第3話 警察への電話
その問題というのは、
「個人情報保護」
というものだった。
たぶん、その背景には、詐欺事件というものがあるからであろう。
前述の、
「支払サイト」
も詐欺事件など、結果として、
「IDや、パスワードを盗む」
という詐欺だったのだ。
今までは、
「キャッシュコーナーなどで気を付けなければいけない」
という程度で、
「IDやパスワードが盗まれる」
ということはなかったのだ。
それが起こったのは、パソコン、そしてネットが普及したからで、簡単に侵入して盗み取られる。
自分だけのものではなく、他人の個人情報すら取られてしまうことになるのだ。
昭和の頃では普通に考えずできていたことも、今の時代では、ありえないこととなっているのだった。
例えば、昔は固定電話しかなかったので、電話に出る時も、
「もしもし、○○です」
というのが普通だった。
「相手よりも先に名を名乗るというのが礼儀だ」
という風に、昭和までの子供は教えられてきた。
要するに、
「電話番号から個人が特定されてしまう」
ということだ。
さらに今では信じられないことだろうが、昔は、ハローページ、タウンページなどという分厚い冊子があったのだ。
それは、市町村単位の電話番号が載っているもので。タウンページが職業別。ハローページが、個人別だったのだ。
「タウンページは、まだいいとしても、ハローページは容認できない:
もちろん、
「うちは、非掲載で」
ということはできたのだろうが、こちらも完全に個人と電話番号が結びついているのだ。
電話帳というのは、
「人の家の番号を探すためのもの」
ということで、昔は普通に使っていた。
しかし、当然今ではそんなことはありえない。詐欺にひっかかる可能性があるからだ。
そういう意味では、学校からの連絡網であったり、学校からの卒業アルバムなどには、
「指名、電話番同だけではなく、住所まで載っていたのだ」
今ではこちらもありえない。
そもそも、詐欺が行われるようになってから、個人情報がやかましくなった。
昔なら、会社の社外秘を口外しないというのが普通に当たり前だったが、個人はそんなこともない。
そして、相手の電話番号や住所が分かれば、また別の犯罪が絡んでくることになる。
それが、
「ストーカー犯罪である」
ストーカーというのは、
「知り合いが豹変してしまった」
というのも、よくあることであったが、それ以上に、
「まったく知らない人を見染めて、気になったので、住所や名前、電話番号を知りたい」
ということになるだろう。
相手に分かると、無言電話であったり、ピンポンダッシュのような、まるで子供の遊びのようでも、本人にとっては、大きなトラウマとなる可能性を秘めているのであった。
それが分かってくると、犯罪はさらにエスカレートしてくるというものだ。
ネットでの、ハンドルネームというのも、そもそもは、
「個人情報保護」
という意味であった。
ただ、それが今は問題になったりしている。
というのは、SNSなどでよく言われている、
「誹謗中傷」
という問題だ。
というのは、
「匿名だから何でも言える」
ということで、
「名無し」
にしておけば、何を言っても、相手を普通なら特定できない。それでも、最近では、この問題をやっと政府も考えるようになり、それまで情報開示というものが、
「個人情報保護」
の観点から難しかったが、今ではかなり緩和されているという。
厳しいのは厳しいが、ある条件に至れば、情報開示もできて、誹謗中傷した相手を特定できる。
しかも、誹謗中傷に対しての罪も重くなったので、それらのことが、
「今、誹謗中傷を亡くせるか?」
というところまで来ているのだった。
これも、実に大きな問題だった。一人の女性がSNS上で誹謗中傷を受け、そのせいで自殺をしたということで社会問題になったのだ。何といってもネックは、個人情報保護とのかかわりである。
プライバシー保護の観点から、匿名性にしたのに、それがあだとなり、
「どうせ、匿名なんだから」
ということで、言いたい放題に書くというのは、どういうことかということである。
そんな誹謗中傷をするやつは、
「どうせ、表に出ることができない傷心者」
なのか、それとも、
「集団心理でしか自分を表現することができない、自分の意志を持っていないやつに違
いない」
ということなのかである。さすがに自殺者が出て、SNSが荒れたりすると、政府も考えるようになり、身元に繋がる、プロバイダやサイトに対してのIPの開示要求の壁がかなり低くなったのだろう。
ただ、だからと言って、
「プライバシー保護が守られているわけではない」
といえるだろう。
どうせ、騒ぎ出したから、
「このままではまずい」
ということで、急いで法律を緩和しただけなのだろう。
後先も考えず、先に進むのが政府というものだ。
もし、プライバシー保護団体が騒ぎ出したらどうするつもりなのだろう。また、開示を厳しくするというのだろうか。
つまり、
「あっちが言えば、対処案を出す、逆だったら……」
というようなもので、政治家のすることは、
「対処はするが、対応はできない」
ということであろう。
対処というのは、目の前の出来事を、応急的に見ることであり、対応というのは、何かがあった時のことまで考えて、あらゆる方向から検討することまでやって、やっと対応というのだ。
もちろん。考えたことを運用できるようになるところまでは対応である。応急手当なら、誰にだってできるというものだ。
例えば、誰かが道で苦しみだしたとして、救急車を呼んだり、それまでの手当てが対処なのだ。
もちろん、対処には特殊な技能が必要な場合もあるが、応急措置として、できるだけのことであれば、別に医師免許がなくてできるだろう。
救急隊員と一緒にやってもいいからである。
しかし、病院に運んで、その人が、
「緊急オペが必要だ」
ということになった場合、医者はすぐに手術をしてもいいだろうか?
まずは、病気を特定しないといけない。そうでないと、手術はできないのだ。
そして、手術を行うには、その場所、必要な薬品の手配、そして人員の確保が必要だ。
もし自分がその病院の医師でなければ、普通は執刀はできない。
かと言って、他に執刀する医者がいないとなると、どうするかが問題だ。
時間との勝負なのは分かっている。
こういう時ドラマなどでは、まるでブラック○ャックだったり、救急救命医の正義感だけがやたらと強い人が、手術を行おうとするだろう。
しかしよく考えてみると、その患者が、どのような人間で疾患を持っているかというのは、いくら時間との闘いとはいえ、無理にこじ開けることはできないだろう。
それを考えると、テレビドラマというのは、完全にフィクションであり、
「勧善懲悪のために、敢然と立ち向かう医者の物語」
ということになるだろう。
そういう意味では、医者のモラルをも超越した判断力にて、患者を救うというような話は、完全に夢物語でしかない。
もし、これがモラルを重視するものであれば、医者が勝手に、自分の病院でもないところでオペを行うのは、違反になるだろう。
しかし、それで視聴率が稼げればそれでいい。
「他の人がマネをするから、まずい」
という、まるで子供向けの番組でもないだろう。
しかし、頭の良さとモラルや常識というのは別である。医者だからと言って、
「やっていいことと悪いことがある」
と言えばいいのだろうか?
たとえは違うかも知れないが、
「誹謗中傷を受けている人は、血を流しながら、何とか命をつないで生きている」
という様子である。
しかし、まわりの人に分かるわけはない。医者であれば異変くらい気づくかも知れないが、それでも、ハッキリと分からないことを自分から公表はできないだろう。
テレビドラマなどでは、
「何をおいても、その人を助けることが最優先ということであるが、実際に苦しんでいるのが何なのかということを間違えてしまうと、
「心臓が悪いのに、胃の切除を行った」
というのと同じである。
ただ、胃が悪いのも正しかった。しかし、今の状況で苦しんでいたのは、心臓だったのだ。
それを分からずに胃だけを治しても、
「肝心な部分が、治っていないので、また痛み出すことは、時間の問題だ」
ということになるのだ。
これで治したと思って、安心していたら、心臓が悪いということが分かり、自分が心臓の手術をしようとすると、
「おや? こんなに進行していたのか?」
というくらいに、ひどい状態だったりする。
結局、治療が不可能ということで、手術はできないと身内の人に話すと、
「そんなことは最初から分かってるんですよ。先生は私たちの話をちゃんと聞いていなかったでしょう?」
と言われて初めて彼は、
「しまった」
と思うのだ。
患者の家族とすれば、
「主治医から、もう長くはないので、覚悟はしていてほしい」
と言われたことだろう。
「だから、この間先生にそのことを言おうとした時、先生は、胃の方にばかり集中していたので、私たちは何も言えなかった。もし、あの時、先生が余計なところを切ってしまって、父の寿命を縮めていたらと思うと、私たちも罪の意識にさいなまれないといけない。だから、先生もちゃんとしてください。だけど、もう先生にうちの父を見てもらうことはありませんから」
というのだった、
その医者は、モラルがなかったわけではないが、行動の指針が間違っているのだ。
その理由は、自分の思い込みと、正義感の強さだと思っている。
しかし、この場合の正義感は違う。
「やってはいけない自己満足」
でしかないのだ。
自己満足が悪いというわけではない、これが前に進んでいる時の自己満足であれば、
「自分が満足してもいないのに、人を満足させられるか」
ということになるだろう。
しかし、責任が伴っている時は、自己満足だけではどうにもならない。一歩立ち止まって、まわりをしっかりと見て、自分にできることだけを考え、
「他に何ができるか」
ということを考えないといけないだろう。
そんな世の中のいろいろな犯罪が増えてきたのは、やはり、コンピュータやネットの発展からであろう。特に、それらの犯罪は、単独で起こるよりも、増えてきた犯罪のケースが、微妙に絡み合うというのもあるし、逆に、パターンが微妙に絡み合っているというのもあった。
ここで、今回警察に掛かってきた電話というのは、その電話番号が、
「以前、ストーカー被害に遭っていて、警察で番号を登録したものだった」
というのも、彼女は暗い夜道、
「男に追いかけられているような気がする」
というのだ。
実際に出てきたこともあったが、すぐに何もせずに過ぎ去っていく。だから、誰なのかも正直分からないという。
もっともここで、
「○○さんです」
と言って申告しても、それが間違いだと言われ、それをしょうめいすることができなかったら、今度は自分の方が加害者になってしまう。
「俺は何もしていないのに、まるで犯罪者扱いしやがって、証拠があるなら示してみろ」
と言われれば、どうすることもできないのだ。
ただ、彼女は分かっていた。その男が数年前自分に付きまとっていて、ここの生活安全課に相談に来た時、
「電話番号を登録しましょう」
と言って、自分の番号を警察に登録することで、
「この番号から掛かってきた時は、何かあったということで、最優先でっ行動を取るようにします」
ということであった。
この被害者というのは、名前を西牟田八重子と言った。
八重子は、当時会社に入ってきた後輩の、
「教育係」
だったのだが、彼女としては、何もそんなことをしているわけでもなかったはずなのに、
「何か俺に気があるんじゃないか?」
という思い入れがあったというのだ。
しかも、この男は思い込みが激しいようで、
「私にはそんな気がなかった」
と正直にいうと、
「恥ずかしがらなくてもいい」
という、まったくトンチンカンな発想を抱くのだった。
「何言っているのよ。そんな都合のいい解釈をしないでよ」
というと、男は面白がって、
「いいんだよ。僕たちの間で恥ずかしがることはないのさ」
という。
だから、二人の間の会話に、一切の結びつきはなく、完全に、すれ違っているとしか言えなかった。
そうなると、有利なのは相手である。
それを分かっているだけに、余計にこっちは、焦りに感じる。相手もこっちが焦っていることを分かっているので、結局、こっちが攻めても、いかにもという形で簡単にごまかされてしまうのだった。
案外と悪党というのは、そういうところがある。
「相手がのらりくらりと何をしてくるのか分からない」
ということになると、自分の中で焦りが渦を巻いていて、相手と会話をすればするほど、相手の術中にはまってしまうのだ。
女とすれば、
「話さないと分からない」
と思う。
しかしそれは、
「話せばわかってくれる」
という、常識的な考えに基づいてのものだ。
しかし、ストーかーになるような男に、そういう常識は通用しない。
警察が中に入っているからと言って、相手がごまかしてくると、意外と相手も、
「この女は俺のものだ」
とでも思っているからだろう。必要以上に落ち着いているのだ。
警察までもが、手玉に取られるということになる。
警察とはいえ、法律の範囲内。さらには、警察の都合のいい理論などは、ストーカー側からすれば、論破は簡単なんだ。
なぜと言って、
「ストーカーになるような男は、一度自分の中で、精神的な浄化が行われている」
だから、警察の、まるで教科書のようなお花畑的な理論など、簡単に論破できるのだった。
警察の方もストーカーの中の一定数に、
「そういう頭のいいやつがいる」
ということが分かっている人もいる。
だから、あまり、論破されそうな時には、
「なるべく相手の調子に合せてしまうようなことをしてはいけない」
というような、マニュアル的なものが出来上がっていたりしたのだ。
今回は、相手が誰であるかということを、八重子が言わなかった。それは、八重子が、
「必ずしもその人だとは、どうしても言い切れない」
と思ったからであって、その考えは間違っていなかった。
だから、警察は、
「じゃあ、あなたの携帯から警察に電話があった時は、最優先で対応するようにしましょう」
ということだったのだ。
というのは、
「ストーカー犯罪というのは、危険が迫って助けを求めても、間に合わないなどということがありえるので、110番の中でも、優先で動く番号として登録しておきましょう」
というものであったのだ。
ということで、八重子の番号は警察の110番機能の最優先ということで、登録された。
しかし、ちょっと考えればおかしなものである。
それを、八重子は訪ねてきた。
「もし、気に障ったらすみません」
と、ひとこと断っておいて、警察官が、
「うん」
と頷いたので、
「以前から警察に対しての一市民としてのイメージなんですが、何かが起こらないと動いてくれないということがあるんですよ。つまりは、ケガをさせられたり、殺されたりしないとですね。だから、正直今までは警察を信用などしませんでした。でもこうやってストーカー被害に自分が逢ってみると、警察を信用できないとばかりも言ってられないと思ったんです。藁をもつかむというんでしょうか? だから、本当にこうやって電話の登録をしてもらったとしても、ただの気休めにしかならないんだったら、私としても、他に考えないといけないと思うんですよ」
というではないか。
それを聞いて警察側も、
「正直、これで絶対に安全ということもないですし、ハッキリ言って、何かが起こってからでないと、我々も動けません。だから、その中でできるだけのことをしようと考えているんですよ。それが見回りであったり、このような電話の登録であったりですね。それを思うと、とてもじゃないが、すべてを守れるわけもないと思います。ただ、あなたも、危険を感じたら、警察に連絡を取るということと、危ないと思うと、人の多いところに飛び出したり、どこかの民家に飛び込んで助けを求めるなどのことが必要ではないかと思うんですよ」
というのだった。
というよりも、そういうしか手はないということであろう。
話を聴いた時は、
「これもしょうがないかな? 警察だって職務なんだから」
と思ったが、すぐに考えが変わった。
「しょうがないかなということで片付けるわけにはいかない。だから警察はいつも、裏目裏目に出て、ストーカー犯罪を止めることができないのではないか?」
と感じた。
要するに、何かがあっても、そのことについて真剣に考えて、精査しないのだろう。だから、すべてが手遅れになるのだ。
これは警察に限ったことではない。政府の政策だってそうだ。ちゃんと治安を守る意識があるのであれば、もう少しストーカー被害を未然に防ぐことができるだろう。
実際にその実態というべき数字を聴いてビックリした。
被害者の数に対して、ストーカー被害によって、命を落とした人の割合がかなり高かったのだ。
ただ、これを警察に訊ねて、
「この数字、本当なんですか?」
と聞いたとすると、ごまかされるに違いない。
「いや、ストーカー被害に遭っている人が皆殺されているわけではないんですよ」
と言って、ちょっとしたたとえを出してきたが、正直、信憑性はなかったのだ。
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
というと、その時の警察官は、こういったのだ。
「ここでの死者というのは、あくまでも、ストーカー被害に遭ったと言って、警察に訴え出た人の中で亡くなった人の数を出しているんです。中には自殺の人もいたりしました。それでも、ストーカー被害者として亡くなった数に加えているんです。そして、分母の方の、数字というのは、今言ったような、ストーカー被害に遭ったと言ってきた人の数を示しているんです」
というのだった。
さすがにこれには八重子もビックリした。
「この男何を言っているんだ?」
とばかりに、その言葉を疑ったといってもいいだろう。
「ストーカー被害を訴えてきた人だけの分母にしているって? ということは、実際にはストーカーに遭っていて、訴えてきていない人がたくさんいるから、この数は氷山の一角だというのだ」
ということは、逆にいえば、
「これ以上の人がいるということを公表できない。あるいはわざとしない。その理由としては、警察が何をしているかということで非難を浴びるということだろう。少しでも人が少ないということを言っておいて、実際には、
「ただの氷山の一角だ」
ということだ。
ここでなぜ、八重子に行ったのかというと、八重子が実際に被害に遭っているからである。
つまり、八重子であれば、
「本当はもっと多い」
ということを口にすれば、
「なんだ、そうなんだ。私以外にもたくさんいるんだ」
というのは、集団意識によって、
「自分だけではないという心理が逆に安心感を与えるということを分かっているのだろう」
さらに、その中での死亡者の数は、
「ここまでこれだけの被害者がいるのだから、それはしょうがないか」
と思うとでも思ったのだろう。
特に自分が被害を受けているということであれば、その考えも無理もないことである。
警察はそんな心理を巧みについたのではないだろうか?
八重子の方は、最初から警察の魂胆を分かっているつもりで話を聴いているので、
「さすがに警察は、こういう逃げ足は速いということであろうか?」
ということで、八重子は、とりあえず、分かったような顔をして聞いていたのだ。
この、
「数による錯覚操作」
というものは、以前の日本で流行った、
「世界的なパンデミック」
に似ていた。
あの時は、最初はそれほど感染者が多くなかったが、死亡率は高かった。だが、発表は死者数に重きを置いたものだった。
しかし、変異を繰り返していく中で、感染者が増えてくると、今度は、死亡者数や、重傷者数よりも、
「死亡率、重症化率」
というものを重点的に口にするようになった。
ここが、
「言葉のマジック」であり、分母が少ない時は、分子を数でいうようにすると、
「まだこんなに、死亡者が少ないんだ」
ということで、追及されることは少ない。
しかし、今度は分母の数、つまり、感染者数が増えてくると、今度は率でいうようになる。人数でいうと、
「前は1、2人が毎日の平均の死亡者数だったのに、今度の変異でが、毎日10人が平均で死んでいる」
と言えば、国民はパニックになるだろう。
だから、余計なことを言わず、ただ、国民が慌てない数字を示すには、分母が少ない時は、数で、分母が多い時は、率でいうようにすれば、言葉のマジックに引っかかって、国民は騒ぐことはないだろう。
ただ、緊急時では、それも間違ってはいない。余計な混乱を招いてしまうと、国民を陽動することになってしまい、できるだけ、混乱を招かないようにしなければならないというのは、当然のことであった。
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