第8話 ゆかりの想い出
金沢ゆかりという女性は、ナースである。最初に知り合ったのは、大学時代の親友であった佐久間教授のお見舞いに行ったあの日で、彼女が松永の小説のファンだったことがきっかけだった。
松永の方から近づいたわけではない、積極的だったのはゆかりの方だ。会話の主導権はいつもゆかりにあり、会話というと、そのほとんどはゆかりが喋っていた。
さらにゆかりは喜怒哀楽が激しく、見ていて何を考えているかということは松永にはすぐに分かった。だが、それが松永の前でだけだったということは、彼女亡きあとに、彼女の同僚から聞かされた。
「金沢さんって、いつも静かで、何を考えているのか分からないところがあって、冷静なのか、それとも冷徹なのか分からないところがあったんですよ。人に気ばかり遣って、結局自分からは何も言い出せない。でも、何かいつも考えていて、たまに誰よりも適切なことを言ってくれるのでビックリさせられるんですよ。皆、そんな金沢さんのことを奇妙な人だっていう目で見ていたんじゃないかしら?」
と言っていた。
なるほどと思ったのは、ゆかりの言っていることが結構、辛辣な時があるが、彼女は別に悪気があって言っているように見えないことだった。
人の性格は、持って生まれたものと、育った環境にあると言われているが、彼女の場合は明らかに育った環境ではないかと思った。幼い頃に両親を亡くしてからというもの、想像を絶するような生活だったに違いない。
だが、いなくなってから感じたのは、
「彼女のあの辛辣な言い方と考え方には、どこか二重人格的なところがあり、二重人格というのは、その一つ、つまりあまり表に出てこない方の性格は、持って生まれたものが影響しているのかも知れない」
と思うようになっていた。
ゆかりが倒れたのは、病院での仕事中のことだった、その頃、結構忙しかったようで、勤務も夜勤が多かったりして、そのせいもあってか、急に倒れたということだった。
顔色も悪く、血圧もかなり低かったということで、しばらく意識不明の状態に陥ったことで点滴を打ち、意識が戻るのを待ったが、意識が戻ってみると、顔色もすっかりよくなっていたので、その時は別に何ともなかったかのように、その日は勤務を途中で切り上げた。
翌日は休みだったので、一日、部屋でゆっくりしていたということだが、その日の休養がよかったのか、また普通に勤務ができるようになっていた。
「若いから回復も早いわね」
と、ベテラン看護婦は言っていたが、ウワサはそれくらいで、彼女は、
「過労だったのだろう」
ということになり、その日、彼女が倒れたということは、次第に皆の記憶から忘れ去られていった。
病院内では、きっと他の場所よりも時間の流れが早く過ぎていくのではないかと思うほど早かった。看護するナースや実際に患者を診る医者にとってはもちろんだが、病気やけがで入院している患者の方も、病院内では時間の進みは早いと思っている人も多いようだ。なかなか退院できない患者の中には、
「毎日はなかなか過ぎてくれないくせに、気が付けば一週間があっという間だったんだよな」
と感じている人も多いようだ。
だが、ゆかりは、倒れたその日から、
「なんだか、病院にいても、忙しいのに、いつものように早く時間が過ぎてくれないのよ」
と言っていた。
それから少しして、
「入院患者さんの中で、もう助からないと分かっている人がいるでしょう? 本人には告知していない患者さんね。そんな患者さんがよくいうのは、病院での毎日が、急にゆっくりに感じられるようになったというんです、それもニコニコ笑いながらね。私には死期を分かっているようにしか思えないのよ」
と、ゆかりはいうのだった。
それがゆかりにとっての、
「虫の知らせ」
だったのかも知れない。
「最近私も、急に病院内にいても、急に時間がゆっくりになった気がするのよ。最初にそれを感じた時、以前にも一度感じたことがあると思ったんだけど、それがいつだったのか、最初の時には分からなかったの。でも二度目がまたすぐに来て、その時にやっとわかった気がしたおね。なぜならその時、意識が朦朧として、そのまま気を失ってしまいそうな気がしたからなの、その時は意識を失う寸前で戻ってくることができたんだけど、前に感じたのは、以前、気を失ったあの時だっていうことをね」
とゆかりは言った。
「前に気を失った時には感じなかったの?」
と松永が聞くと、
「ええ、あの時はとにかく、意識を失うというのが完全に分かっていたので、自分の中でパニックになっていたと思うの。だから、それだけに、気を失ってからというもの、意識が戻ってきた時には、途中の記憶はおろか、気を失うまでの意識は完全に失っていたような気がしたのよ。それだけに、ほとんど、覚えていることなんか、なかったのよね」
というのだった。
それを聞いた時、無性に気分が悪くなった。胸騒ぎがしたというべきか、その胸騒ぎの原因を自分に話しているゆかりに腹が立ったくらいである。
当然、ゆかりは悪気もなく、しかも、平然と話をしているのだから、彼女に対して恨みを抱くなどというのは本末転倒なわけで、なぜなら、その胸騒ぎの相手が、ゆかりだからだ。
ゆかりとすれば、分かっているのかいないのか、相手に胸騒ぎを起こさせるほどに、話の内容が、不安以外の何者でもないことに気づいていないのだろう。
それだけに、相手が無意識なだけに、余計に腹が立つ。それは、相手に対して怒ることは本末店頭であると分かっている自分に対して、そう思わせることが問題だからだ。
「言わなきゃいいのに」
という最終的にはそう思うのだが、それが最終的ではないのだ。
「それでも、言わなけれな、悶々とした意味の分からない不安が解消せれることがないんだよな」
と思ったからだ。
その解消が、結局最悪の形で立証されたかのようになってしまったのだが、これもまだ憶測にしかすぎない。想像の中では最悪ではあるが、まだ何も起こっていないので、その分、不安が解消されたわけではない、
一歩も二歩も進んだと言えるが、こんな形なら進まない方がよかった。しかし、逃れられない運命なら、早く知るのは悪いことではない。
もし、最悪のシナリオ通りになったとすれば、最後の結末は遅い方がいいに決まっている。だが、この時は精神的におかしかったのか、
「最後の結末が最悪であっても、早く分かった方がいいのかも知れない」
と真剣に考えた。
まさか、その時点で立ち直ることを考えていたわけではないのだろうが、もしそうだとすれば、一体自分がどのような位置に今いるのか分かっていないだろう。
最悪な場面でよく夢に見ると思っている光景、それは、
「断崖絶壁の谷があり、その下を川が流れている。そこに、つり橋が掛かっていて、絶えず、谷間を吹き抜ける風に煽られ、揺れている。遠くからみるだけでも恐ろしい場所であった」
そんな場所をまず思い浮かべ、さらに、自分がその端の真ん中に突如現れるのだ。
どっちに向かって歩いているのかなど、分かるわけはない。右を見ても左を見ても、距離的には同じだ。自分がどこから来てどっちに行くのかも分からない。
「もし、それが分かっていれば、自分はどっちに行くだろう?」
と考えてみた。
正気の状態であれば、
「戻る方を選択するに決まっている」
と答えるに違いないが、果たしてそうなのだろうか?
前に進むということを目的にやってきたのだから、しかも、こんなに恐ろしいのを覚悟で来たのだから、戻ってしまうと、待っているのは悪夢かも知れない。だが、行き着いた先に何が待っているのか分からないという思いもあるので動けない。
つまり、実際なら、切羽詰まった気持ちになるはずなのに、夢だという意識があるからなのか、恐怖が不思議と沸き上がってこないのだ。
恐怖のはずの状態で、恐怖かどうか分からないというのも、恐怖であり不安なのだ。恐怖の正体が恐怖だったという、まるで禅問答のような話が笑い話ではなく起こるというのは、ある意味夢独特の現象なのかも知れない。
いつもは、人とのかかわりを拒否していることで、当然夢の中に誰かが出てくることはないのだが、たまに誰かが出てくるのを感じるのだが、その正体を知るのが怖いという感覚もある。
そこにいるのが、もう一人の自分だという意識があるからだ、
もう一人の自分を怖いと思うのは自分に限ったことではない。世の中は、過去からもう一人の自分の存在を、
「恐怖」
として捉えていた。
その存在を、
「ドッペルゲンガー」
という形で認識していることが多い。
ドッペルゲンガーというのは、あくまでももう一人の自分であり、世の中に三人はいると言われている、自分に似た人間という理屈ではないのだ。
しかも、ドッペルゲンガーには、ある種の特徴があるという。何か言葉を発することはないということ、それから、自分の行動範囲意外に存在することはないということ、つまり、もし、同じ時間に自分が行ったことのないところで自分以外を見たという話をされた場合、それはドッペルゲンガーつまりは、もう一人の自分ではなく、ただ、自分に似た人だということである。
そしてドッペルゲンガーの何が怖いのかというと、それは、
「ドッペルゲンガーを見ると、その人は近い将来に死んでしまう」
と言われていることであった。
かつての著名人などで、ドッペルゲンガーを見たことで死んでしまったという話がいくつも残っている。
リンカーン大統領や芥川龍之介などその代表者であり、もちろん、謂れが残っているということは、彼らには自分が死んでしまうという恐怖を口にしていたということであり、予兆のようなものを感じていたということだ。それを思うと、ドッペルゲンガーというものが、意味もなく恐ろしいわけではなく、ある程度のことが分かっているだけに、それだけ余計に恐ろしいことがあるという代表例なのではないだろうか。
そういえば、彼女と会えなくなる前に、彼女は不可思議なことを言っていたっけ。
「私、あなたが、私と一緒にいるところを見た気がするのよ。もちろん夢だったんだけどね。その夢の中で、一緒にいる自分だけが最初は私のことを見えているんだって思っていたんだけど、夢から覚める寸前、実は夢から覚めるんだろうなって思ったその時だったんだけど、あなたが私の存在に気づいたのか、私の方を見て、笑ったのよ。それが、とっても恐ろしくって、どうしようもなかったの」
というではないか。
「そんな怖いこと言わないでよ」
と、さすがにその時の松永はゆかりに対して、
――彼女がこんな無神経な女だったなんて――
と感じたほどだった。
「ああ、ごめんなさい。こんなことを言っちゃいけなかったわね」
と思いついたようにゆかりは言ったが、それはあまりにも取ってつけたような言い方だったので、思い付きではないとしか思えなかった。
むしろ、怖いことを自分の中でどうしても言わなければいけないという意識の元、最後に帳尻を合わせたかのようないい方になっていたのだ。
それを思うと、ゆかりが何かの運命に突き動かされているかのように思い、その時初めてゆかりと知り合ったことを恐ろしいと感じたのだ。
それまでにも、本来なら恐ろしいと感じさせるようなことを言ったりしていたと思うゆかりなのに、恐怖も不安もそれほどゆかりには感じなかった。それどころか、自分にとっての不安を取り除いてくれそうな相手で、実際に大きなところでの不安を取り除いてくれたように思えたのだ。
それだけ、ゆかりという女性は松永にとってかけがえのない人になってしまっているのだろうが、どこか洗脳されているように思えるのがきっと恐怖の元凶なのだろうと思うのだった。
「逢えなくなるならそれでもいい」
という思いもあったが、実際には、会えなくなったことで自分が感じる不安や恐怖が計り知れないことで、会えなくあることが冒険であるかのように感じてしまうのは、そう解釈すればいいのか分からなかった。
そのうちに、佐久間は退院できるようになり、その頃にはすでに松永はゆかりと離れられなくなっていたのだが、そこに恐怖が潜んでいることをまわりは分かっているはずもなかった。
つまりは、まわりは、二人の仲は公然の秘密のようになっていて、もっとも本人たちは隠そうという意識はなかったのだが、どこか秘密めいたところがあったのが、まわりには違和感だったのかも知れない。
しかも、松永が不安を感じているということをまわりが知るすべがなかったのは不思議だった。
松永は隠そうなどと思っていたわけではない。むしろ曝け出すことで、まわりがどういうリアクションを示すのかを感じたかったと言ってもいいだろう。
だが、期待したリアクションが見えたわけではない。自分の期待が裏切られた気分だ。
「どうせ、俺の思惑はまわりに伝わることなどないんだ」
と結局最後はいつもここに行きつく。
松永が思春期の頃から、人と関わりたくないと思うようになったのは、このあたりに原因があったのかも知れない。
そもそも人と関わりたくないと思ったのは、思春期の頃に感じた鬱状態が原因だった。
思春期の頃というと、不安というものを本格的に自分で感じるようになる時期だと松永は考えていた。
「何をやっても、うまくいかない。うまくいったとしても、本当にそれがいいことなのか分からない」
と、一つのハードルを越えると、普通であれば、その勢いを買って、どんどん先に進めていけるような気がするのだが、松永の思春期は、逆だったのだ。
負の連鎖が立て続けに起こることで、何をやってもうまくいくはずがないという精神的な負のスパイラルが襲ってくる。
「俺って、このまま思春期の中でずっと何かを繰り返すことになるんじゃないだろうか?」
という考えが頭の中をよぎってしまった。
何が言いたいのかというと、
「まるで同じ日を繰り返していて、抜けられないようだ」
という妄想が頭の中に浮かんでしまったことだった。
その時に急に感じたのは、同じ日を繰り返すことの恐怖ではなく、
「どうして、一日って、午前零時から午後十二時までなんだろうか?」
という思いだった。
もし時計がなければ、時間というものが正確に理解できていなければ、午後十一時五十九分と午前零時とでは、何が違うというのか。
日の出や日の入りなどのれっきとした昼と夜の境目が分かっている時を一日の分かれ目にしてしまった方が分かりやすいだろう。
確かに季節によって、日の出も日の入りも変わるので、一概には言えないだろうが、ではどうしてと考えるのは、
「毎日が同じ時間でなければいけない必然性はどこにあるというのか?」
ということであった。
確かに、一日の長さが違えば、それぞれの人に不公平ではあるだろう。だが、もっと究極なことを言えば、
「人間の寿命というものだって、一人一人違うじゃないか。皆が皆寿命をまっとうしたとして、本当に全員が何歳まで生きるということが決まっているのだろうか? それこそ、不公平の極みと言えるのではないか?」
という思いであった。
この究極の考え方に比べれば、毎日が違う長さであるくらい、問題がないような気がする。そもそも、一日の句切れというものはどこから来るというのだろうか? 一日という単位は一体誰が決めて、何に必要だったというのか、そこまで考えると、人それぞれの平等など、あってないようなものである。
確かに生活していくうえでの便利さから一日や一か月などと言った単位は必要であろうか、最初にその単位を決めた人が、結果として必要となったことを最初から、目的をもって定めたものだと言えるのだろうか。もしそうだとして、結果と違っているのかいないのか、果たしてどっちなのだろう?
考えれば考えるほど、深みに嵌っていくような気がする。
昔、漫才師の言っていた笑い話を思い出した。
「地下鉄って、どこから入れたのかを考えていると、夜も眠れなくなっちゃう」
というのを似た理屈だ。
その逆だけで、ずっとその漫才師は飯が食えたと言ってもいい、それだけ、どうでもいいと思うようなことが重要だったりするものである。
要するに、「午前零時を過ぎると次の日になる」
という当たり前という以前の問題だとも思えるようなことが、どれほど大切かということである。
「人は、呼吸をしなければ生きていくことができない」
こんなことは当たり前である。
誰がいうでもなく、実に当たり前のことである。しかも、皆息をしている時に、
「呼吸をしている」
と意識している人がいるだろうか。
条件反射に近い感覚を当たり前のことを当然とも思わず、意識すらしていないことというのは、意外とたくさんあるのだろう。
これらのことを、
「生まれた時からずっと」
と思っている人も多いだろうが、実は違う。
もっと昔からのことで、遺伝子を使って、脈々と受け継がれてきたものだと言えるのではないだろうか。
そんな昔から続いていることなので、誰も何も教えてもらう必要もなく実行している。
生まれた瞬間から呼吸をしているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。誰かに教えてもらう暇などあるはずもない、
赤ん坊が生まれてきてからすぐに、呼吸をしていない子供もいるようだが、先生が足を持って、逆さ吊りのようにしてから、身体を軽く叩いてあげると、泣き声を上げて、呼吸を始めるというが、まさしく、身体が覚えているという証拠であろう。
そんなことを考えていると、
「ゆかりに会えなくなったことを、誰が悪いというわけではないので、きっと、悲しんでいる人は、皆自分が悪いと思っているからではないかな?」
と思ったのは、かなり贔屓目にまわりを見たからだった。
まさかそんなことなどあるはずがないと思いながらも、目の前からいなくなった人をこれまでどのように感じていたのかを思い出していた。
最近の松永は、人とあまりかかわりがないからか、死んでしまった人を、あまり意識していないような気がした。
仕事と言ってもアルバイト、中には、今までの店長などで、過労死をしたと言われるような人がいて、部下の人たちは一様に悲しんでいたが、その葬儀に参加したわけでもなく、考えてみれば、今まで冠婚葬祭に参加したことはあまりなかった気がする。
学生時代の友達とも縁遠くなっていて、佐久間くらいしか学生時代から繋がっているやつはいないかも知れない。
馴染みの店があると言っても、急に来なくなった人がいたとして、後で風のウワサに、
「あの人、亡くなったみたい」
という話を訊くくらいで、かなり時間も経っているだろうから、まわりが敢えてその話題に触れることはしてはいけないという思いに駆れれるのだった。
亡くなった時の儀式として葬式がある。結婚した時に結婚式はやるが、葬式との一番の違いは、
「自分が出席することができない」
ということであろう。
さらにもう一ついえば、
「結婚式は何度でもできるが、葬式は一度だけ」
ということである。
特に今は、結婚など結婚よりも離婚の方が多いという話を訊いたことがある。普通に聞けば、
「結婚する人よりも離婚する人の方が多いって、どういうことなんだ?」
と思う。ただ、これを結婚式という意識で考えれば、意味も分からなくもない。再婚で結婚式を挙げない人も多いからだ。
そもそも、結婚したからと言って、結婚式を挙げないといけないというわけではない。葬式の場合は、遺言で、
「葬式なんか、しなくてもいい」
というのがあれば、死者の遺志にそぐうのが当然であろうが、そこまで言い残す人が果たしているのだろうかと、松永は思っていた。
「結婚式も、葬式も、俺にはあまり関係がないからな」
と思っていたが、同じ思いを感じている人はそれほど少なくはないのかも知れない。
松永の知り合いで、
「結婚式は内輪だけの食事会だけで済ませたよ」
というような人もいて、
「皆勘違いしているかも知れないけど、結婚式というのは、神殿やチャペルなどで行う儀式のことをいうのであって、別に披露宴が結婚式というわえではない。結婚式場がセットで提供しているだけのことだ」
と言っていたが。まさにその通りである。
「どうせ、俺は結婚式など挙げることはないだろうからな」
と思っていたが、実際にその通りになりそうだ。
ここまでくれば、結婚など煩わしいだけであった。
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