第7話 不可解な記憶喪失

 辰巳刑事は、勧善懲悪なところがあるので、人の温情をずっと大切にするタイプだった。それだけに、ニュースソースは大切にしていて、よほどの確証がなければ、それを上司とはいえ、話すことはしなかった。相手が尊敬する門倉刑事であっても、そうだった。あくまでも個人からもらった情報は、個人として受けるのだった。

 今の時代は個人情報の保護が叫ばれているが、もし、そんな法律がなくても、辰巳刑事は、人から得た情報を勝手に誰かに漏らすようなことは絶対にしない。

「そんなことをして、予期せぬことがせっかく情報をくれた人に及んでしまわないとも限らない」

 と考えた。

 そうなると、せっかくの情報提供者を裏切ることになるし、何よりも、自分のポリシーを裏切ることになると思っていたのだ。そんな辰巳刑事は、自分がいかにまわりに対しての態度を取って行けばいいのか、却って悩むことはないのだ。

「目指す方向は決まっている」

 だから、ブレることもなく、それだけに、まわりの人からも、

「あの人は分かりやすい人だ」

 と思わせることもできる。

 そういう意味で、少々の小細工は、見破られることはない。

「辰巳刑事に小細工なんて、想像もつかない」

 とまわりに思わせることができるからだ。

 それだけ、元々が実直で素直な性格だということだろう。猪突猛進と言えば言葉は悪いが、

「猪突猛進という言葉でさえ、辰巳刑事になら、まったく悪い言葉には聞こえない」

 と言われるほどに、まわりからの信頼は厚かったのだ。

 そんな辰巳刑事は、今までに何度も門倉刑事と事件を解決してきて、最初の頃は、

「足で稼ぐ捜査」

 を中心にしていて、最後の謎解きは門倉刑事というのが多かったのだが、門倉刑事とコンビを組んで三年目くらいからであろうか、次第に足の捜査だけではなく、頭の捜査の方にも絡んでいき、今までに辰巳刑事の名推理で解決した事件も多々だったのだ。

「冷静沈着とは少しイメージが違った」

 と思っていたまわりの人も、事件解決という一つのことに集中した時の辰巳刑事は、

「まるで今までとは別人のようだ」

 と思わせるほどに、その推理の幅の広さ、そして、発想の豊かさには、舌を巻くほどであった。

 何しろ自分の足で稼いできた情報を、頭の中で噛み砕いていくのだから、ある意味、リアルタイムでの事件との相対に、情報が集まったうえで一つ一つ組み立てていく捜査との違いを、示すという、新しい捜査方法を気付いた先駆者とも言えるであろう、

 ただ、実際に捜査をしている本人に、そこまでの自覚はなかったが、リアルタイムな情報を推理に結び付けていくやり方は、柔軟で限りない可能性を示しながらも、その中から的確に必要分を取捨選択できるだけに、従来の捜査とはまったく違っていた。

 今までの捜査は、

「どうしても、警察の捜査には限界がある」

 と言われてきて、証言が得られなかったり、令状がなければ、家宅捜索ができないなどというしがらみを勝手に過小解釈してしまうことで、おのずと捜査に対して、その可能性を自らが狭めてしまっていたのだった。

 それを打開するために、いろいろな捜査方法が考案されてきた。

 犯罪捜査に科学捜査がどんどん入ってきたのもそのためだろう。

 そういう意味では、ミステリー小説における、トリックの種類も今ではトリックとして使えないものも結構あるだろう。

 たとえば、電話や通信機器の発達によって、アリバイトリックの幅が狭まったり、身元の分からない死体であっても、昔なら、指紋や顔を分からなくして、特徴のあるところを潰してしまうとできるだろうが、今ではDNA鑑定などもある。

 ただでさえ、ミステリー業界というのは、

「これまでにトリックというものはほとんど出尽くしてしまっているので、あとはバリエーションの問題だ」

 と言われるようになっている。

 実際にこれが言われ出したのは、日本でやっと探偵小説として、それまでの黎明期からやっと表に出てきた時代であったのに、すでにそういう時代に入ってきていたことを、どれだけの探偵小説ファンは理解していただろうか?

 最近での海外のミステリー小説と言われるのは、ほとんどがトリックによる謎解きというよりも、動機であったり、事件経過などを重視した話が多くなっているというのも分かる気がするのだった。

 辰巳刑事も警察官になろうと思ったのに、いくつかの理由があるのだが、その中の一つとして、探偵小説を読んできたことが理由にあった。

 それも、昔の頃の探偵小説である。

 中学時代によく読んでいたが、大正時代から、戦後くらいまでの探偵小説をよく読んでいた。

 黎明期から脱却し、日本で探偵小説としての地位が確立されてきた時代だったのだが、その頃は、時代背景もあってか、トリックによる謎解きなどが多かった時代である。

 それを、

「本格探偵小説」

 と呼ぶ人がいた。

 そんな本格探偵小説以外を、

「変格探偵小説」

 という言い方をしていたようなのだが、それが時代背景に密接に結びついている作品が多かったのだ。

 大正時代というと、ちょうど近代文化が花開いてきた時代であり、ロマンと呼ばれる芸術が好まれていた。だが、時代はそれを許さず、関東大震災、昭和に入ってからの大不況、それによって、軍部が台頭してくるという動乱の時代、そこからは、戦争に向かって突き進む時代と言ってもいいのではないか。

 そんな時代の探偵小説は、猟奇殺人であったり、大正ロマンのイメージを残したままの動乱の時代に差し掛かったことで、いわゆる、

「耽美主義」

 と言われるものが、流行ってきた。

 耽美主義というのは、

「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である」

 と言われている。

 つまりは、

「美的至上主義」

 とでもいえばいいのか、どのような方法であろうとも、美を至高のものとして奉ることに重きを置いているものである。

 それがたとえ殺人によって成し遂げられるものであっても、素晴らしい芸術には違いないという、歪な考えに基づくものだと言えるものだ。

 そういう変質者が実際にその時代には多かったのかどうかは、生きていたわけでもなく、資料として残っているわけではないので、検証できないが、少なくとも発想としてはあったということを、探偵小説は証明しているのだった。

 耽美主義というのは、探偵小説に限ったものではない。数多くの大衆文学に根強い嗜好を残し、さらに、純文学の分野においても、耽美主義が浸透していたのである。

「純文学系の作家」

 と呼ばれる人の中には、明らかに耽美主義を描いた作品も多くある。

 むしろ、耽美主義が作風であり、それを踏まえたうえで、その作家のジャンルが純文学ということで、、

「純文学作家が描く世界観の中に、耽美主義が存在している」

 と言っても過言ではないだろう。

 そんな時代の探偵小説を、辰巳刑事は好んで読んだ。

 当時は、本屋にはすでに、それらの作家の本は並んでいなかったようなので、図書館で借りてきて読んだり、実際に図書館で読んだり、さらには、古本屋を探したりしたものだった。

 二十年前でも、それほどの希少価値だった作品なので、今の若い人たちは、その頃の作品に触れることはなかなかないだろう。

「すでに、歴史という括りになりかけているのではないか?」

 と辰巳刑事は危惧していた。

 当時の耽美主義の作品というと、猟奇殺人というよりも、人間の中にある変質的な性格。例えば、SM嗜好であったり、どこかに潜んで、じっと見ていたりというような発想が多かった。

 今であれば、ストーカーということになるのだろうが、当時はそんな言葉もなければ、そういう趣味が犯罪として表に出てくるのともなかったのではないか。あくまでも探偵小説の世界であって、もし、そのような事件が発生すれば、新聞では大見出しになって、歴史的にも、凶悪な猟奇殺人として残っていることだろう。

 そういう意味では今の時代の方が犯罪としては酷いのかも知れない。少年による犯罪も増えてきて、犯罪の低年齢化が進んでいる。しかも、少年の方が犯罪に対しての歯止めがない場合がある。

 それは、マンガであったり、アニメの世界では、少々エログロの世界であっても、よほどひどいものでなければ、発行される。それが少年誌にも掲載される時代なので、少年と青年の垣根がなくなっているのかも知れない。

 ただ、少年というのはあくまでも少年であり、社会の構造など分かっていない。それなのに、今の子供の気の毒なことは、大人の都合で子供の人生が大きく変わることがあるということである。

 苛めや家庭内暴力などに始まって、今は親による子供の虐待などが蔓延っている。

 児童相談所が学校などから相談を受け、訪問したとしても、出てくるのは加害者である親である。子供に面会もさせず、親のエゴだけで、まるで子供を飼っているかのような状態だ。

「食わしてやっているんだから」

 という思いが強いからなのか、普通に考えればありえない犯罪が横行しているのだ。

 実際に、

「家で、子供がぐったりしている」

 と言って、救急車や警察に通報してくると、時すでに遅しということも多いようだ、

 身体を見ると気らかな虐待の証拠があり、数日後には親が、子供の虐待で逮捕されるなどというのが結構多い。

 そんな場合には、児童相談所が何度か足を運んでいたにも関わらず、こんなことになってしまったということがほとんどだったりする。

 どこかに歯止めになりそうな、犯罪を防ぐことができたのかも知れないと言っている人もいるが、それは表面しか見ていない人ではないだろうか。

「結局、いつこのようなことになるかということだけで、結果は見えていた」

 という人もいる。

「もし、児童相談所で子供を預かったとしても、その時はまだそこまで過激なことはなかったら、また子供は親に戻されるだろう。ほんの少し時間稼ぎができただけで、結局は結果は同じになっていたはずなんだ」

 と言われてしまうと、

「こういうことは、まるでトカゲの尻尾切りのようで、防ぎようがないのか?」

 という人に対して、

「だから社会問題なんだよ。目の前だけのことしか考えずに、根本を見なければ、こういうことはなくならないんだ。だから、我々のような研究家が存在するんだよ」

 と、評論家はいう。

 体制に問題があるのか、それとも、連鎖反応となっていることが問題なのか、評論家の人の話を訊いていると、どこに問題があるのかから入るようだ。これは虐待問題に限らず、少年犯罪の問題。今までのオーソドックスな大人による犯罪など、すべてのことに言えるのかも知れないと、辰巳刑事は考えた。

 しかし、考えれば考えるほど、理不尽である。事件を解決しても、次から次へと犯罪は出てくる。

「人間というのは、そもそも理不尽にできているんだろうか」

 と思う。

「人間は、生まれながらに平等だ」

 などという言葉を聞くが、そんなものはただの理想論でしかない、

「人間は生れてくる時に自由があるわけではない。親を選ぶことができないからだ」

 と言われるではないか。

 親が金持ちだったり、王様という人もいるだろう、かたや、親が犯罪者であったり、借金に追われている人もいるだろう。生まれながらに平等などという発想は、都市伝説でしかなく、ありえないことの代名詞と言ってもいいだろう。

 そんな人間を、一つの同じ法律で縛ろうというのだから、社会自体が矛盾と理不尽に包まれていると言ってもいい。だから、国家にはいろいろな主義がある。

 国家は国民を縛ることなく、自由主義で、民主的な体制であるが、これは聞こえはいいが、実際には

「差別や不平等には目を瞑る」

 ということでもある。

 人それぞれに考えがあり、やりたいことがあるのだが、いくら自由主義と言ってもそれができるわけではない。法律に縛られるわけだが、その法律を決めるにも、国民の代表として政治家が法律を制定する。

 政治家を決めるのも、法律を制定するのに、決を採るのも、民主主義では、

「多数決」

 が基本である。

 これは、国民の政治参加者(つまりは選挙権があり、政治家を決めることができる人たちの中で選挙に参加した人)の過半数で決まるものである。

 一票の違いであっても、民主主義では同数ではない限り、少数派は見捨てられる運命にある。考え方としては残るかも知れないが、決まったことがそれから以降では、

「正義」

 ということになるのだ。

 つまりは、

「少数派というのは、どんなに優秀な考えであっても、見捨てられる」

 ということだ。

 もちろん、決を採るまでに国民に十分な理解を得るような演説であったり、講演会が催されるのだろうが、中には、政府の中で、自分の利権のために、

「おカネ」

 という武器を使う人もいる。

 本来なら禁じ手なのだが、それが横行するようになると、今の世の中のように、

「民主主義イコール金権政治」

 ということになる、

 票を金で買ったりする輩が公職選挙法違反という形で、選挙前から、選挙が終わってしばらくは、絶えず誰かの手によって、新聞を賑わしているのが恒例ではないか。それが民主主義というものの限界だというのは、実は百年以上前から叫ばれていることだった。

 そこに台頭してきたのが、社会主義という考え方である。

 これは、その先にある、「共産」という考え方を目指すもので、

「民主主義との大きな違いは、国家の権力によるものである」

 というものだ。

 民主主義はあくまでも、国家は表に出ずに、自由主義であるのだが、それによって差別や貧富の差が顕著になってくると、政府が国民を縛るという考えが出てくるのだ。

 国家の社会形成という一つの歯車の中に、すべての人間が組み込まれるという考えだ。だから、社会主義は、社会(政府)至上主義と言ってもいいだろう。

 そこで目指すものは、企業や生産を国家の体勢に組み込むという、

「すべての産業の国営化」

 である。

 こうしておけば、会社の大木さによって貧富の差が生まれることはないし、政府の政策の下なので、差別もないという理想論であった。

 だが、これは通貨の流通を滞らせてしまったり、国家による国民生活の干渉により、いわゆる、

「ピラミッド型の体制」

 が出来上がってしまう懸念があるのだ。

 一部の特権階級によって、世間が牛耳られるということは、一党独裁になってしまい、最高権力者の思い通りの国家が出来上がってしまうことで、独裁政治になるということだ。

 諸外国とは一線を画し、誰も守ってくれないことで、自分たちの身は自分で守らなくてはいけないということになり、軍事国家に変貌することで、国民の生活は困窮を極めることになるだろう。

 どこからも助けがないのは、国家自体が独裁国家で、国際社会に対してその正体を明かすことができないからではないだろうか。

 そんな国家が理想の国家であるというのもおかしな話で、共産主義、さらに社会主義の国というのは、世界でも、有数しかなくなってしまっているのだ。

 そういう意味ではどの国家も、一長一短があるということである。日本という国も同じで、戦争がないというだけで、果たして平和ないい国だと思っている人がどれだけいるだろう。政府は腐敗し、歯止めが効かなくなってきたし、何よりも、

「有事になると、政府は平気で自分たちの利権を守るために、国民を見殺しにする国家だ」

 ということが、顕著になってきたではないか。

 そんなことは口が裂けてもいえるわけはない、

理不尽であっても、矛盾していても、自分たち刑事は、法の下で方に準拠しながら、国民の安心安全と守らなければならない。

 そういえば、

「安心安全」

 という言葉が、オブラートよりも薄い世の中になっていたのだが、それも口に出すことはできない。

 今の世の中、綺麗ごとはそのほとんどが政治家の詭弁や欺瞞のために使われるしかない世の中になり果てていたのだ。

 考えれば考えるほど、世の中がネガティブにしか考えられない人が増えてきた。政府やマスゴミのせいであるが、行方不明になっている人で、これから自分が捜索しなければいけないその人は、

「マスゴミではないマスコミ」

 だということを願うしかないだろう。

 そういえば、辰巳刑事に捜査を依頼した新聞記者がおかしなことを言っていたのを思い出した。

「実は、行方不明になった新聞記者なんだけど、どうもおかしな状態になっているって、かれの 同僚から聞かされたんですよ」

 と言っていた。

「どういうことなんだい?」

 と辰巳刑事が訊くと、

「最初はその人の感覚として、記憶喪失になったんじゃないかって思ったらしいんだ。今までのことをほとんど覚えていないし、話の内容が支離滅裂だからだというんだ」

「記憶を失ったとすれば、それはすべての記憶をなのかい? それとも最近の記憶だけとか、あるいは、途中の記憶が抜けているとか、記憶喪失にもいろいろあると思うんだけどな」

「そうなんだよ。問題はそこにあるんだよ」

 と、新聞記者は少し興奮気味に話した。

 新聞記者は続ける。

「実は、記憶を失っているのは、最近の記憶には違いないらしいんだけど、その代わりに、彼の記憶とは思えない記憶が彼の中に残っているというんだ」

 と言われて、

「ん? 話の内容がいまいち分からないんだが、まるで、誰かの記憶と交錯しているかのような感じなのかな?」

 と辰巳刑事がいうと、

「そんな感じなのかも知れないけど、その交錯している相手が近くにいないmだ。誰か分からないということで、出版社で彼がおかしいことに気づいた人は、皆、気のせいではないかと思ったということなんだよ」

 と、新聞記者は言った。

「それはおかしな現象だね。でも、記憶が人と交錯するというのは、ありなんじゃないかって俺なんかは思うことがあるんだ。俺たちのように殺人事件や凶悪事件ばかりを追いかけていくと、犯人や、事件の当事者の精神状態というのは、本当に分からないところに存在しているような気がしてきて、時々、自分までがおかしくなったんじゃないかって思うことがある。特に被害者や、事件の当事者が日記なんかをつけていて、それを見る機会があると、本当に何を考えているのか分からないと思うんだ。だから、余計に、犯罪を犯す人間の精神状態というのは、本当に異常なんだなって思うんだよ」

 という辰巳刑事に対して、

「そうなのかな? 俺は殺人事件を起こす人間の方がよほどまともな人間が多いんじゃないかって思うことがあるんだ。精神状態が最初から異常であれば、異常な状態に慣れているから、少しは殺人などをしなくても別の方法を思いつくのではないかと思うんだ。何かに追い詰められて、精神的に弱ってしまうのは、普通の精神状態の人であって、そんな人が想像もつかないことを引き起こすと思うんだ。だから、犯罪捜査の難しさというのはそこにあるんじゃないかと俺は常々思っているんだけど、刑事としては、こういう考えは認めたくないのかな?」

 という新聞記者の発想に、少しさすがの辰巳刑事も脱帽だった。

「いや、なかなかそこまでは思いつかないよ。そもそも、そこまで精神分析をすることはないかも知れないな。犯罪捜査において、犯罪者の考えをそこまで掘り下げる必要はないので、考えたこともなかったという方が正解ではないかな?」

 と、辰巳刑事がいうと、

「そっか、それもそうかも知れないな」

 と、新聞記者は呟いた。

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