第5話 時間を食べる
その老人が今、そこにいないということは、
「自分が一瞬でも気を抜いたと思ったその瞬間が、実際には結構長くあり、その間にどこかに行ってしまったのか、最初からすべてが錯覚で、そんな老人は存在しなかったのか?」
そのどちらかではないかと思われた。
確かに、京極氏からグラビアについての話を訊いている時、京極氏の話に集中し、気持ちを視線から切った瞬間もあった。そうしなければ、話をしている京極氏に失礼に当たるからだ。
しかし、その瞬間はあっという間のことであり、意識を戻した瞬間は自分の中で存在していた意識がある。その時見た時は、その老人を確認した気持ちになっていたが、もしそれが違ったのだとすれば、存在したと思われた、元に戻った意識は、無意識だったということか。
いや、無意識であれば、なおさら、記憶に間違いはないはずである。無意識ということは、そこに意志が関わっていたわけではないのだから。、一番素直な気持ちだったはずで、自分にウソがつけない時間だっただろうから、老人の存在を意識したのであれば、それは間違いのなかったことだという信憑性は高いはずだ。
もし、この信憑性が低いというのであれば、今までの自分の意識に対する考え方を変えてしまわなければいけないほどの高さのあるものだったはずである。それを自ら信じられないのであれば、もはや自意識を否定しているようなものだと言っても過言ではないであろう。
そんなことを考えていると、時間がどれくらい経っているのか、すでに八時半を過ぎていた。
店に来てから、三時間近くが経っていて、何も食べていないはずなので、お腹が減っていてもおかしくないのに、腹が減ってくる気配もなかった。
むしろ適度な満腹感すら感じる。気が付けば目の前に置かれているカクテルがほとんど空になっていた。
「お嬢さん、何かお作りいたしましょうか?」
とマスターが勧めてくれた。
隣を見ると、すでに京極氏は三杯目に差し掛かっていた。いつの間に二杯もおかわりしたのか意識もなかった。マスターが目の前にいるのだから、カクテルが出来上がれば分かるはずだ。
しかし、シェイカーを振っている音だけは耳の奥に残っていた。見た覚えはなかったのにである。
「この店で、見たものを記憶や意識として残しておくことってできないのかしら?」
と思ったほどだ。
元々あまり飲めるほうではないつかさは、カクテルがどれほどのものかあまりよく分からなかった。まるでジュースが入っているようにしか見えないので、最初に一口は少し多めに飲んでしまったが、すぐに、酔いが回ってくるような気がして、
「やっぱり、お酒じゃないか」
と、当たり前のことを思わせた。
だが、その一口が口の中に残ってしまい、二口目、三口目は結構早かったような気がする。
気が付けば、すでに酔っぱらってしまっているようだったが、飲みかけのグラスを見る限り、それ以上飲んだという意識はない。つまり、そこから自分の時間が止まってしまったかのような感覚だった。
「自分だけの時間が止まるなんてありえないことを考えてしまって、私ってどうかしているわ」
と思った次の瞬間、目の前にいたはずの老人がいなくなっていることに気づいたのだった。
グラビアの話が終わってから、老人がいないということに気づくまでに何があったのか、ゆっくり考えてみると、そういう経過だったということが意識の中に残っていた。
そう、意識としてはある程度残っているのだ。気が付けば時間が過ぎていたわけではない。
そうなると、意識があった時間に、その老人がどこに行ってしまったのかを考えるというのは不可能ではないか。それよりも、最初からいなかったと思う方が実は自然だったのではないかと思った。
しかし、この満腹感は何であろう? あの老人が言ったではないか、
「時間を食べる」
と……。
つかさは時間を食べたことで、満腹になったというのか?
いや、あの老人が言ったのは、時間を食べるのは店であって、客ではない。つまりはつかさではないということだ。
何かつかさの中で無意識に覚えていたことと、今の現実とが不思議な融合で結び付いたことでもあるのかも知れない。そもそも、そのような現象を待ちわびていたかのようにさえ思えた。
「まるで夢を見ているようだわ」
と思ったが、そうではない。
夢に見たことを今思い出しているような気がするというのが正直な気持ちなのかも知れない。
それを思うと、このスナックの中では、今ここに三人がいることになっているが、つかさとマスターと京極氏、
「本当に皆同じ次元に存在しているのだろうか?」
などという妄想が頭を巡った。
つかさは以前から妄想が好きだった。そして一旦妄想を始めると、何かのきっかけで我に返るまで、妄想を限りなく続けてしまう。
果てしない先まで行ってしまうこともあるが、途中で戻ってきて、ループに入ることがある。いわゆる、
「無限ループ」
である。
――ひょっとして、その感覚が、あの老人には、時間を食べるという意識に繋がったのだろうか?
いたかどうかもハッキリしない老人に自分の意識を重ねることで、自分を理解しようと考えるつかさだったが、この感覚は、
「最近の夢に見たことだったのかも知れない」
と感じた。
それだと、一種の予知夢になるのではないかと思ったが、逆も考えてみた。つまり、
「今後見る予定の夢を、うつつという現実の中の夢の中で、見てしまったのではないか?」
という発想であった。
自分で考えておきながら、どう解釈していいのか、自分でもよく分かっていなかった。
「夢うつつ」
という言葉があるが。うつつのことを、
「起きているのに見る夢の存在を表す言葉として使う」
という感覚になったのは、
「予知夢や正夢という発想があるのであれば、予知夢が普通に見た夢の出来事であるなら。正夢は、現実の中で見た夢が現実になった場合のことをいうのではないか?」
と感じたからだった。
予知夢と正夢、発想としては似ているように思うが、その言葉を解釈していると、どうも、同じところから出発しているわりには、発想がかけ離れているような気がするというところから感じたことであった。
何をどう解釈していいのか分からないということは結構あるだろう。そんな場合には意外と直感に頼るというのもありなのではないかと思う。その例として、予知夢と正夢の発想があるのではないだろうか?
「それにしても、時間を食べるというのはどういうことなのだろう? 夢を食べると言われる動物としては、獏がいるが、それと似たようなものなのだろうか?」
と考えた。
夢という発想から考えてみようか?
夢というのは、
「潜在意識が見せるものだ」
と言われているが、そもそも潜在意識というのが、どういうものであるかというこである。
意識というものには、潜在意識と顕在意識というものがあると言われている。顕在意識というのは、いわゆる人が考えたり感じたりしている意識のことで、言い方を変えると、
「目に見える意識」
と言えるのではないだろうか。
それでは、潜在意識というのは、その逆だと考えられる。つまりは、
「目に見えない意識」
それを無意識というのだとすると、無意識に見るものだという。
確かにそうだ。夢というものは自分の思い通りに見れるものではなく、しかも目が覚めていくにしたがって都合がいいのか悪いのか。忘れていくものではないか。
それを考えると、夢は自分の意識外のものだとも言える。
だが、逆の考え方もできる。
夢というものが、自分の思い通りにならないものだということの説明として、
「意識の外で起こっていること」
として、都合のいい言葉である潜在意識を利用しているのではないかとも考えられる。
後者の方も信憑性としては、十分にあるものではないだろうか。
だからこそ、夢には現実の世界にないものがあったり、あるはずのものがなかったり、曖昧だったりする。時間というのも、そういう曖昧なものとして考えることができるのではないだろうか。
「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める数秒の間にすべて見切ってしまうものだ」
という話を訊いたことがある。
つまり、時間という概念がそもそもないのではないか。
確かに夢から覚めようとしている時、忘れていくのは、時間の概念がないからではないかとおもうのは突飛すぎる考えであろうか。
さらに、時間のねじれも感じることがある。
例えば自分がいる場所が通っていた大学だったとして、意識の中では、
「私は、就職はできなかったけど、ちゃんと卒業はできたんだ」
という意識があるのに、夢に出てくる自分は大学生である。
そこに、友達がキャンパスを歩いてくるのだが。皆スーツや、OLの恰好をして、さっそうと社会人をやっている。
夢の中の自分はというと、
「そろそろ、アルバイトに行かなければいけない時間だわ」
ということで、学校から、今のアルバイト先のファミレスに行こうとしているのだ。
夢に出ている自分はまったく違和感がなさそうなのだが、実は意識しているのは、
「夢を見ている自分」
なのだ。
夢というのは、夢の中の主人公が常に自分なのかどうかまではハッキリとはしないが、夢を見ている自分がいるのは間違いない。
要するに、
「主演女優でありながら、監督も務めている」
ということである。
しかも、頭の中で、
「監督が一番偉い」
という意識があるので、主演の自分は監督までも自分であることに気づかないのだろう。
気付いているとすれば、主演女優は監督を意識するだろうし、そうなると、夢を見ているこちらに気付いていることも分かるだろう。
しかし、もしそのことを夢を見ている自分が気付いたとすれば、どう思うだろう?
きっと気持ち悪いという意識になるに違いない。夢を見ているということは、主演の自分に気づかれないように、監督していることであり、主演の自分こそが無意識であり、その行動が潜在意識のなせる業なのだろう。
だから、夢というものが、
「潜在意識が見せるものだ」
という考えであるとすれば、あながち間違っているわけではなく、主演の自分がそれを証明してくれているということになるのだろう。
夢というものを考えていると、
「麦芽夢を食べるならば、時間を食べるものが存在してもいいのではないか?」
と思った。
しかし、あの老人のいうように、さすがに店が時間を食べるという理屈はどこかおかしい。
だが、それは何かのたとえであって、あの老人が頭のキレる人で、何かの暗示を私たちに示しているのだとすると、どういうことになるのだろう?
横を見ると、京極氏は何事もなかったように、酒を飲んでいる。
――ということは、あの老人のことを気にしているのは、私だけだということか?
マスターも何事もなかったように接客している。京極氏と、何か大人の話をしているようだが、つかさにはその話の内容は分からなかった。何か経営に関しての話なのだろうが、たった今まで老人のことを気にしていたので、まわりがまったく見えていなかったのは、つかさだったのかも知れない。
いまさら二人の話に自分から入っていくのも少し変な気がした。つかさは、中途半端なところで取り残された気がしていたが、それもしょうがない。
――じゃあ、またさっきの老人を思い返すしかないじゃないの――
と、不満ではあったが、分からない話に首を突っ込むよりもいいかも知れない。
しかし、それにしても、京極氏もマスターもあんな不思議な老人をよく無視できるものだと思った。
それだけ慣れているということか?
確かに老人が常連で、いつも同じことを言っているのだとすれば、ひょっとすると、二人とも老人が何を言おうとしているのかが分かっているのかも知れない。
分かっているから、
「ああ、また始まった」
というくらいにしか考えていないとすれば、やはり老人に対しても置いて行かれているのは自分だけではないだろうか。
つかさは、
「時間を食べる店」
という言葉を思い起こしてみた。
「時間……。何か思い浮かぶことはないだろうか?」
と考えていると、最初に浮かんできたのは、
「時は金なり」
という言葉だった。
そうだ、時は金なんだ。金を食べるという発想も成り立つではないか。金が食べるものではないが、食べるために必要ものが金である。つまり、金と食べることは切っても切り離せないということではないか。
そう思うと、時を食べるという言葉が、まるで、
「わらしべ長者」
や、
「風が吹くと桶屋が儲かる」
という言葉に表されるように、
「途中に何かが挟まることで、まったく繋がっていなかった話が一本の線になって繋がるのではないだろうか?」
と考えるのであった。
老人は、なにかを言いたかったのだ。だが、その言いたかったことが何を意味しているのかまでは分からない。
それをつかさに考えろということなのだとすれば、ここにいる二人はただのエキストラであるのだろう。
「主役はあくまでも、つかさである。そして、監督もつかさだとすれば、あの老人は、私に監督もやれと言っていることになるんじゃないのかしら?」
と思うのだった。
途中に抜けているものが何なのか、そして。夢の続きがどこに出てくるのか。さらに、時と、時間、そして、食べるということがどのように繋がってくるのか、今のところまったく分からなかった。
それもそうだろう。実際にはまだ何も起こっているわけではなかったからだ。ただ、それは、
「つかさにとって」
という意味でだけで、時間軸のずれは、これから、つかさを時間の渦の中に巻き込んでいくのだった。
つかさが、この時、編集者のスカウトである京極氏の話を、ほぼ承諾する形でいた。そして、少し先ほどの老人の話が気になってはいたが、気になっていることで、余計に、自分が今、カメラの前でグラビアアイドルとして輝きを放っている姿を想像、いや、妄想していたと言っても過言ではない。
実際に、スポットライトがどのようなものなのか以前、舞台になったことのある友達から聞かされたことがあった。
「舞台の上って、本当に何も見えないのよ。だって、客席は暗くて、舞台は明るいのよ。想像すれば分かることでしょう?」
と言われて想像してみたが、その話を訊いている時はまったく分からなかった。
分からないというと、失礼に当たると思ったので、何となく頷いていたが、話を訊いて冷静に考えてみると、マジックミラーのようなものかと思うと何となく想像がついた。もっといえば、夜中の電車に乗っていて、車窓から外がまともに見えないが、表からだと、中の様子がよく分かるのと同じ発想だと言ってもいい。
そう思って、自分が舞台の上に上がると、目の前にいるはずの観客がどのような表情をしているのか分からない。声だけは湧いているのが聞こえても、それが歓喜によるものなのか、驚愕によるものなのか分からない。普段であれば分かることも、
「まわりから見られているのに、こちらから覗いているという意識がないということを考えると、緊張からか、聞こえるはずのものがまったく違った形に聞こえてくるのではないか」
と思うと、舞台の上というところが、どれほど想像を絶するもので怖いものなのかを思い知らされるだろう。
何よりも、客席から見ていると、光を浴びて輝いているように見えるその人に、少なからずの嫉妬があるだろう。
しかし、舞台の上にいる人には、何も見えないことで、自分が完全に孤立してしまっていると思い込むのではないだろうか。
客席から見ていて、光り輝いてはいるが、見ている方も嫉妬心からか、
「どうせ光り輝いているように見えても、しょせん孤独なんだ。こっちの世界に帰ってこようと思っても、帰ってくることなんかできやしないんだ」
と感じるに違いない。
それを思うと、グラビアアイドルは逆に孤独ではない。孤独になるのはあくまでも、ファインダーに映っている自分であって、それを見ている自分ではない。
夢の世界に、主人公の自分と、監督である自分の二人が存在するのも、そういう理由からなのではないだろうか。
孤独な自分は必ずどこかに存在し、それは本当の自分ではなく、本当の自分は、その孤独な自分を見つめることで、
「私は、孤独ではないんだ」
と思うようになるのだ。
それは、夢の世界に限ったことではない。この世界であっても同じではないだろうか。同じ次元に存在できないとすれば、別次元が存在しそこに孤立した自分がいるのだ。
そうなると、
「人の数だけ孤立した世界が広がっていて、その世界との境界線が結界として存在することで、それを忘れないようにするという目的をもって見るというのが、夢というものであり、その夢の存在意義なのではないのか?」
と考えられる。
夢を孤独なものだと考えると、無限に広がるもう一つの孤独な世界は、先ほどの老人が口ずさんだような、
「時間を食べている」
という発想になるのだろう。
時間というののと夢というものの結び付き、そして時間を食べるのが、夢を食べる動物として存在する獏のようなものが本当に存在するのか、ひょっとすると、果てしなく人の数だけ広がっている孤独な、もう一人の自分が、時間というものを食べているのかも知れない。
自分にとってのもう一つの世界が、人それぞれで重ならないのは、時間を食べるタイミングが、それぞれの人によって違うからだ。
孤立しているという意識が、時間を狂わせて、狂った分だけ食べてしまう。そんな理屈を考えていると、つかさは、自分が何を考えているのか、感覚がマヒしてきた。
「これから、起こることは、最初から決まっていたことなのか、それとも、孤立している自分の存在に気づいたことで、歪んでしまった世の中を進んでしまおうとしたバチなのか、そのことをつかさは思い知ることになるのだ。
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