第4話 矛盾とパラドックス
今から四十年くらい前だと、映画などで上映されるようなSF作品も結構本になったりしていた。
SFブームだったと言ってもいいのかも知れないが、SF作家として一世を風靡した作家もたくさんいた。専門的にSFばかりを書いている作家もいたが、どちらかというと、他のジャンルを専門に書いていた作家が、SFにも手を出すという形が増えてきた。
そのせいもあってか、SFブームというのは、それほど長続きするものではなく、作品としても、それほど多いものではないだろう。
それよりも何よりも、SF作品について、SF専門に書いていた作家が書いたエッセイを読んだことがあったが、SFがあまり流行しなかった理由を彼なりに分析していた。
「SF作品の中の、テーマになりそうなことは、それほどないのかも知れない。例えば、ロボットものであったり、タイムマシンを使ったタイムスリップもの、あるいは、機械を使うことなく、主人公が異世界に入り込むというもの。最後のものは、オカルトであったり、ファンタジーとして別の作品を描くことがあるが、SFとして、それらの作品を描こうとすると、どうしても、限界にぶち当たることがある。そこを限界として素直に描くか、あるいは、そこから先を別のテーマとして扱うかというところで、作風と内容がゴロっと変わってくるというものだ」
と、書かれていた。
ここから先は、結構学問的な書き方をしていたが、
「なるほど」
と思わせる部分が結構あった。
要するに、SF的な発想を司るテーマというのは、、
「現実的に可能なものなのだろうか?」
というところから始まる。
もちろん、実現可能だということを前提に書くわけだが、そこに至るまでの過程が小説になるのだ。しかし、実際にそこに限界があるのだとなれば前提が変わってくる。そこを敢えて書くというのであれば、それは、挑戦ということになるのではないだろうか。
例えば、まずは、タイムマシンの話からであるが、タイムマシンというのは、昔からよく言われることで、
「タイムパラドックス」
と言われているものがある。
これは、タイムマシンができてから、過去に行く場合などがよくたとえ話になるのであるが、
「例えば、自分がまだ生まれる前の過去に戻ったとしよう。そこで自分の親になるはずの母親を殺してしまったとすればどうなるのだろうk?」
というのが、一番分かりやすい話である。
「となると、少なくとも自分が生まれてくることはなくなるわけである。ということは、生まれてくるはずのない自分が、タイムマシンに乗って、過去に行くことがないとすれば、そのまま歴史は何も変わらず、自分が生まれてくることになる。だが、生まれてきた以上、大きくなってタイムマシンを使って、親を殺す……」
と、こういうことになると、まったく矛盾した話になるわけだ。
一種の、
「メビウスの輪」
のようではないか。
メビウスの輪というのも、一つの帯のようなものを捻じれた形で線を引くのだが、その線が最終的に交わるというものではなかっただろうか?
矛盾したものが、同じ世界、同じ次元に存在すること、それをパラドックスという言葉で表しているということなのであろう。
タイムマシンにおける時間と空間、さらに次元の溝のようなものへの発想は、今までにいろいろな科学者、物理学者によって創造されてきた。
アインシュタインの、相対性理論などは、その最たるものではないだろうか。アインシュタインというと、十九世紀から二十世紀に掛けての人物であり、少なくとも近代史に名を遺す人である。しかし、この相対性理論を、かなり昔に考えていたのではないかと思われる話が伝わっていたりしないだろうか。それも日本でである。
昔のおとぎ話の中にある、浦島太郎の話、これこそ、タイムマシンやタイムパラドックスの話の原点ではないだろうか。
おとぎ話がたくさん書かれている、御伽草子は室町時代だというから、今から、六百年くらい前になるのだろうか。
浦島太郎の話というと、ほとんどの人が知っていて、知らない日本人はいないのではないかと思える。話を少し端折った形で話すと、
海辺で子供たちから苛められていた亀を助けたことで、浦島太郎は、カメの背中に乗って竜宮城というところへ行き、そこで歓迎を受け、三日三晩くらい、大宴会が行われたというのだが、浦島太郎が、故郷を懐かしがったので、乙姫様から、決して開けてはいけないと言われた玉手箱を貰って、元の世界に戻ってくると、そこは自分のまったく知らない世界で、自分が知っている人を一人も見つけることができなかった。そこで落胆した浦島太郎が、玉手箱を開けたことで、おじいさんになってしまった」
というようなお話だったはずだ。
しかし、この話には突っ込みどころがたくさんある。
まず一つは、乙姫様の行動だが、
「決して開けてはいけない」
という箱を、どうしてお土産でも渡すかのように、挙げてしまうのかということである。
決して開けてはいけないものなら、持たせる必要もない。荷物になるだけだからである。
言っていることと、やっていることがまったく正反対だという矛盾である。
もう一つは、カメを助けた時、海の底にある竜宮城に、カメの背中に乗って行ったということだが、よく窒息しなかったものである。しかも、行きもそうだが、帰りについては言及していなかったが、やはりカメに乗って地上に行ったのであろう。つまり、窒息しないような仕掛けが施されている? まるで潜水艦のようなものが存在していて、海と地上を、自由に行き来できたということであろうか。
さてもう一つ、これが一番浦島太郎の話の中で問題となることだが、
「カメを助けたという、いいことをしたはずの浦島太郎が、最後にはなぜ、悲劇のヒーローにならなければいけなかったのか?」
ということである。
他のおとぎ話の中でも、このような矛盾と思われるような結末はあまりないと思われるのだが、どうなのだろう?
気になって調べてみると、どうやら、浦島太郎のお話には続きがあるという。
浦島太郎が、玉手箱を開けて、途方に暮れているところに、乙姫様が追いかけてきたという。
乙姫様は浦島太郎のことを好きになって、浦島太郎を追いかけて、お互いに、鶴亀になって、永遠の幸福を手に入れたというハッピーエンドであった。
だが、ここにも考え方によっては、大きな矛盾を秘めていることになる。
もし、これがハッピーエンドなのだとすれば、乙姫様は、どういう風に理解すればいいというのか、そもそもあの玉手箱は何だったのか? ただ、おじいさんにするだけではないか。何ら意味のないものだ。それをわざわざ、これ見よがしにお爺さんにしなくてもいいようなものではないか。
しかも、言われている話としては、
「開けてはいけないというものを開けたことで、ハッピーエンドはあり得ない」
という発想から、敢えてラストを変えたのだという発想。これはおかしい。
それこそ、何のための玉手箱だったのか分からなくなってしまう。
しかも、カメを助けたということがまったく無意味になってしまうのではないのだろうか。
では、これをハッピーエンドにしたかったのは、先ほど言った、乙姫様が陸に上がったことが問題ではないかと思えることだ。
そもそも、この話が教育として確立したのは、明治時代に教育の義務化とともに、教科書の編纂などの中で、教育の上で問題のあるものは、削除したり変えてしまったりするという検閲が行われたのだという。
つまり、このおとぎ話で、乙姫様が陸に上がってくるということは、少なくとも自分が支配している国家を、元首が見捨てたということになる。しかも理由が人間の男に惚れたからだなどということは、教育上ありえないだろう。
そう考えると、
「開けてはいけないというものを開けてしまったということで、責任を取らせる」
という意味での説得力は、逆転された形になるのではないだろうか。
これが、菜々美の説であり、誰もこんな発想を抱くことはないような気がした。しかも、さすがにこのような説を唱えるような人もおらず、明治政府の考えることであれば、こちらの方がリアルで説得力もあるような気がする。
いくら海底の世界の王国だって、一つの国家であることに変わりはない、その国家元首が勝手に国政を放棄して逃げ出すなどというのはあってはならないことだ。
ひょっとすると、作者が時の足利政権や、封建制度に対して恨みを持っていて、当てつけのつもりで書いた作品なのかも知れない。
少し考えすぎではあるが、とにかく、浦島太郎の話には突っ込みどころが満載なのだ。
さらに、浦島太郎が三日後だと思って上がってきた陸地の世界は、七百五十年後だという。そこまでは教科書には載っていないが、おとぎ話としては残っているという。そういう飯豊、浦島太郎の話に限らず、他の話もどこまでが隠さずに描かれている話なのか、まさかとは思うが、伝わっている話とはまったく違うものとして習っているのかも知れない。
そもそも、おとぎ話をまとめたのが御伽草子ということであるとするならば、言い伝えなるものは、各地にいろいろな形で残っている。浦島太郎と似た話が残っている地方も済ん財しているらしいし、桃太郎だって、
「この土地にある島が鬼が島だと言われている」
という話もあるではないか。そんなことを考えると、
「各地に残っている言い伝えの、信憑性のある話を、そのまま使用した」
という話もあるだろうし、
「それぞれの一部を切り取って、別の一つの鼻足に作り上げた」
というものもあるだろう。
それがおとぎ話の正体だとすると、それぞれに残っている伝説をすべて調査しなければ、おとぎ話の研究はできないのではないかと思えるほどであった。
それを考えると、タイムマシンに繋がる話の代表格は浦島太郎の話だと思えるのだが、他にも似たような話が存在し、そちらの方が、さらに人間がタイムマシンを創造するという原点になるような話が転がっているかも知れないと思うのも無理もないことなのかも知れない。
とにかくタイムマシンというのは、浦島太郎の話からも、タイムパラドックスという意味からも、矛盾から始まっていると言っても過言ではないのではないだろうか。
SF小説や、それに派生した話としてのオカルト、ミステリーなどで、
「限界を感じさせる発明物」
という意味で、
「ロボット」
が考えられるのではないだろうか。
ロボットという発想は、百年以上も前からあり、日本では江戸時代には、
「からくり人形」
として考えられていた。
海外では、小説などの中に、フランケンシュタインなどの発想もあったりということで、古くから、
「理想の人間の創造」
という形で、考えられていたのだろう。
しかし、研究が本格的に進むにつれて、ロボットというものが、
「実現不可能なものではないか」
と言われるようになってきていた。
いろいろな観点から言われていることであるが、まずは、
「ロボットというものは、最低でも、人間の命令を受けて、人間の望んでいる結果を作り出さなければいけない」
というところにあった。
だが、実際にはどうであろうか?
ロボットが動くことができるようになるためには、人間が考えているのと同じだけの発想がロボットの中でできなければいけない。つまり、
「一を聞いて十を知れる」
というほどに、いわゆる忖度ができなければいけないものである。
ひところの命令で、その意を汲んで行動する。人間同士にだって、簡単にできることではない。普通誰かに何かをしてもらおうと思うと、詳しく指示書を作ったり、言葉で説明する時も、筆記具などを使って示さなければ勘違いされると、自分でする方がよほそいいということになるであろう、
それをさらにロボットにたった一言でやってもらおうという考えは、かなりの困難さを秘めている。
実際にロボットを開発した人が、シュミレーションしてみたというのだが、まずはロボットに、
「洞窟の中にある燃料を取ってこい」
と命令したという、
その下には、燃料の箱を移動させると爆発するという爆弾が設置されていて、爆弾が爆発するとあたり一面が吹っ飛び、自分も生きて居られないということをロボットは分かっていたようだ。
だが、ロボットには箱を動かすと、起爆装置のスイッチが入るという理屈までを考えることはできなかった。そのために、そのまま、燃料とともに、木っ端みじんになったという。
そして二号機を作り、その時、箱を持ち上げればスイッチが入って爆発するということを理解させることと、それぞれの事情の下で、考えるということができる機能を搭載して、再度同じことをさせたという。
するとどうなったかというと、
「ロボットは、箱の前までくると、どうすればいいか考え始めたという。そしてそのまま動かなくなってしまったのだ」
ということであった。
この場合は、ロボットが、箱を動かした時にどうなるかということを考えていたが、
「もし、箱を動かして、洞窟が壊れだしたらどうしよう?」
であったり、
「もし、まわりが真っ白になったらどうしよう」
というような、この場面とまったく関係のないことまで考えようとしたことで無限ループに入ってしまったようだ。
そこで次に、ロボットに対して、
「無関係なことを考えないようにする」
という機能を入れたのだが、これまた、今度は洞窟の入り口から一歩も動かない。つまりは、ロボットの思考回路のスイッチを入れた瞬間、無限ループに陥ってしまったのだ。
つまりは、
「無関係のことを考えないようにしよう」
という機能を入れたとしても、ロボットに、何が無関係なのか、それが分からないのだから仕方がない。
それを研究者は、
「ロボットの機能が悪いのではなく、情報が少なすぎるのだ」
ということで、できるだけの情報をロボットに詰め込んだ。
だが、結果は一緒だったのだ、
一つの考え方として、
「無関係なのか、関係のあることなのかというのを考えた時、関係性のあることを一つのパッケージにして、それを組み合わせることで、ロボットに判断させればいいと考えた。つまり、一つのパッケージを、レンズの中の被写体であるフレームのようにする」
という考えだった。
だが、これはある意味まったく無意味なことであり、
「確かに、可能性をフレームかすれば、かなりのパターンが絞り込まれるかも知れないが、可能性が無限である以上、いくらフレーム分けしたとしても、分ける数も、無限ではないかと思うからだ。要するに、ロボットが無限の可能性を計算して答えを求めるというのは、不可能だ」
という考えである。
これがいわゆる「フレーム問題」と言われるものだが、これがタイムマシンでいうところのパラドックスのようなものだと言えるのではないか。
矛盾というわけではないが、
「無限をいくら細分化したとしても、無限は変わらない」
という発想は、数学的な考え方における、一緒にパラドックスのようなものだと言えるのではないだろうか。
それを考えると、ロボットには、かなりの限界があると思われる。
だが、これとは別に、
「ロボット開発が不可能だ」
と呼ばれていることがある。
前述の「フレーム問題」も、かなり大きな問題であるが、それ以上にこちらの発想が解決できなければ、ロボット開発というものが進むはずはないのだ。
フレーム問題が、起爆装置であるなら、こちらの問題は一種の、
「制御装置」
と言えるのではないだろうか。
ロボットというものは、
「理想の人間の創造」
であり、科学の行き着くところと言ってもいい。
つまり、人間よりも優れていて、力も強く、そして、一歩間違えると、人間を支配しかねない存在だと言えるのだ。
これは、いわゆる、
「フランケンシュタイン症候群」
と言ってもいいだろう。
フランケンシュタイン博士は、理想の人間としてのロボットを作ろうとして、誤って、怪物を作ってしまったという小説から、考えられたことであり、これこそ、科学の人間
に対しての警鐘というべきではないだろうか。
そのためには、ロボットが人間のために開発されたものだということを人工頭脳に叩きこみ、人間に対しての安心安全を担保するものでなければいけないという命題があるのだ。
フランケンシュタインの話が小説なら、この解決法も、小説家が提唱したものであるということも面白いところである。
その小説家は別に学者に対して提唱したわけではなく、、ただ、自分の発表した小説のネタとして書いただけだったのだが、それが次第にロボット開発のバイブルとなり、今でも研究がつづけられているというものである。
いわゆる、
「ロボット工学三原則」
というものだが、いかに人間に安心安全をもたらすか、そして利益を損なわないかというところからの発想である。
話は近未来(実は小説が書かれた時代から見れば近未来だが、実際には過去の話もある)で、本当であれば、開発されているはずのロボットは、その片鱗スラなかなかできていないのが現状である。
今のロボットというと、一つのことだけを専門にするという程度の頭脳しか持っていないロボットなのだ。お掃除ロボットであったり、お料理ロボットなどの、家事ロボットができたということで、世の中は、
「すごいことだ」
と言っているが、昔の人たちからすれば、今の時代には人型で人間に近いロボットができていて不思議のない世界であったはずだ。
何しろ、まだ車が、空中を走っていないという程度の世界なのだからである。空想だけならいくらでもできるということであろうか?
「ロボット工学三原則」というのは、三原則というだけあって、第三条まである。そして、そのうちの上位二つには但し書きがついている。
第一条として、
「ロボットは、人間を傷つけてはならない。もし、自分が何もしないことで、その人間に危害が加わる場合には、それを見逃してはいけない」
第二条として、
「ロボットは、人間のいうことを聞かなければならない。しかし、第一条に抵触する場合はその限りにあらう」
第三条として、
「ロボットは、自分の身は自分で守らなければならない。ただし、一条、二条に反する場合はその限りにはない」
というものである。
元々がアメリカ人が書いたものなので、適当な書き方になったが、ほぼこの内容に違いはないだろう。
この条文は見ても分かる通り、第一条から第三条までの間に、確固とした優先順位が示されている。つまり、一番犯してはいけないものは、
「人を傷つける」
ということである。
これは、フランケンシュタインの発想から来ているもので、人間のために作るロボットが人間を傷つけてしまっては、本末転倒だからである。そして、人間のいうことを聞くというのも当たり前のことであるが、もし、この間に優先順位がなければどうなるか?
「〇〇を殺せ」
という命令に従うと、誰かを殺してしまうことになる。これが一番の問題なのだ。
主の命令を訊かないロボットであれば、必要はない。ましてや、人を傷つけるなど、言語道断というわけだ。
さらに、第三条の自分の身は自分で守るというのは、もし、他の人間が、ロボットに、
「自殺(自分を破壊)しろ」
という命令を出したとすれば、これは基本的には従わなければいけないが、だからと言って、そちらを下手に優先してしまうと、ロボットというせっかくお金をかけて作ったものを、ちょっとした悪戯で破壊することもできるからだ。
つまりロボット工学というのは、あくまでも人間優先に考えられていて、その中で、この優先順位がいかに大切であり、一歩間違えれば、この矛盾が、人間に災いをもたらすことになるかも知れないという警鐘でもあった。
それをテーマに書いた小説が、現代でもバイブルとして読まれているのだから、すごいものだ。時代としては、今から六十五年くらい前であろうか。
そういえば、日本で第一期ロボットブームが訪れた時、改造人間であったり、アンドロイドであったりが活躍する特撮があったりした。
その頃のテーマに、この
「ロボット工学三原則」
が使われているのも多かったことだろう。
世界征服を企む悪の組織は、ロボットたちを使って、いろいろな災いを人間界に送り込もうとしたが、それを阻止するために、知識人としての科学者が、正義のロボットを作るところから始まるのだが、あくまでもロボットは人間の手先であり、ロボットが心を持ったとすれば、どのように感じるかという、ロボット目線での話もあったりした。
それが、今のアニメの走りだったと思うと、よくできていたと思う。昔の特撮が今でも愛され続けているのは、そういうところから来ているに違いない。
それを思うと、ロボット工学という発想はすごいものだ。もっというと、フランケンシュタインという話も、さらに昔のことであり、ひょっとすると、それ以前にも、
「もっとすごい話が存在したのではないか?」
とも思えてくる。
日本にだって、浦島太郎のような、タイムマシンや相対性理論を思わせるような話が存在したのだから、同じくらいの時代にロボットについての発想が生まれていたとしても不思議ではないだろう。
ヨーロッパではルネッサンスという中世n芸術が花開いた時期なのだ。日本もないとは限らないのではないだろうか。
そんな昔に思いを馳せていると、自分が演劇に夢中になる理由も分からなくもない気がする。
「時代は繰り返すっていうけど、これくらいの時代で周期しているとすれば、興味深い気がするな」
と、菜々美は感じたのだった。
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