとっても結果同じことになってしまうのだろう」

 と考えてしまう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る