第2話 未来の世界
今から行く世界は、
「きっと夢に見たことのあるような世界なんだろうな・」
という思いが強かった。
だが、一つ気になっていることがあった。それはタイムマシンやこれから行く未来のことではない。いわゆる、
「タイムパラドックス」
についての懸念であった。
というのも、
「タイムマシンを作ってから未来に行ってみる」
ということを考えた時、それまでは考えてもいなかったことがいろいろ頭に浮かんできたのだ。
それまでは、もう少しでタイムマシンは完成すると思っても、実際に完成するまでは完全に他人ごとだったということを身に染みたからである。タイムマシンが現実になると、それまでになかった発想がいろいろ出てくる。そういえば、子供の頃の夏休みの宿題であったり、大学になっても、レポート提出や、試験勉強などはギリギリにならなければやらなかった。
「俺はギリギリになってから力を発揮するタイプなんだ」
と自分で言っていたが、まさにその通りだった。
そんないろいろな発想の中でも一番気になったのが、
「どうして、今まで自分たちの前にタイムマシンでやってきたと思しき未来人が現れないのだろう?」
という発想であった。
未来人が現れれば、実際にタイムマシンが未来において開発されるという証明となるのだ、その証明を示したくないという力がどこかで働いているのか、タイムマシンを開発した時に、
「過去に行って、タイムマシンの存在を明かしてしまってはいけない」
という決まりができたのか。
とにかく、タイムマシンができるということは過去の世界において、知ってはいけない事実だということなのであれば、理屈は分かる。
さらに、タイムパラドックスにおいて、
「過去を変えてはいけない」
という考えの下、余計にタイムマシンの存在を示してはいけない。
逆に考えると、タイムマシンの存在を知らせたくないという考えから、過去の人間に、
「過去に行って、歴史を変えてしまうと、何が起こるか分からない」
という知恵をつけたのかも知れない。
定説ではあるが、あくまでも都市伝説である。どこまで信頼できるものなのか、分かったものではない。
それを考えると、
「タイムパラドックスというのは、未来人によるマインドコントロールなのではないか?」
という考えも出てくる。
その考えもタイムパラドックスがよくできているだけに、マインドコントロールという発想もよくできていると言えるのではないだろうか。
過去に行くことはタブーだと思っていたが、果たしてそうなのか。未来に行くことの方が安全なのか。何とも言えない。
過去というのは、実際に書物などが残っていて、ある程度の過去までは証明されていると言ってもいいが。未来に関しては。この瞬間よりも先は何の保証もないのである。
「未来に飛び出してみると、世界はなくなっていた」
という笑い話のようなことが本当かも知れない。
その場合、何もない世界に飛び出すことはできるのだろうか?
何もない世界に飛び出すことができず、その反動で、元の世界に戻ってこれればいいが、まったく違った世界に飛び出してしまわないとも限らない。しかも、場所が違っていれば理解できない世界に飛び出すことになる。時間を超越することができても、出てくる場所までは特定できないところが難しいところであった。
そんなことを考えていると、タイムパラドックスに対しての意識は薄れていき、それよりも、未来に飛び出せるかどうかが気になるところであった。そういう意味で、いつの未来に飛び出すかというのも問題であったが、一度実験をしてみるのもいいのではないかと考えたのだ。
つまり、ごく近い未来に飛び出して、本人は、
「時間を超越した気持ちはないのに、気が付けばセットした時間の分だけ時間が過ぎていた」
という考えである。
それは短すぎても時間を超越したのかどうか実感がないし、長すぎると、実験としては広すぎるだろう。とりあえず、一日後の同じ時間に飛び出すことにしてみた。
一つの疑問は、飛び出した場所に、もう一人の自分がいるのかどうか、ということである。
「自分というのは、元来一人であり、それぞれの世界に自分がいると思うのは、その時間を飛び越えているからで、自分だけが飛び越えているのであって、他の人はそれぞれの世界に存在しているのではないかというのは、無理のある発想であろうか」
ということを考えれば、飛び出した世界に自分はいないことになる。
それを証明するには、飛び越えた先の時間で、飛び超えた瞬間から、飛び出した瞬間まで、自分を見た人がいないということを証明すればいいと思っている。一人でも見たという人がいれば、その発想は根本から崩れ去り、飛び出した瞬間にも、そこから先の時間にも、自分というのが存在しているという考えだ。
松岡は、
「この発想には無理がある」
と思っている。
同じ世界の同じ次元にもう一人の自分が存在するという発想、これはドッペルゲンガーという発想である。
しかも、このドッペルゲンガーというものは、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死んでしまうことになる」
という都市伝説がある。
つまりは、
「ドッペルゲンガーというもの自体がマインドコントロールではないか?」
というものであり、タイムマシンでの時間旅行をさせたくない見えない力が、ドッペルゲンガーという発想を人間の心に抱かせているのではないかという考えである。
タイムパラドックスにしても、ドッペルゲンガーにしても、もしそれがタイムマシンへの警鐘であるとすれば、今までの科学者には、皆それぞれに警鐘が存在したということであろう。しかも、ここまでリアルな発想を考えると、
「過去にもタイムマシンを作られた形跡があるのではないか?」
というものがあった。
昔見たSF映画で、タイムスリップに巻き込まれ、過去に行った人が、最後には未来のもとの世界に戻ってくるという話であったが、過去に行ってから、行方不明になった人が元に戻るタイムスリップに間に合わなかった。そのまま過去に取り残された形である。
その期間が三十年くらいのものだったのだが、そもそも最初に過去へのタイムスリップも、
「何やら仕組まれている感覚があった」
という人がいた。
実際にはその人が行方不明になったのだが、未来に戻ると、それを仕組んだと思しき富豪の夫婦がいるのだが、その人は正体不明の国家機密に当たる人だという。しかし、未来(つまりは現在)に戻ってきて、
「あなたにお会いしたい人がいる」
と言われて、その人がこの事件を画策した富豪だという。
「お久しぶりですね」
と言って微笑むその人は、何と、過去で別れてしまった人物が、年を取った姿だった。
「募る話はいくらでもある」
と言って、富豪はボーっとしている主人公を高級車に乗せて、そのまま富豪の家に去っていくというラストシーンであった。
その話を今思い出していた。
正直その話を見て、タイムマシンに興味を持ったのだ。それを今思い出してみると、
「この状態も、あの時の映画のように、最初から仕組まれていたのではないだろうか?」
と思わせる。
一つが仕組まれていると思うと、その繋がりになるものは、すべてが見えない糸で繋がっているとしか思えなくなり、映画と言って、バカにできるものではなく、そもそも小説のネタにタイムマシンも、ロボットもあったわけではないか。どこまでが、自分の考えによるもので、どこからが、仕組まれたことなのか、考えるだけで恐ろしくなってくるのだった。
その映画がタイムマシンに興味を持つ一つではあったが、それだけではなかったようあ気がする、
それは体験談と言っていいおか、子供の頃に夏休みになうと、おばあちゃんの家に遊びに行ったものだ。
今から二十年前なのに、田舎のその風景は、まるでテレビで見た昭和の頃の下町を思わせる街並みであった、友達になった同じ小学生の子供の家は結構大きな家で、家には蔵が残っていたり、昔の農家を思わせる納屋のそばに旧家があったが、そのすぐ横に、都会でもあまり見ることのできない豪邸が聳えていた。何と言っても蔵があるのはビックリしたが、
「一度遊びにくればいい」
と言ってくれたので、
「どこが見たい?」
と言われて、すぐに、
「蔵が見たい」
と言ったことに、友達は苦笑いを浮かべ、
「いいよ」
と言ってくれた。
「いきなり蔵が見たいという人も珍しいのでビックリしたけど、珍しいのかい?」
と訊かれて、
「珍しいというのもあるんだけど、なぜか懐かしさもあるんだ。一度も見たことがなかったはずなのに、実際に入ってみても、懐かしさを感じる。しかも、ケガをしたという感覚があるんだけど、でも、これって未来に起こることを予知しているかのような気がするので、今日はよほど気を付けておかなければいけないと思うんだ」
というと、
「それは予知夢のようなものかな? 僕も予知夢というのは信じる方なんだけど、実際にあるとすれば、どれくらい先のことを予知できるんだろうね?」
と言われて、
「ハッキリとは分からないけど、個人差はあるだろうね。僕の中では、十年くらいがいいところではないかと思うんだけど、これもハッキリ言って、漠然とした考えなので、曖昧なんだけどね」
と言った。
予知夢というのは何となく信じられるような気がしていた。
そもそも、このような時間の捻じれであったり、タイムマシンに絡むような話は、意外と似たところからの発想であったり、発想自体がどこかで繋がっているように感じられるので、どれか一つが信じられると思うと、他のことも信じられるような気がしてくるし、逆に信じられないと思えば、他のことも信じられない。信じられることであっても、信じられないことであっても、そこには、必ずそれを証明する根拠のようなものが存在するに違いない。
だが、予知夢というのは他の話を信じられないと思う中で、これだけは信憑性を感じるのは、自分にも経験があるからだろうか?
その時にいつも決まって思うのは、
「予知夢というのは、いつも後から思うと、見るべくして見た」
と思うことだった。
予知夢などというのは、最初から見ようと思ってみるものではない。
「今日は予知夢を見よう」
と思いながら眠ったことなど一度もなかったのに、実際に現実として起こったことを見た時、
「これって予知夢だよな」
と思ったのだ。
現実に起こったことが、まるで夢のことのように思えてくる。それが自分にとっての予知夢なのだが、予知していたことを思い出した瞬間、その予知夢は、見ようとして見た夢だったような気がして仕方がなくなる。
だが、またしばらくして、見ようと思ってみたわけではないということを意識している自分に気づくのだった。
きっと、その瞬間だけ、見ようと思って見たものだと思い込まされているような気がするのだ。
つまりは、見えない何かの力によって、マインドコントロールされているというか、意識の中に植え付けるものがあるということ。
もちろん、そんな力が存在するとしても、その力が自分に何を及ぼすというのだろうか?
誰かにコントロールされているとして、コントロールする人のメリット、そして、なぜ自分なのかという疑問。そのあたりが分かっていないと、予知夢自体に信憑性を感じる自分が信じられなくなる。
「まさかそれが狙いではないか?」
信憑性をわざと抱かせて、それを理論的におかしなものだと思わせることで、予知夢というものを本当に信憑性のあるものだということを理論的にも導くためという回りくどいやり方をされているのではないかという思いもあった。
そう思った時に、それを自分に対して行うことのできる、そしてメリットを感じられる人間がいるとすれば、
「もう一人の自分」
ではないかと思うのだった。
タイムトラベル、タイムパラドックスという概念からであれば、もう一人の自分というものの存在は考えられなくもない。それぞれの脆弱性を補うために、自分に思い込ませることで、もう一人の自分は、その存在とタイムパラドックスを証明しようとしているのではないかと考えたことだ。
「もう一人の自分の存在」
という考えは、松岡以外でも結構たくさんの人が感じていることなのかも知れないが、どのほとんどは信憑性など持っていない。
「本当にもう一人の自分がいたりすれば、怖いではないか」
と誰もがいうだろう。
それは、やはりドッペルゲンガーの都市伝説を信じているからだ。ドッペルゲンガーの都市伝説は、意識はさせても、それを信じさせないというストッパーという意味で、非常に重要なものではないかと、松岡は考えた。
松岡は、
「タイムマシンというものには、限界がある」
と考えている。
限界があるのはむしろ、タイムマシンだけではなく、パラドックスにもタイムスリップというものにも限界を感じている。それは、あくまでも思考部分においての限界であって、実際に存在するものであるとするならば、その時初めて限界を感じないものとして証明されるのではないかと思っているのだ。
タイムパラドックスも、タイムスリップも、その原点は、
「無限ループ」
にあるのではないか。
無限にループするから、止まることがなくて、限界がないように思えるのだが、ループということは必ず、どちらかには境界があって、そこでクルッと回ってくるものである。それが結界であるのか、見えているのに見えないという、
「路傍の石」
のようなものなのか、それが意識として理解できないものになっているのではないかと思うのだ。
考えれば考えるほど、視界が狭まっているような気がする。その時、
「焦点が絞れてきたので、核心部分に近づいてきている」
と普通であれば考えるであろう。
近づいてきて、ハッキリしていることには違いないのだが、それが、本当に核心なのかどうか、誰が証明できるというのか。
そこからまたしても無限ループに突き進んでいくようであれば、初めて、狭まった環境が、意識の中の限界だったのではないかということを感じるだろう。
すべてが、過ぎ去った後で感じることだ。
予知夢を見ようと思っていて、それで見たことなのだという意識だって、後から感じるものではないか。
要するに、何かの発見というのは、そのすべてが、
「辻褄合わせ」
ということではないだろうか。
松岡は、デジャブという現象まで、辻褄合わせによるものだという独自の考えを持っている。
本当は見たことがないはずのものを、見たことがあるかのように思ってしまったことの辻褄を合わせるために、自分の記憶や意識の中から、辻褄を合わせるためのものを探してこようとする。その行動が、
「後付けによる辻褄合わせではないか」
と思うことが、信じられないという思いを、
「不可能を可能にする第一歩だ」
と思っているのだった。
夢の中で見た未来の世界。
そこは、最近見た。
「未来予想図鑑」
に乗っていた内容だった。
その図鑑というのは、馴染みの喫茶店に置いてあったもので、その喫茶店のオーナーが、柿崎研究所のメンバー御用達だったのだ。そのオーナーというのは、元、SFマンガ家だということであった、実際に未来のマンガや、ロボットに支配される世界を描いたマンガだったが、他のマンガ家と違っていた。道徳っぽさはなく、かといって、過激な感じでもないその作風は、読む人に、
「謎を秘めた作品が多い」
と言わしめた。
彼の図鑑は、マンガを元にして書かれているものが多かったのだ。
そもそも、どこが謎なのか、そのあたりから分からないようで、未来の想像図も、他の人が描く絵とそんなに違いがないように見えるのに、何が違うのか、実は分かってしまうと、
「こんなに分かりやすいものはない」
と言わしめるだけのことはあった。
松岡はもちろん、柿崎研究所の連中はほどんど気付いている。そのうえで、
「なんで、皆気付かないんだろうな? 間違え探しの絵でもないだろうに」
と言っていた。
さらに、他の人は、
「一つ一つ見ていれば分かるのに」
と言っていたが、松岡は、
「だから分からないのさ。未来というと、普通に考えればあるはずのものがないのに、そこに違和感がないんだ。これが、この絵の秘密なんじゃないのかな?」
ということであった。
「あるはずのものはない?」
と言われて、初めて気づく人もいた。
「ああ、なるほど、なんで気付かなかったんだろう?」
というのだった。
その絵には、未来の都市が書かれている。そこでは大きなタワーが奥に見え、そこから赤十字のマークの建物にチューブのようなものが繋がっていて、そこを車輪のない車が走っている。これこそ未来の絵であるが、そこにいるのはすべてが人間である、車を運転しているのもすべてが人間。中には運転席に誰もいない車もあるが、それは無人の運転手。つまりはリモート操縦であった。
さらに、遊園地のようなものがなく、彼のマンガでは、タイムマシンのようなものは、遊園地にしか存在せず、科学的な発展のためには使ってはいけないものとなっていた。
ということは、彼の未来予想図には、ロボットやタイムマシンと呼ばれる一番あるはずのものがなかったのだ。
もちろんそれは、
「タイムマシンやロボット開発には限界がある」
という発想から生まれたものだが、彼のマンガの世界ではそのどちらも描かれている。
ただ、それはあくまでも限界の中というだけのことで、それを未来予想図鑑としては乗せることを自ら拒んだのだろう。
未来に到着した松岡はその未来予想図鑑を思い出した。
「そうだ、あの絵には、タイムマシンなどのタイムトラベル系、さらに、アンドロイドや人造人間に限らず、普通の形のロボットすら登場していなかったっけ」
というものだったではないか、
この未来にはあの絵にあったような違和感があった。
しかし、どこかホッとしている自分を思い出す。それは、未来というものがどういうものであるかということを、あの未来予想図鑑で頭の中に叩きこまれた気がしたからだ。
「まるであの図鑑を見せるのが、目的だったんじゃないか?」
とさえ思うほどに、あの店は、我々柿崎研究所チームメンバー御用達だったのである。
それを思うと、自分が無意識に選んだつもりのこの未来も、何か新鮮だ。最初に一日だけの未来を経験し、あっという間に過ぎてしまった感覚に酔っている気はしたが、それは一日でも、数十年でも変わらない気がした。しいて言えば、飛行機に乗っている時間が少し長いくらいのものではないか。一日でも三十年でも、タイムマシンにとっては、あっという間のことだからである。
「タイムマシンって、改めて考えると、本当にすごいものなんだな」
と感じたのだ。
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