第3話 未来の世界

 未来にきたはいいが、ここがどこなのか、どういう時代になっているのか、創造もつかなかった。とりあえず、タイムマシンをどこかに隠さなければいけなかったが、ちょうどついた場所がよかったのか、洞窟のある場所だった。

 よく考えてみると、大学の近くの洞窟の近くで、タイムマシンを使って未来に来るにふさわしい場所だということだったような気がする。確か洞窟は、昔の防空壕の跡だという話であった。

「まさか、三十年後の未来にまで、この洞窟が残っていたなんて」

 と思ったが、洞窟のまわりは、すっかり変わっていた。

 だが、その様子を見ると、その場所が昔と変わらずに残っているのがなぜなのか、分かった気がした。

 県の文化財になっているようだった。立札が掛かっていて、立入すらできないようになっているようだった。

 しかし、背に腹は代えられない。県指定くらいであれば、大丈夫だろうと思って、タイムマシンを隠した。

 このタイムマシンは、テレビのSF映画に出てくるようなものに近いオーソドックスなもので、まるでヘリコプターのコクピットのようなものだった。設計段階で、この形が一番いいだろうと、この形に速い段階で決まった。

 メカの構造よりも先に外観が決まった科学的な装置というのも結構あるが、まさかタイムマシンがそういう形式になろうとは思ってもみなかった。

 一応、操縦はできるようになっているので、小さなキャスターを出して、そこから操縦して、洞窟に収めた。まるでタイムマシンを隠すように作られたかのようで、大きさもちょうどよかった。

 隠し終えると、街に向かって歩いて行った。街は完全に変わっていて、マンションのようなものはほとんどなかった。企業のビルもないせいか、ほとんどが二階建ての一軒家ばかりになっていた。

「人口が減ったのかな?」

 と思いながら歩いていると、その向こうから、一人の女性が歩いてくる。

 服装はと見ると、未来の服なので、宇宙服のようなものを想像していたが、そんなことはなかった。

 逆にどちらかというと、ファッション雑誌の中の特集で載っている、

「ファッションの歴史」

 を見ているようだった。

 あの服装や髪型は、以前ファッション雑誌に載っていた、いわゆる、

「八十年代ファッション」

 と呼ばれるものだった。

 時代としては、昭和の終盤に近いファッションで、自分がいた時代から、三、四十年くらい前の世界と言ってもいいだろう。

「ということは、この時代から見れば、七十年ほど前ということになるな」

 と考えると、今度は自分たちがいた時代のさらに七十年前を想像してみた。

 昭和でいうと、二十年代後半というところか、まだまだ戦後の混乱が続いていて、まだ家もない人がいた時代であろう。お隣の朝鮮では、ドンパチが起こっていた時代。日本はGHQ占領下で、独立を模索していた時代だったと言えよう。

 もちろん、ファッションなどあまりなかった時代、米軍などの駐留兵が幅を利かせていて。瓦礫やバラックの中をジープで走り回り、ポツポツとできている、キャバレーなどに日本人の女性をしたがえて、入って行く光景がドラマなどで、よく見られた気がした。

 さすがにそんな時代のファッションが、また流行るということはなかっただろうが、自分がいた時代には、

「ブームは一定周期で繰り返す」

 と言われていた。

 たぶん、自分たちがいた時代のファッションも、昭和のどこかの時代を繰り返していることであろう。そして、時代は巡り巡って、未来のこの時代に、八十年代を再度流行らそうとしているのかも知れない。

 八十年代のファッションには、一長一短があり、あまり好きではないファッションもあれば、気に入っているファッションもあった。ずっと大学の研究室に籠って、研究ばかりしていると思われがちだが、実はそうではなく、ファッションの歴史など、それ以外の歴史も本を読んだりして研究していたりした。

 ファッションだけではなく、町全体が何かレトロブームを感じさせた。しかも、そのブームは八十年代に限ったことではなく、微妙に時代がずれているようにも感じた。それは別に歴史を知らないからというわけではなく、知っていてわざとやっているのではないかということを思わせた。

 それにしても、街の中にはアンティークショップの多いこと、そして、その店頭にはオルゴールが置いてある店が多かった、

 アンティークショップの他に目立つのは、スーパーに、コンビニ、そしてファーストフードにファミレスだった。逆にそれ以外の店を探すのも大変なような気がするくらいだった。

 しかし、街並みは明らかにレトロな雰囲気であったが、インフラは発達しているようだった。

 道路は現存しているが、空中には、未来予想図鑑に載っていた空中のパイプが存在していて、そこの中間点となるところにはビルのような建物が乱立している。ただ、それはあくまでも中間地点だけで、民家はあくまでも一軒家を形成していた。

 一つ気になったのは、あまり表を歩いている人がいないということだった。一体これはどうしたことなのだろう?

 歩きながらまわりを見渡していると、空中を通る車はそこそこいたが、地上の道路を走る車はいなかった。

―ーいったい、どういうことなんだ?

 と、松岡はあまりにも想像とかけ離れた未来だったので、本当にこれが自分たちの未来なのかと思うと、一瞬パラレルワールドを想像し、間違った未来に来てしまったのではないかという妄想に駆られた。

 これh最悪のシナリオも考えられる、

 それはなぜかというと、

「もし、パラレルワールドの違う未来に来てしまったのだとすると、もし、元の世界に帰る時、そのまま帰ってしまっては、違ったパラレルワールドの違った過去に戻ってしまうことになり、自分がいた世界とは違うところに飛び出してしまう可能性があるのではないか?」

 という考えであった。

 もし、それは間違っていなかったとすれば、戻った世界には、もう一人の自分がいることになるのだが、大丈夫だろうか?」

 それを考えると、

「この世界に、もう一人の、というか未来の自分は本当にいるのだろうか?」

 と感じられた。

 これはタイムスリップなどで言われていることとして、時間を超越した時に、

「もう一人の自分に出会うということも、タブーである」

 と言われているではないか。

 それを思うと、本当はあまりウロウロするのもいけないのかも知れない。

 しかも、ここは三十年後の世界、普通に考えれば、結婚して子供もいておかしくない時代、際十歳で子供ができていれば、今の自分と同い年のはずである。それを思うと、

「三十年後の未来というのは、タイムトラベルの実験としては、中途半端であり、選択を間違えたのかも知れないな」

 と感じるのだった。

 タイムトラベルをするために、タイムマシンを開発した。皆が開発することに必死になっていて、思った以上に完成してしまった時に、恍惚の精神状態に陥り、他のことを考える余裕がなくなってしまったのかも知れない。

 冷静に考えていれば、こんな変な時代選択などしなかったのではないだろうかと思うのだが、確かに三十年後の未来は、大きく変わっているか、それほど変わっていないかのどちらかではないだろうか。

 松岡は街並みをゆっくりと見ながら、最初は一つの店を角度を変えながら見ていた。それはファミレスであり、店の中を見ると、結構人は入っていた。

 時間的に見ると、ランチタイムの時間であり、会社員のような人が多いような気がした。

 だが少し気になったのは、ファミレスにいくつかの違和感があったからだ。

 まず中を見ると、テーブル席が異様に少ない気がした。その代わりにカウンター席か、テーブル席があっても、二人掛けの席が多かった。

 だからと言って、席がたくさんあるというわけではない、無駄にスペースが広いという感じがして仕方がなかった。客が多いと言っても、そのほとんどは単独の客ばかりで、喋っている人が皆無に近いのは、違和感以外の何物でもなかった。そういう意味で、店舗の雰囲気が、

「まるで、ファーストフードのようではないか?」

 というものであった。

 そしてもう一つ気になったのは駐車場で、駐車場はファミレスとしては普通くらいの広さなのだが、そこに車は数台しか止まっていない。これだけの客であれば、駐車場はせめて半分くらいは埋まっていないのはおかしな気がするのだった。

「やっぱり何かがこの時代にはおかしなことになっているような気がする」

 と感じていた。

 それに中を見ていると、喫煙室もなかった。

 自分がいた令和の時代には、受動喫煙防止法が制定され、喫煙場でしか吸ってはいけないという法律ができていた。そのせいもあってか、表の路上喫煙なども目立っていて、最初の頃は、

「こんな法律、どんな意味があるというんだ」

 と思っていた。

 三十年経った今。その法律はどうなってしまったのだろう?

 と、そんなことを思いながら、フラっと入ったファミレスで、注文をしてみることにした。

 席に座ると、ウエイトレスの女の子がメニューとお冷を持ってきてくれた。その様子はあたかも、昭和のレトロさを感じさせる。制服も見慣れたもので、二十一世紀初頭くらいのものではないかというイメージがあった。

 いらっしゃいませ。メニューをどうぞ」

 と言って、メニューをおいてすぐに、戻って行った。

 それを見て、松岡は、ハッと思った。

「そういえば、確か、令和七年か八年には、お札が新しくなるんじゃなかったっけ?」

 という思いだった。

 三十年も経っているのだから、もう一度くらい、お札の柄が変わっていても無理もないことだと思ったが、そう思って思わず、財布を開いて見てみると、そこには、見たことのない、いや新しいというべきなのか、肖像画の書かれたお札が入っているではないか。

 そういえば、タイムマシンの研究とは別に、未来に行った時に順応できる環境を自分の中に持つことができるものを開発していた人がいた。

「そんなことが可能なのか?」

 と聞くと、ニコニコしながら、

「タイムマシンを作るよりも簡単なんじゃないかと俺は思っているんだ。何しろ、タイムマシンのようにいろいろな制約はないからな」

 と言っていたのを思い出した。

 財布の中の肖像画に描かれている人を見ると、あまり普通は知られていない人が多かった。

 きっと政府から発表があった時、

「誰だ、これは?」

 という風に世間はなったのではないかと思えた。

 令和三年までのお札の変革の経緯を思うと、確かにお札に描かれている人の質がどんどん落ちているというか、歴史上、これって誰なんだ? というイメージを持たれる人が増えてきた気がした。

 政治家よりも文化人が多くなったというイメージだったが、歴史を勉強している松岡には、そのお札の種類によって描かれている人物が誰なのか、分かっていたのだった。

 まず一万円札の描かれている人物。何と昭和天皇ではないか。歴史の教科書に載っていたその顔そのものである。

 ただ、さすがに、令和三年という時代であれば、まだ歴史上の天皇というイメージではないだけに、少し違和感があった。

「どうして、よりによって昭和天皇なのだ?」

 という印象が深かったのだ。

 五千円札をみると、そこに描かれている人物。これこそ、さらにビックリなのは、何と東条英機ではないか。かつての大東亜戦争を引き起こしたと言われる元首相兼陸軍大臣を主とした数々の大臣兼任者であった。

 何といっても、参謀総長を兼任したことで、独裁とまで言われたのだが、それは歴史の事実とは少し違っているように思える。

 そもそも、旧陸軍(海軍にも言えることだが)というのは、明治政府によって作られた「大日本帝国」

 という立憲君主の国では、そもそも、藩閥政治の名残からか、薩摩長州の息のかかった人たちが政府の中枢にいたことで、成り立っていた。

 したがって、軍部の力が一極集中しないようにということも考えた軍の構成になっていたのだ。

 その例として、陸軍などは、大きく二つに分かれていた。一つは陸軍省で、もう一つは参謀本部であった。

 陸軍省というのは、省という言葉がついているように、政府の一環である。そして、参謀本部というのは、憲法の中に明記されている、

「天皇大権」

 というものがあるが、そこには、天皇の統帥権として、

「陸海軍は、天皇に統帥す」

 と書かれていることもあって、あくまでも天皇直轄なのである、

 したがって、政府の一環である陸軍省は、あくまでも政府の下ということであり、統帥権の下の参謀本部には逆らえない。

 だから、総理大臣や陸軍大臣と言えども、軍の決めた作戦ややり方に口を出してはいけないのだった。

 参謀本部の参謀総長は、陸軍としての最高位である。したがって首相や陸軍大臣が何かをいうのは、天皇の統帥権を干犯していることになり、憲法違反ともなるのだ。

 そして、憲法に規定はないが、このような政治体制であることから、

「陸軍大臣と、参謀総長を同時に歴任してはいけない」

 という慣習があったのだ。

 ここが、明治時代に作られた法律の問題点だったのだろうが、しかし、もし陸軍大臣と参謀総長の歴任を認めると、確かに軍での独裁に繋がるという意見ももっともなことだったのだ。

 そんな歴史があったのだが、不幸にして大東亜戦争に入ってしまった。時の首相で陸軍大臣であった東条英機は、本来であれば、

「戦争責任者」

 として戦争を指揮する立場にあるのだが、この統帥権問題から、

「軍の方針に口を出してはいけない」

 ということから、作戦は教えてもらえず、さらには意見もできない立場で、何が戦争責任者と言えるのだろうかということになる。

 ただ、本当の戦争責任者は、あくまでも国家元首である天皇だ。宣戦布告の詔だって、署名は昭和天皇、その下に日本政府の首相を中心とした各大臣が列挙されているだけのことだったのだから、名実ともに戦争責任は天皇にあると言っても過言ではないだろう。

 そのため、東条英機は天皇に直訴し、

「今は緊急事態で、国家の存亡がかかっています。今回だけの特例として、陸軍大臣と首相、そして参謀総長の歴任をお認めください」

 と言ったが、天皇は、

「それで、独裁のような体勢にはならないか?」

 と念を押したところ、

「それは問題ありません」

 と答えたことで、彼の目的は達成され、やっと、戦争を自分の手で指揮できるようになった。

 しかし、事態はすでに手遅れだった。政府ですら知らない酷い惨状を、大本営に入ってしまうと、

「何だこれは? こんなにも酷い惨状になっていたのか?」

 と驚愕したのも無理もないことだろう。

 しかし、何も知らない、半東条英機派と言われる連中は、東条下ろしに躍起になっていて、暗殺計画もたくさん計画され、その一部が露呈し、計画した連中は戦場の最前線に送られることで、結果的に、皆殺されることになった。

 だが、実際にはその前に東条内閣は総辞職していた。その際に、参謀総長も辞任して、第一線から遠のくということになってしまった。

 ここから先はいかに、戦争を被害を小さく収めることができるかということに掛かっていた。

 だが、ここまで濃く見にゃ軍部を煽ってきた政府に戦争を辞める機運を高めることは無理だった。

「一億総火の玉」

 などと言われて、一兵となっても戦い続けるという教えの下、日本国のほとんどが焦土となった悲惨な時代だったのだ。

 何とか日本民族の滅亡だけは逃れることができたのだが、この頃の政治家を悪く言えるかどうかは難しいところである。皆が皆、国家を憂いて、国家のためだけを考えていたのだ。令和三年の政治家に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいである。令和三年の政治家は、皆国民の命などどうでもよく、自分の利権だけのために、国民を見殺しにし、日本民族が滅亡しようが自分には関係ないと思っている連中ばかりだったからだ。

 要するに、昔の政治家と今の政治家(令和三年)とのどこが違うのかというと、一番大きいのは、

「説得力の有無」

 ではないかと思うのだ。

 確かに戦時中、戦前の日本は、国家に縛られ、今のような自由はなかったかも知れない。しかし、それも、西洋列強の国から植民地のようにされて、清国のように、国をメチャクチャにされないようにするのが、明治政府からの国家としてお目的だった。

 不平等条約の撤廃などを目標に、殖産興業、富国強兵を掲げ、日本という国は、戦前では国家としては、アジアの中でも有数の国家だった。

 だが、今の時代はどうでろうか?

 終戦後に朝鮮戦争などの特需によって、国が復興できたおかげで、先進国に仲間入りができるまでになった。

 そんな国家でも、戦前の日本という国は、科学力では世界有数と言われるほどであったりした実績がある。

 ただ、日本という国が島国であることも一長一短があった。

 日本という国は島国であり、地理上の問題もあって、植民地にならなかったという意味での島国でよかったという発想もあれば、安全保障上、朝鮮や満州に進出する必要があったということと、もう一つ、満州事変の一番のきっかけだと言われる、

「人口問題」

 があった。

 昭和初期の日本は、人口が爆発的に増えてきて、さらに東北の不作などがあり、とても日本の国土だけでは国民を養っていけなかった。

 しかも日本は資源にも乏しい国であったこともそれに輪を掛けた。

 そこで考えたのが。

「満蒙問題解決に、日本の人口問題を結び付ける」

 ということだった。

 日本人の農家などでは、

「娘を売らなければその日の暮らしもできない」

 と言われたほどに、ひどかったのだ。

 そこで目を付けたのが、日露戦争で手に入れた満州の権益だった。

 ここは、当時は満州鉄道と、そのまわりの架線付近にしかなかった権益を、クーデターによって、満州全土を日本の権益の及ぶところにしてしまい、そこに国民を送り込むことによって、人口問題と、満蒙問題を一気に解決しようという考えであった。

「満州には、まだ未開の土地がたくさんあり、そこには豊富な資源が眠っていて、今満州に渡れば、開拓した人のものになる」

 などという宣伝をされれば、開拓者精神に目覚める人も多く、

「どうせ日本にいても、飢え死にするか、一家心中するしかないわけなので、満州で一旗揚げよう」

 と言って、長男ではない、家を継ぐ必要のない人が、満州に流れていったのだ。

 のちに、

「五族協和」

「王道楽土」

 などというスローガンによって築かれた満州国の礎となった人たちが渡っていくことになるのだ。

 五族とは、

「日本、満州、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族」

 のことで、当時の日本のスローガンであった。

 ただ、実際には満州というところは、耕しても畑にならないような土地で、しかも、作為時期は、零下何十度という極寒の土地でもあったのだ。ただ、それでも彼らは楽土を目指し、頑張っている。それが日本人の日本人たるゆえんなのかも知れない。

 日本の大陸への進出は、あくまでも、

「アジアから白色人種を駆逐して、アジアに大東亜の共栄圏を作り上げよう」

 というスルー癌があった。

 だから、かつての戦争は、

「太平洋戦争」

 ではなく、

「大東亜戦争」

 なのである。

 どうして大東亜戦争を使わないかというと、占領軍の方とすれば、大東亜共栄圏をスローガンとしてしまうと自分たちが侵略したことを認めることになるから、大東亜という言葉自体を抹殺したいという考えがあったのだろう。

(だから筆者はこの作品に限らず、これまでの作品なども、すべて大東亜戦争と記すことにしている)

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