第2話 舞台女優の女優以外の発想
体験入団をしているうちに、どんどん演劇というものに興味を持っていくようになっていった。
ここまで来ると、後戻りという選択はなかった。ここで今まで感じたことのない自分というものの表現を生かすには今しかないと思ったのだ。
このことを団長に話すと、
「なるほどですね。あなたの今のお話で、今までに感じたことのない自分をいかに表現できるかに挑戦していたいという考えが私には好感が持てました。私の気持ちとしては、あらためて、ようこそと言いたいと思います。それは団員一同、同じ気持ちではないかと私は思っています」
と言っている。
この劇団の団長は女性であった。
彼女は名前を、富岡和美といい、大学では劇団サークルに所属していたという。いずれ自分の劇団を持つのが夢だったというが、卒業して入ったこの劇団で、前任者の団長が結婚を機に辞めるということだったので、前団長の推薦もあって、彼女に決まったのだ。
この団体の入退は比較的、寛容であった。
「辞めたいと思っている人を無理に引き留めても、お互いに気を遣って余計なエネルギーを使ってしまうので、いいことなど一つもない」
ということが理由であった。
「去る者は追わず」
まさにその通りなのだが、脱退したと言っても、円満だったので、主婦業に専念すると言ってはいるが、表に出ていないところで、裏方として手伝ってもらっている立場に劇団はあった。
これもちゃんとわだかまりもなくやめることができているからで、わだかまりというのは、
「百害あって一利なし」
だと言えるのではないだろうか。
菜々美は、今は主婦になっている前団長の人とも親交があり、よくいろいろ教えてくれていた。現団長の和美さんからも、
「前団長のいうことはいちいち考えさせられるので勉強になるわよ。団員になって最初にあなたがしなければいけないのは、たぶん考えることだと思うの」
と言われて、
「考える?」
「ええ、そうよ、考えるということに対して今はピンと来ていないと思うけど、前団長の話を訊くと少しは違うはずよ、だって、あの人にも私にもそうだけど、あなたにはない、だから想像することができない経験をしているわけなので、その気になって話を訊くことができれば、それが一番いい勉強になるの。その時はきっと無意識にいろいろ考えているはずだからね」
と団長は話してくれた。
「でもね、考えるということの基本は、自分が何を見なければいけないかというのが最初にあるのよ、考えるということに見失うということはあってはならないこと。それだけは頭にいつも置いておくといいと思うわよ」
と、団長は続けたのだ。
実はこの言葉がいずれ影響してくることになるのだが、その時はピンとくる話ではなかった。
菜々美は自分が劇団に入って、今までに何もしてこなかったということを痛感していた。稽古を見ていて、自分もその中にいるように感じながら見ていると、
「私なら絶対にできない。覚えられないもの」
と考えていた。
それとも、身体で覚えていればできることだとでもいうことなのだろうか?
菜々美はそう考えていた。
稽古をしているうちに、仲良くなった人もいた。その人は女性で、自分が入ってくる前は一番の新人だったが、菜々美が入ってきてくれたおかげで、新人ではないという自覚と励みが生まれたと言っていた。
「後輩ができたと思うと励みにはなるんだけど、今までは新人だからということで許されていた部分もあって、今後はそうでもなくなる」
と言っていたが、それでも、新人として見られるよりもいいという。
「こういうサークルでは違うと思うんだけど、中学高校の部活というと、下級生、特に一年生は、半分奴隷のようなもので、実力があろうかなかろうが、いろいろ言いつけられる。逆に実力がなまじあったりなんかすると、妬みからか、余計に疎まれることもあるくらいなのよ。何しろ実力があると、まわりが勝手にちやほやするので、本当はあれって、嫌なのよ。自分のまわりで妬みが酷いからね。だから、ちやほやされているのを見ると、その人はほとんど複雑な顔をしているでしょう? あれを照れ臭さからだなんて思ったら大間違い、その後の妬みによる苛めが怖いからなのよ。だって、クラブ活動なんて。しょせん生徒の間で行われていることであれば、大人の知るところではないでしょう? それに、他の生徒には、その人が人気が出ようがどうしようが、自分に何かがあるわけではない。苛立ちしか残らないので、怒りが向いてくるのも当然のことよね。私だってその立場になれば、同じことを感じると思うわ。だから、私は新人と言って一番下にいるのは、本当は怖いと思っているの。なるべく目立たないようにしようと思っているのは、そのためなのよ」
と言っていた。
言われてみれば、その子は確かにまわりの人に対して、決して目立とうとはしない。できるだけ視界から離れたところにいて、気配を消そうとする。ただ単にそばにいないというだけでは、却って存在感が増してしまう。すなわち、気配まで消してしまわなければいけないほどであった。
今の時代であれば、人とあまり関わらないという人の方が暮らしやすい時代なのかも知れない。(決して暮らしやすい世の中というわけではないという前提)
物理的に人と距離を取ったり、話をすることすら、罪悪に見られてしまうこの数年前から思えばありえない時代。そんな時代を経験したこともあって、世の中はすっかり変わってしまった。
国民が死滅してしまいかねないということが現実味を帯びてきた時、奇跡的に助かったことで今の世界があるのだが(これが現実であってほしいのだが)、その後遺症はいたるところで起きている。
それも、政府が奇跡的と呼ばれることに安堵してしまったのか、実際の検証をほぼほぼ怠ったのは事実だった。
そのせいもあって、過去に起こった事実だけが残ってしまって、しかも、奇跡的な回復なだけに、
「訳が分からないうちに解決した」
ということであっても、最初はとりあえず事なきを得たわけだから、国民ほとんどが喜びに沸いた。
しかし、冷静になって、騒動が収まってみると、残るのは不安ばかりだった。
実際に検証されていないのか、検証はしていたが、それを敢えて国民に公表しないのか?
後者であれば、それは完全に政府による情報操作である。公にできないこと、それは今回の禍に限らず、自分たちに不利になり、政権が転覆しかねない状況になることで、国民を欺こうということだ。
つまりは、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
余計なことを言って、却って自分が不利になるくらいなら、黙っておくことが一番いいということになるだろう。
そして、影の組織を使って、自分に不利になる情報をことごとく抹殺するようにしているのだ。
数々の疑惑をすべてはぐらかし、最後には病院に逃げ込んだ首相がいたし、さらにそれを引き継いだやつは、
「外には厳しく、身内には甘い」
という政府の私物化ともいうべき男、そんな連中に国難が賄えるわけでもない。
そんな連中が政権の中枢にいるのだから、奇跡でも起こらなければ、収まるはずもないことだったのだ。
ということは、検証をしてしまうと、
「我々がどれだけ無能であったかということを、自分の手で公表することになる」
と考えているとすれば、お門違いだ。
そんな無能など誰もが最初から分かり切っていること、公表するしない以前の問題なのだ。そんなことを国民が分からないと思っているところが、やつらの甘いところである。一億人以上の人口の人間すべてを騙すことなどできるはずはない。民主主義の世の中なので、過半数以上であればそれでいいのだ。少数派意見は切り捨てられる。
「自由で平等な国家」
というのが民主主義だとすれば、平等と差別という言葉は決して相反するものではないと言えるであろう。
それぞれをいかに折版してうまく矛盾を少なくしていけるかというのが、民主政治の根幹なのだろう。
残された国民はまるで原始時代のような感覚に陥った人が多いだろう。実際に、世の中が混乱の境地にあった時期は、混乱と不安、さらには、自分に対して、さらに他人に対しての疑心暗鬼。つまりは、誰の何を信じていいのか分からなくなってしまったということであった。
前の日までは、こっちがいいと新聞に出ていたことが、その日の昼の放送では、
「昨日の情報はデマです。決して行動に移さないように」
と言っても、時すでに遅しである。
死というものがすぐそこまで迫ってきていて、信じられるものが何もなければ、マスゴミが公表した内容に飛びつくのも人間としての心理だろう。
しかしすでにその頃はマスゴミの情報が、ほとんどあてにならないことも分かってきて。しかも、マスゴミの言うとおりにしてしまうと、ほとんどが犠牲者として名前を連ねることになっていた。
もうそうなってくると、何を信じていいのか分からず、元々の根底にあった禍などよりも、世間の混乱の方が、社会の崩壊を加速していたのだ。
だからそこ、あの状態が収まったのは、奇跡と言えるであろう。
さすがにそんな状態から社会が元に戻るまで、そんなに簡単に行くわけもない。
まず当時の政府は、この禍を止めることができなかったということで、責任を取って退陣することになった。
ただ、それも、
「往生際の悪さ」
もハンパではなく、
野党から不信任案が出ようとも、国民から叩かれようとも、辞任に追い込むことはできなかった。
だが、その状況に鉄槌をぶち込んだのは、天皇だった。
「現政権の責任は、如何ともしかがき、是非もなく」
と言ったものだから、あれだけ往生際の悪かった連中が、その翌日には内閣総辞職をしたのであった。
普通であれば、天皇が口を出すことはいけないことであったが、それによって国民が救われたのは確かであった。
ただ、その政権がなぜ国民を敵に回してまで権力の座にしがみつこうとしたのか、あるいは、なぜ、そんな政府が、天皇の一言で、こんなに簡単に総辞職をしたのかは、まったくのなぞであった。
ネットではいろいろ言われたが、あまりにも情報が少なかった。なぜなら、あれだけ騒ぐマスゴミの連中が、この件に関してはまったくの緘口令を敷いたからである。
本当にマスゴミというのは、いい加減なものである。
考えてみれば、大日本帝国時代だってそうではないか。
戦前には、国民を戦争に煽って煽って、
「天下無敵の日本軍」
をいかにも宣伝していた。
確かに、天下無敵ではあった。
日清戦争では、ほぼ負け知らずの快進撃であった、日露戦争ではかなり様子が違っていたのだが、確かに無敵ではあった。
ただ、日露戦争の場合は、相手は世界有数の大国、ロシアである。眠れる獅子と言われ、列強から食い物にされた上に、国家予算は戦争に使えるほどではなく、兵器のほとんどが老朽化していた清国相手というわけにはいかない。
「薄氷を踏むような勝利」
などという生易しいものではなかった。
戦争の中にあるいくつかあるターニングポイントで、一つでも間違っていれば、負けていたという状態で、そのすべてに勝利した。これは、戦力どうのというだけではない、運も大いに味方した証拠だろう。
ただ、運が味方してくれるようになるには、運が味方してくれただけでひっくり返るくらいのお膳立てが整っていなければいけなかった。
つまり、日本は、あらゆる可能性、あらゆる場面を想定し、さらに、先の先を詠んだ作戦を立てておかなければ、いけないということである。
その一番のいい例が、日英同盟の締結であっただろう。
もっとも、日露戦争に踏み切るだけの大前提として、日英同盟がなければ、さすがに戦争を起こすということだけでも自殺行為だっただろう。
さすがに日本も分かっていたはずだ。
「モスクワまで攻めて行って、占領するというような相手を屈服させるのだけが戦争ではない。個々の戦でそれなりに戦果を出して、有利になったところで、第三国に調停してもらって、講和条約を有利に結ぶ」
これしかないということであった。
ロシアの南下政策に対しての共通の懸念を抱いていたイギリスとの同盟締結は、当時、どこの国とも軍事条約を結ぶことのなかったイギリスにとっての初めての同盟国であり、共通の敵ロシアをけん制するという意味でも大きなことだった。
何とか日本陸軍は旅順港の艦隊閉塞作戦には失敗したが、二〇三高地攻略で、艦隊撃滅に成功した。いざやってくるバルチック艦隊との決戦のため、ここで日英同盟が役立つことになる。
バルチック艦隊がバルト海を出発して、公海上を日本に向かうには、ヨーロッパ、アフリカを迂回し、さらにインド洋を東に向かって、シンガポールを北上するコースしかなかった。
当然数か月の航海なので、途中食料補給や水の補給、燃料補給などが必要で、寄港する必要も出てくるが、イギリスが日本と同盟を結んでいるので、イギリス領には寄港できない。そのため、当然日本に来ることにはこれから決戦だというのに、ほとんどボロボロの状態だった。そしてそこに待ち受けていたのは、佐世保や呉などの軍港で、十分に整備を受けた日本海軍だった。
旗艦「三笠」を中心に、新型の火薬を使い、日本海海戦において、半日という短い時間で、雌雄を決することになった。
日露戦争の勝利のい瞬間と言えるのは、海軍による日本海海戦の勝利と、陸軍による、奉天会戦の勝利であろう。
それを持って、アメリカを仲介に、ポーツマス条約を結ぶことになるが、満州や遼東半島への権益は得ることができたが、戦争賠償金を手に入れることはできなかった。
当時の日本は、もう戦費も兵力も、限界を超えていた、これ以上の戦争継続は国家の滅亡を意味するほどだった。
政府とすれば、
「戦争をしなければ、侵略の憂き目に遭っていたものを何とか逃れることができたのだから、御の字ではないだろうか。当初の目的は果たせたのだから」
と思っていたことだろう。
だが、国民はそんなことは知らない。号外に出ている、
「ロシアに勝利」
という文字しか気にしていないのだろう。
それなのに、講和条約にて、戦争賠償金が得られないのを知ると、
「戦争に勝ったのにどういうことだ?」
と言って、外務大臣の家を襲ったり、日比谷公会堂を焼き討ちにしたりという暴挙に出た。
しかし、庶民の怒りも分からなくもない。何しろ、それだけの兵士が満州の土地で死んでいったかを考えれば、相当なものである。
昭和の頃に、
「二〇三高地」
という映画が公開されたことがあったが、あの時に、どれほど旅順攻略が大変なことであったかを見せつけられたが、その後に起こった奉天会戦の方がどれほど大きな犠牲であったのかを考えると、市民が暴動を起こすのも仕方のないことだろう。
「英霊に恥ずかしいと思わんのか」
と叫びたくもなるわけである。
この時の罪深さがどれほどのものであったかは分からないが、少なくともマスコミに問題がないということはないはずであろう。
そういう意味で、日露戦争は、敗北らしきものはほとんどなかったが、逆に言えば、相手が強大すぎて、
「一つでも負ければ、そこで日本の敗戦は濃厚だった」
というわけである。
そういう意味で、結果論になるが、無敵だったのは当たり前ということである。
それを知らない国民やマスコミが世間を煽る。
特に中国という国は、当時の国民党の時代から、日本に対してかなりの虐待行動を繰り返していた。
「南京で大虐殺を日本は起こした」
と言われているが、それ以前に中国側が起こした虐殺問題も少なくはない。
暗殺も多く、許されることではなかった。
「南京大虐殺を引き合いに出すなら、『通州事件』を忘れたのか?」
と言いたい。
前の日までは、まるで家族のように親しくしていた人たちが、次の日には暴徒と化し、ここで文章にできるはずがないほどの残虐行為を繰り返した事実を棚に上げてというところである。
日本が中国を蔑視し、
「暴支膺懲」
という言葉をスローガンとして、戦うきっかけを作ったのは、そもそも忠告側のことだったではないか。
そんな国を支援しようとする、欧米列強は、中国を助けようなどという気持ちはこれっぽちもなく、ただ、自分たちが持っている権益と、居留民の保護などを目的にしたのことだったのだ、
そもそも、日華事変から、大東亜戦争にかけての戦争は、前述の暴支膺懲から始まり、欧米列強が、日本に対して、最初は、
「中国本土からの撤兵」
を求めていただけだったが、何と言っても、日本とすれば、盧溝橋事件と、通州事件における決定的な暴支膺懲からは引き下がれなくなった。
それでも、欧米列強は日本に対して、
「石油、鉄くずの全面輸出の禁止」
という暴挙に出て、いわゆる経済制裁を加えてきた。
ここにきて日本は、
「大東亜共栄圏」
を軸に、アジアで対抗し、植民地となっているアジアの国を救うというスローガンを打ち立てることで、戦争に突っ切っていったのだ。
政府の意向や軍の状態を分からずに、国民、国民だけでなく、マスコミまで、煽るものだから、戦争に一直線なのも当たり前というものだ。
何しろ日本という国の民族性は、
「判官びいき」
であり、
「勧善懲悪」
という国民だからである。
「鬼畜米英、暴支膺懲」
をスローガンとし、
「大東亜共栄圏の建設とい大義名分さえあれば、正義はこちらにあり」
という考えであった。
戦争に負けて、結局、最後には勝者の理論としての、極東国際軍事裁判にて、日本が悪かったのだと証明させられてしまったことで、日本国民のほとんどは、そういう教育を受けてきた人がほとんどだろう。
こういう歴史を知っていた人がどれほどいるというのだろうか、歴史の教科書では、数行でしか書かれていないことであり、言葉だけを暗記するかのような歴史の授業、どこに判断材料があるというのか、
「歴史が必ず答えを出してくれる」
と、かつての軍人などでそう言って自害していった人もいたが、情報操作が行われているようでは、答えを出す歴史というのも怪しいものである。
「歴史というのは、そこに住む民族が作っていくものだ」
と言えるのであろうが、考える頭を操作されてしまっては、操作された歴史が生まれてくることになり、果たして信用できるものなのかどうか、これも実に怪しいものと言えるのではないか。
菜々美は、ここ数年、特に、禍が世界を蹂躙し、政府に一縷の望みも掛けなくなった時、初めて歴史を勉強する気になった。
「歴史が答えを出してくれるという言葉を覚えていたので、逆に過去の歴史に学ぶというのもありではないか?」
と考えたからである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます