第7話 ゆかりの運命
そんな彼女がどのようにして不倫をやめることになったのか、さすがに松永からは訊けなかった。聞きたいという思いは当然のごとくあったので、訊きたいというオーラはゆかりも感じていただろうが、やはり話しづらいのか、自分から話すことはなかった。
いや、彼女のことだから、話したくないという思いが頭にあり、意識的にか無意識にか、自分の不倫というものに対しての気持ちを敢えて先に松永に聞かせたいと思ったのかも知れない。
松永にとってのゆかりへの思いは次第に募っていった。ナースという仕事も、松永を引き付けるきっかけになっていた。
松永は、子供の頃から、ナースというものに、特別の感情があった。あの頃は、看護師と呼ばずに、看護婦と呼んでいたっけ。男女雇用均等法なるもののせいで、女性と男性との間に呼称が違っていたものを統一しようなどと誰が言い出したのか、
「前の呼称の方がよっぽどいい」
と思っている人は、松永だけではないだろう。
有名なところでは、スチュワーデスがキャビンアテンダント、保母さんが保育士、さらには婦人警官を女性警察官と呼んだ李、さらには、看護婦のように、婦を師(士)と呼ぶようになった、これは男女の差別をなくすという意味であるが、松永には違和感があった。
「ただ、いい回しが違っているだけで、どこが差別だというのか?」
ということである。
最近では、あまりにも男女差別について言われることが多い、コンプライアンスの中のセクハラなどという言葉にもあるが、
「女性だから、差別を受けるというのは許されない」
ということからの問題なのだろうが、逆に言えば、その前提には、
「女性だから」
ということがあるはずである。
人として(人に限らずほとんどの生物であるが)生まれてきた場合、生まれながらに男女に別れているわけであり、それを避けて通ることはできない。
「女性だから、損をする」
ということがあるのであるわけなので、
「女性だから、得をする」
ということだってあるだろう。
これは極論であり、大いなるバッシングもありかも知れないが、男性では稼げない方法も、女性ならばこそ、女性の武器を使って、稼ぐことができるといえるものだってあるのではないか。
あくまでも雇用均等という法律で、そのための呼称変更であり、男女差別という問題を最初から狙っての問題であるかのような誤解を与えると、女性の中には、大きな勘違いをするものがいたり、必要以上の権利の行使に繋げようとしたりする女も出てくるのではないだろうか?
そのために、セクハラでもないものを、いかにもセクハラされたと言って騒いでしまうと、
「被害者が女性だから」
というだけの理由で、その女性の言い分が通ってしまうという風潮もあるかも知れない。
もちろん、そんな冤罪を起こさないように、キチンと見ている人がほとんどであろうが、あざとい女にかかれば、引っかからないとも限らない。
実際に、犯罪の中では、痴漢をわざとさせておいて、後から男を集団で脅迫するような事件や、女に男を誘惑させて、ホテルに入ったところを、
「俺の女になにしやがる」
などという、昔からあることではあるが、いわゆる美人局なるやり方で、男から、大金を巻き上げるという方法だって、あるではないか。
こういうものを野放しにしておいて、男女平等だけを謳うというのは、いかがなものか?
それを思うと、男女間で何が平等で何が差別なのか、よく分からなくなってくる。下手に差別を問題にし始めて、女性に歩み寄ってしまうと、ちょうどいいところで止まらなければいけないものが、通り過ぎてしまって、却って、男性側に不利に働くことだってないとは限らない。
そういう意味で、松永は男女雇用均等を、そのまま男女差別の問題に置き換えるのは、正直反対であった。
そういう問題は、男女の問題だけではないだろう。
一つの何か問題があれば、それを誇大解釈し、問題をすり替えようとする輩も出てくることは今に始まったことでもない。
特に政治の世界にはありがちなことではないだろうか。
何か不祥事が持ち上がった時など、自分の政治権力を用いて、まわりを動かしたり、マスコミによる情報操作を使うことで、問題を他のことに転嫁しようとする人間が出てくると、どれだけマスゴミ(敢えてマスコミとは書かない)を利用して、世の中を錯乱させることで、自分の問題を他に転嫁できるかということが問題になる。だから、新たな問題を提起しておきながら、まったく解決させようとしない、特に権力を持った人間による問題が、世の中には結構起こっている場合があるのではないだろうか。
表向きは、世の中に問題提起し、そこにマスゴミが集ることで、世間の目を引き付けている間に、自分の問題をあやふやにしようとしている。だから、問題提起を行った人間からすれば、問題提起をしたことが社会問題になっている間というのは、自分のことに精いっぱいで、問題に対して誰も携わっているわけではない。
つまりは、独り歩きをしていて、どこに着地をするのか、コンダクターがいないので、迷走していることだろう。
しかし、えてしてそういう場合にこそうまくいくように世の中というのはできているものなのか、意外と問題はスムーズに解決されているようだ。
そんなことを考えていると、確かに、どこから湧いてきたのか、出所の分からない問題が、政治の世界から沸き起こってくることがある。まさかそれが政治家の中での、自分の目を他に逸らすための陰謀であり、ごまかすためだけのことであるというのは罪深いことではないだろうか。
何しろ、自分に関わっている問題の責任のなすりつけ合いでもないのだ。同じ問題の責任のなすりつけ合いであれば、まだ理屈は分かるのだが、まったく関係のないところからリークのような形で問題を表明化させられてしまうと、そちらの方としても、防ぎようがない。
そんな状態がどれだけの頻度で問題化しているのかということまでは分かっていないが、想像しているよりも多いのではないだろうか。
考えてみれば、毎日のニュース。一日たりとも、平和に終わった日はないではないか。政治の問題にしても、スポーツやエンタメにしても、必ずと言っていいほどに問題が浮かび上がってくるものである。
それだけ、世の中には表に出ない問題もたくさんあるということであり、うまいこと同じ日に重ならないようにもできているということなのか、いや重なっても、次から次に発生する、まるで害虫のようなものなのかも知れない。
たとえ話に害虫を用いたが、言葉のあやというわけではなく。まさに「害虫」である。この言葉こそ誇大解釈をすることで、焦点と噛み合うのではないかと思えたのだ。
問題のすり替えをすると、すり替えられた方は、いわゆるとばっちりである。またしても、他に責任転嫁をしようとするかも知れないし、すでに遅いと考えて、他の方法を講じようとするかも知れない。
それを思うと、責任のなすりつけ合いという行動がいかに愚かなことなのか、それを政治家が行えば、まず、政治家はマスコミに対して情報操作を試みるだろう。
マスコミであれば、そのような情報操作に加担することはないのだろうか、悲しいかな、日本のマスコミはマスゴミが多いので、すぐに政治家たちに利用されてしまう。何が正しいのかなど、マスゴミから判断しようとするのは、一種の愚の骨頂と言えるのではないだろうか。
特に最近では、SNSなどのネットによる意見などが自由に寄せられるようになり、当事者とすれば、その言葉に一喜一憂を繰り返したり、意見が誹謗中傷となって、その犠牲になる場合も、それこそ社会問題として、大きくクローズアップされているのだ。
そんな状況を、マスゴミとしても報道しないわけにはいかない。だから、いかに自分たちの清掃性を訴えようとするかが焦点になってくる。
下手に擁護しようものなら、誹謗中傷の餌食になる。自分たちを何とかごまかして、他に転嫁しようとするかも知れない。
「ん? ということは?」
そう、前述のように、政治家が自分たちマスゴミを利用して行った情報操作を、自分たちにも降りかかってきて、対岸の火事ではなくなってしまうということだ。
つまりは、
「ミイラ取りがミイラ」
になってしまい、一歩間違えると負のスパイラルが、本末転倒な結果を引き起こしかねないであろう。
つまり、政治家よりも、マスゴミの方が罪が重いと言えるのではないだろうか?
話は逸れたが、ゆかりのいう、
「都合のいい女」
という表現を聞くと、思わず世の中の仕組みの理不尽さを思わずにはいられなかったのだ。
ゆかりは、看護婦として病院に勤めていて、その様子を見ていた男がいた。その男は変質者で、どこをどのように隠していたのか分からなかったが、ケガをして入院してきた時も、普通に外科病棟での入院だった。
そもそも、病院というところは看護婦を見る目が嫌らしい人が多いというのは、ビデオなどの影響で、どうしてもそう思われがちではないか。これは看護婦に限ったことではなく、スチュワーデスや、女子高生の制服にも言えることである。
特に企画もののビデオなどでは、そういう服を着た女優が蹂躙されたりして、変質者や、その予備軍に対して煽ったりするというのが、いつの時代であっても問題になっていただろう。
実際に、そういう事件も過去にはいくつもあった。変質者による事件ということで、犯人の部屋に証拠物を押収に行った警察が、カルトなビデオの山を見つけて驚愕したという事件は一つや二つではなかったはずだ。
しかも、その犯罪は次第に少年犯罪として取り上げられることもあり、近い将来、犯罪者の少年と成人との間の年齢として、二十歳から十八歳にひきさげられることに決まっているのだ。
最初は選挙権などを二十歳から十八歳に引き下げたが、今度は民法における成年年齢をやはり二十歳から十八歳にするように、二0二二年四月より施行されることに決まっている。
つまり、施行前の法律を含め、刑法、少年法、民法と、法律で定められた年齢がすべて、似十歳から、十八歳に引き下げられることになるのだ。
今までの、少年Aではなく、実名が晒され、少年刑務所ではなく、一般の刑務所に収監されるということになるのだ。
もちろん、裁判続行中のものようなものは細かい問題が残るが、すべての面で年齢が統一されるということになる、
今までであれば、すべてが二十歳からだった。一部の例外もあったが、その例外として一般的なものとしては、民法上の問題があった。
つまり、
「婚姻している男女は、民法上の成人とみなされる」
ということである。
つまりは、女性の場合であるが、民法上は十六歳から成人ということもありえたということである。
しかし、今度の民法改正によって、実は、
「男女で結婚できる年齢が統一される」
ということである。
従来の男性十八歳は変わらないのだが、女性が今度は十八に引き上げられ、それによって、基本的に、すべてにおいて、
「成年年齢というのは、法律上、すべてが十八歳に統一される」
ということである。
ただ、誤解されては困るのが、喫煙や飲酒で、これは従来通りに十歳であり、今まであった、
「未成年者喫煙防止法」
と呼ばれるものが、
「二十歳未満の者の喫煙の禁止に関する法律」
という名前に呼び変えられる。
要するに、身体に害を及ぼすと言われるものは、変わりがないということである。
このような法律が改正される背景にあったのは、やはり社会の複雑化による凶悪犯罪の低年齢化という問題も少なからず大きな原因になったことは否めないであろう。
いくら法律を整備しても、社会のそもそもが変わっていなければ、犯罪の性質は変わらない。今の世の中でよくなることは考えにくく、どんどん悪い方にと向かっていくのは無理もないことなのかも知れない。
それに伴って、政府の腐敗も深刻化し、世間と政府の隔たりが顕著になってくると、実に暮らしにくい社会となるだろう。
しかし、社会にはいろいろなジレンマや矛盾が存在し、どうしようもないこともある、その象徴的な言葉として言われるのが、
「警察というのは、誰かが殺されたりしなければ、動いてはくれない」
ということであった。
ゆかりが、松永の小説の何が好きなのかというと、
「人生の悲哀を感じさせる小説なんですけど、私にとっては、励ましになるところがあるんです。先生の小説は、確かに人生の悲哀を感じさせるんですが、先生の悲哀を感じることができないんです。だから、私は先生の小説に惹かれるんです。一般受けとかは私にとってはどうでもいいんです。私は真剣に救われたいと思っている時に出会った小説だったんです」
というではないか、
最初何を言っているのか、よく分からなかった。
「何を言っているんだい?」
と聞いてみると、
「先生は、自分の考えや経験から小説を書かれているでしょう? しかも、自分の経験からしか生まれないものがたくさんある。だから小説を書き続けられると思っているんですよ。だから、先生のお話は人生の悲哀を感じさせるけど、実際には先生の経験を生かした小説になっている。その分、経験以上のところは読んでいて、ほっこりさせられるんです。人間の悲哀を描きながら、ほっこりとした気分にさせてくれる小説というのは、なかなかないですよ。それが私には気に入っているところなんですよ」
ということだった。
プロの小説家としては、失格ということを言われているのだろう。そのことはゆかりにも分かっているような気がする。遠まわしにだが、
「あなたはプロにはなれない」
と暗示させられているように思えてならない。
「私は、ずっと昔に小説を書くのを諦めたんです。自分よりもたくさん優秀な人がいるのをいち早く感じましたからね。でも、そのおかげで、その人がいい小説を書けているということは分かるようになりました。もっとも、売れる小説という意味ではないですけどね。それが私にとっては松永先生なんです」
というではないか。
「ほっこりというだけで、僕をそんな過大評価をしてくれたというわけですか?」
と、苦笑いしながらいうと、
「そうじゃないんです。人それぞれに、本をまったく読まない人が別だけど、少しでも本に触れあった人は、絶対に、それが自分にとっての小説であると言えるような作品に出会えるような気がするんです。それが私にとっては先生の作品なんですけども、この間、先生のSNSの作品に対して、私が感じているのと同じ思いをつづった感想を書いている読者がいたんです。感性がまったく同じ人だったんだけど、私以外にも同じ感性で見ることができる人もいるのだと思うと、やっぱり先生の作品が、一部の人間にとってのバイブルのようなものではないかと思うようになったんです。ひょっとすると同じようなことを思っている人間が他にもいて、それが私の感じている人数よりもはるかに多いんじゃないかって思ってですね」
とゆかりは言った。
「プロの人になれば、そんな気持ちをもっとたくさんの人にさせていると思うんだけどね」
と、少し捻くれた言い方をしてみた。
すると、ゆかりは、
「そうじゃないですよ。そういう人が多すぎると、今度は薄っぺらく感じられてくる。その人がプロの作家だからというような色眼鏡で見ていたとすれば、人によっては、肩書や評判だけで、作品をいいものだと勝手に思い込んでいる人だってたくさんいるというものです。だから、ファンが少なければ少ないほど、たくさんの人が、先生の作品を芯から評価している人ではないかと思うんです。そういう意味では、今の位置が先生の最高の位置なのではないかとも思っています。もしプロとしての売れる小説を書きたいと思っているとすれば、本当に失礼なことだとは思うんですが」
というではないか。
確かにゆかりの言っていることは、今までであれば、いちいちカチンとくることばかりであった。
話を訊いていて、苛立ちが最高校に至り、却って、反発心が芽生えることで、作家魂に火がつくという人もいるだろう。知らない人が見れば、彼女おセリフは松永に対してのそういうハッパかけのようなものだと言えるかも知れない。
だが、ゆかりが松永に行っているのは、ハッパかけでも何でもない。
ゆかりがファンとして、自分の尊敬している先生に対しての素直な気持ちなのだろう。それが、酷評であっても、励ましの形を変えた声であったとしても、松永にとっては、分かりにくいことに変わりはなかった。だから、感じたとすれば、彼女の感性と相性のコンビネーションが上手くいっている証拠なのであろう。
そんなゆかりが今はいない。ゆかりとの思い出を胸に小説も書き続けた。
松永は、ゆかりのことを思って小説を書いた。決して世に出ることはないと思っている。その方がよかった。ゆかりの想い出は自分だけの中に閉まっておきたかったからだ。
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