第3話 公園のシート

 考えることと、自分がこれから成長のために進んでいかなければいけない道をいろいろ考えていると、どうしても、世の中に対しての不満になってしまうのは悪い癖であった。

 しかし、そこから歴史的な発想になるのは、自分では決して悪いことではなく、

「確かに歴史は、何かの答えを出す意味で、大切なことだ」

 と思うようになった。

 劇団で芝居をしていると、その背景の歴史を勉強することもよくある。世界史が多いのだが、どちらかというと菜々美は日本史が好きだった。

 昔は歴女と呼ばれる人たちが好きになる戦国時代をよく勉強したものだが、最近では、明治以降の歴史が好きであった。

 幕末などの新選組や、薩長の時代を好きな人もたくさんいる。坂本龍馬に憧れる人も多いだろう。

 確かに歴史の扉を開けるために奔走した人たちの歴史は大切な気がするが、実際に歴史を作ってきたのは、その後に生き残った人たちである、

 そういう意味では、伊藤博文、山形有朋などのような、

「維新の元勲」

 と呼ばれるような人たちが歴史を作ってきたと言ってもいい。

 日本人はどうしても判官びいきのために、新選組であったり、坂本龍馬、さらには、志長場で病に倒れた、高杉晋作、新選組の中の沖田総司のような人たちに人気が集中してしまうのだろう。

 そういう意味では、生き残った人たちは悪訳に近い。日本の夜明けを見て、その後の日本の礎を築いたのに、この違いはなんだというのだ。

 おそらく、自分の好きな歴史上の人物を中心として見るために、それ以降の歴史には興味がないのかも知れない。明治初期で自分の歴史を終わられてしまっているので、悪役のままに、意識されているのだろう。

 そういう意味では、歴史を勉強したり、好きな人を中心に見ていくと、どうしても、敵役というのが必要になってくる。それが維新の元勲であるというのは、皮肉なところであろうか。

 しかし、実際に歴史が進んで、昭和の時代になると、歴史を紡いできたはずなのに、いつの間にか、違う世界に入り込んでしまったような意識があるかも知れない。歴史を正しく理解していないと、

「年月が原因に違いない」

 と、理解できないことを、時間の経過のせいにして、理解しようとしない人には、

「歴史が好きだ」

 という言葉を言わないでもらいたいと思うくらいだった。

 だが、そうやって歴史を勉強していくと、限りがないということに気づかされる。その証拠に時間は進んでいるのだ。今日一日、十年分くらい勉強しても、今の時代に追いつくまでにどれほどの理解が必要になるというのか、しかも歴史というのは、今に近づけば近づくほど、勉強することは深くなってくる。

 それだけ情報が身近にあるからではないかと思うのだが、それだけたくさんの人が歴史に関わっていることが分かってくるからである。

 明治以降の歴史を勉強しようとしても、残っている書物などは結構限られた情報しか乗っていない。

 しかも、日本は一度、立憲君主国から、民主主義国家に生まれ変わったという歴史がある。

 その歴史は日本人が作ったものではなく、いわゆる「戦勝国」と呼ばれる国々から、押し付けられた民主主義である。

「勝者の理論」

 での押し付けは、混乱も招いたが、ある程度混乱を招いただけで、隣の国のように分裂することもなく、今では、

「戦争のない国」

 となっていた。

 それがどこまで本当によかったのかというと、まだ歴史は答えを出していないようだが、軍国主義にいたり、日本が歩まなければいけなかった限界が、敗戦という形で、国家をリセットすることになったのだ。

 ただ、一つ言えることは、

「今、本当に見なければいけないことが見えているのだろうか?」

 ということであった。

 そんなことばかり考えていると、

「菜々美さんはいろいろ考えすぎなんだよ」

 と、先輩からよく言われてしまう。

 入団してから、最初の頃は、

「まだ、入団して慣れていないわりには、覚えがいいのかも知れないね」

 と、団長から言われていたが、慣れてくるくらいだろうか、どこかあまりうまくいかなくなってきているようだった。

 何がよくないのか、自分でも分からない。しかも、歯車が合っていないということをまわりも意識しているが、まわりの意識の度合いよりも、自分で感じている意識の度合いの方がかなり幅が広いのではないかと思えるのだった。

 それがどこから来るのか分からなかった、それを先輩からの指摘で、

「考えすぎだ」

 と言われるということを、まったく想像もしていなかった。

 確かにいつも、いろいろ考えているという意識もないわけではなかったが、考えすぎが、まるで災いしているかのような言われ方は、

――自分で言うなら分かるけど、他人に分かるのかしら?

 と思わせるところがあった、

 だが、それこそ自分で感じるよりも他人が感じることの方が多く、それを指摘してくれるということは、それだけ自分が劇団の中で重要なポジションになりかかっているかということの表れでもあろう。

 そうでなければ、わざわざ嫌われるかもしれないようなことを、自ら言うわけもない。それを口したということは、よほどの確信がなければ言えることではなく、

「他人が指摘することでもないのかも知れない」

 ということを十分に理解していると思っているにも関わらずであることは、菜々美にも分かっていることだった。

 確かにいきなり言われれば、普通なら、

「他人になんかわかるわけはない」

 と、頑なになって、殻に閉じこもるかも知れないレベルの問題のような気がする。

 これは客観的に考えてもそうなのであって、頑なということが、いかに自分にとって、そんな役回りになるかということを考えると、

「誰が損なのか?」

 ということにもなりかねない。

 そう思うと、分かっていても、決して言えないだろう。友達関係ではなくなり、しかも、遺恨が残ってしまったり、それによって、他の人からも違和感を持たれるようになると、まったく得をしない、損ばかりの結果になるだろう。

 しかも、重要なのは、相手がちゃんとそのことを自覚しているかということと、その人の性格とのバランスでもある。

「自分でも気づかなかったようなことを指摘してくれて、本当の親友でもなければ、できないことだ」

 と賛美を感じてくれるのか、それとも、

「知らぬが仏という言葉もあるのに、余計なことw言って、おかげで気分が悪くなってしまった」

 と、どんどん悪い方に考えてしまうだけの効力を十分に持ってしまう可能性だってあるのだ。

 それを思うと、言ってしまうことの方が明らかにリスクが大きい。しかも、そんなことをしてしまうと、劇団のような団体の結束が必要とされるところは、却って全体がぎこちなくなり、思ったことを何も言えなくなってしまうという最悪の結果を招いてしまうことになるのではないだろうか。

 それを思うと、菜々美はまわりの皆が少しずつ、自分に対して、アドバイスを与えてくれるのはありがたかった。

 一人が代表で悪者になる必要もない。それに皆がそれぞれでアドバイスを与えてくれるというのは、皆が分かっているということだ。それを思うと、

「皆も、かつて同じようなことを感じたことがあるのかも知れない。つまりは、誰もが通る道を今通っているだけで、皆も先輩から似たようなアドバイスを受けていたのかも知れない」

 と感じた。

 そう思うと気が楽になってきた。

 プレッシャーのようなものは消えていくような気がして、それよりも、自分も皆と同じ道を辿っているとすれば、気を楽にして、感じていることを進んで行けばいいのかも知れないような気がしてきた。

「考えすぎないように」

 というアドバイスも、感じたことを進んで行けないいという言葉の裏返しではないかと思うのだった。

 それから少しして、劇団の講演がきまった。その中には菜々美の出番もあるようで、もちろん、ちょい役と呼ばれるもので、プレッシャーをそんなに感じるわけではないが、何しろ菜々美にとっては、デビューである。

 しかも、今まではステージに立ったことがないだけに、稽古では何度かステージに立つ練習はしてきたが、本格的な演劇をステージの上からやるのは、本当に最初であった、

 いきなりのデビューでは緊張するのは当たり前、どこかで自分なりに練習のできるところはないかと思っていた。

 菜々美が選んだのが、夜の公園だった。

 それでも、最初から公園で稽古をすると、散歩をしている人やジョギングをしている人、さらにはカップルからの視線を浴びることになる。

 ただ、幸いなことに、公園を利用する人というのは、それぞれに自分たちのことで精いっぱいであり、人が何をしていようとも気にならないものではないかと思っていた。

 一つ危惧するのは、そんな中で、少々でも大きな声を出して目立つような態度を取ると、露骨に嫌な顔をして、軽蔑に近い視線を投げかけてくるだろう。

 その視線というのが、

「邪魔されて困る」

 というものなのか、それとも、

「下手くそが、こんなところで稽古なんかするんじゃない」

 というものなのか、つまりは、自分たち中心の考えなのか、それとも、単純に相手への文句なのかというのは、視線から見抜くのは難しいかも知れない。

 そんなことを思っていると、

「私はどうすればいいんだろうか?」

 と考えるようになった。

 声を出さずに稽古はできないこともない。しかし、それだと公園でわざわざするのも意味がない。

 誰にも見えないところで、声を出せばいいかも知れないが、そんなところってあるだろうか?

 と考えたところで、

「そうだ、会社の近くの公園があるじゃないか。あそこならシートをかぶせてあるし、少々声を出しても、響かない。それに他の人から見られることもない」

 表から見た分には、結構な広さのしーろであった。

 普段は、芝生を敷き詰めた場所であり、

「市民の憩いの場」

 として君臨し、まわりがジョギングコースになるくらいの広さを持っていた。

 ここでは秋口から、春になる頃までの間、芝生の造営や、整備のために、十分な期間として、二週間封鎖してみたりするのを、何度か繰り返していた。

 だから、秋から翌年の春までの間、芝生が見れない時期というのは結構あり、半分まではないが、人によっては、

「冬のこの時期は、いつ来てもシートが張ってある、だから、年中、シートが外されるようなことはないんじゃないか?」

 と思っている人も多いのかも知れない。

 そんなことを思っていると、この時期も、恒例のシートで被う時期がやってきた、

「そういえば、数年前は一年間くらい、ずっとこの公園が封鎖された時期があったんだよな」

 と、菜々美は思いにふけっていた。

 そう、あれは、緊急事態を発したことにより、夜間の酒の提供が飲食店でできなくなり、しかも飲酒厳禁の中で、飲食店すら時短営業を強いられていた時期だったので、一ぼの不心得者たちが、

「それなら、夜の公園で酒を買い込んで宴会すればいい」

 と、この体制の意味を知ってか知らずか、バカ騒ぎを連日していた。

 たぶん、あの連中だって、この措置の意味くらいは分かっていたのだろうが、それよりも政府が迷走していることで、もうすでに市民gいうことを聞かなくなったのが原因だった。

 法的拘束もない。しかも、お願いするだけの、実に弱い政府に対し、その連中はバカにしていたのかも知れない。

 そういう意味では、政府も、一部の不心得者も、五十歩百歩なくせに、お互いを毛嫌いしあっているというのは、はた目から見ていて、これほど滑稽なものはないのかも知れない。

 そんなことだから、あの悪夢だった時代がなかなか収束するわけもなかった。

「本当に奇跡でも起こらなければ」

 と言っていると奇跡が起こった。

 それは、まるで、元寇に責められた時に、台風によっての元軍を退けたといわれる、いわゆる、

「神風」

 の類だった。

 本当にそれでよかったのかどうか、これも歴史が答えを出すことになるのだろうが、過去の歴史ではろくなことはなかった。

 立憲君主の時代には、

「日本は紙の国であり、元首としての天皇陛下がおられる」

 ということで、世の中はその言葉を信じ込んでしまうという体制ができてしまった。

 政府からすれば、恰好のプロパガンダであった。自分たちが、この世でいかに人民を掌握していくか、あるいは、洗脳し、マインドコントロールしていくか、それが全体主義となって、ファシズムに近づいていくのかも知れない。

 だから、

「神風特攻隊」

 などということになってしまうのだ。

 戦争ということだけにか限って言えば、戦術としては、しょうがないところがあるのだろうが、そんなものを作る前に、戦争を終結させる機会はいくらもあったはずであり、終わらせることができなかったことが、生んだ悲劇と言っても過言ではないだろう、

 そんな時代の人間たちは、その主義の良し悪しは別にして、生きるということに一生懸命だったはずだ。

「明日に命がある保証はない」

 という毎日を過ごしてきたのだから、とっくに覚悟もしているだろうし、

「国家のため」

 という意思があるから、できたことだろう。

 しかし、同じ緊急時代の中でのあのバカ騒ぎはどうだ?

「俺たちが死ぬわけはない」

 とでも思っているのか、確かにやつらは死ぬことはないかも知れないが、やつらがばらまくことで死ぬ人がたくさん出てくるかも知れないということを、まったく意識しないのだ。

 それも、

「自分たちさえよければ、自分たちさえ死ななければいいんだ」

 ということなのだろう。

 もし、誰かが交通事故に遭ったとして、救急車を呼ぼうとするのだが、救急絵センターに電話を入れても、

「今使える救急車が一台もないので」

 と言って、断られるということもあったりした。

 また、運よく救急車がやってきても、今度は受け入れてくれる病院がないのだ。出血多量で、そのまま救急車の中で息を引き取るなどということもあったりした。

 いよいよ末期の症状になってきたと思わせたのは、都市によっては、街中のいたるところで、死んだ人がゴロゴロと転がっているのだ。

 病院はすでに受け入れられる状態ではない。保健所もいっぱいだ。火葬しようにも火葬も間に合わない。したがって、死体をそのまま放置するしかない。できるすれば、避難所になりそうなところに死体を集めて、その場に放置し、火葬ができるようになってから、火葬を行うということだった。

 救急車が足りなくなって、病院がひっ迫してくるようになってから、このような状態に陥るまでというのは、実にあっという間だった。

 さすがにその頃になると、あの不心得者の連中も、事の重大さに気づき、顔を真っ青にしていた、

 そういう連中に限って、その街から逃げ出すのだった。

 しょせんバカな連中だということは最初から分かっていたので、

「どこに逃げたって、同じ光景を見るだけなのに」

 と、内心では、

「ざまあみろ」

 と思っていることだろう。

 もう、あの連中のせいで、自分たちの街はおろか、まわりの街も壊滅状態。何をどうしていいのか分からないのは、皆同じことだった。

 そんな時代を生き抜いてきたのは、自分だけではないと思うのだが、何かを考えていると、どうしても、その時の記憶がよみがえってきて、怒りがこみあげてくるのだ。

「他の人はあの時のことをどのような意識で記憶しているのだろうか?」

 菜々美はそんなことを考えて、芝居の稽古をしていた、まだ、舞台を踏めるわけではないので、自分は、今まで演じられてきたかつての芝居の台本を見ながら、

「自分が主人公だったり」

 あるいは、

「この人物を演じるとしたら?」

 ということを考えながら、演技をしていることを想像していたのだった。

 今はいくつかの過去の上映作品の台本を持って帰り、家で見てみたり、会社の休憩時間に見てみたりした。

 夜になると、人が減ってきて、シートの中で稽古をする時の台本であった。

 そんな作品の中に、少し気になる作品があった。だが、それは一つだけを見ているだけでは分かりにくいものであり、一つの作品を読み終わって、次の作品を読み進むにつれて、

「あれ? このお話が?」

 と感じるものがあったのは、その二つの作品が示しているものは、ここ数年の問題になっていたことへの警鐘を鳴らすかのようなものだった。

 作成年月を見ると、

「平成二十九年八月」

 となっている。

 つまり、禍の根すら表に出ていなかった頃に書かれた作品で、もし、あれがなければ、フィクションとして。

「うまく表現されたいい作品だ」

 ということになっているのだろうが、あの時代を通り越してきた人間にとって、この台本は、まるで、予言書のように思うくらいであった。

 しかも、数十年後の未来などという話ではなく、この台本が書かれてから、世界的な問題となったのは、一年くらいしか経っていなかった。それを思うと、

「この台本を書いた人には何か予知能力のようなものがあったのかも知れない」

 という、憶測めいたものが起こっていたことだろう。

 ただ、テレビドラマなどでは、ここまでリアルな感じはないが、似たような発想を思わせるものがあった。

 テレビドラマでは、ラブロマンスのような話であったが、この脚本はあ、SFというか、オカルトに近い話だっただけに、実際に起こってしまうと、リアル感しかないに違いないだろう。

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