第5話 ナースの女の子
佐久間を見舞ったあと、病院の食堂で、コーヒーを飲んでいると、いろいろと考えてしまった。一人になることが増えてくると、いつも何かを考えている。そんな時は、まわりから声を掛けられることもなく、それは声をかけにくいからではないかと考えていたのだが、果たしてそうなのか。たまに、
「誰かに声を掛けられてみたい」
と思うことがあった。
そんな時であった、後ろから一人の女性が声をかけてきた。
よく見ると先ほど病室に顔を出したナースであり、ニッコリと笑ったその顔は、懐かしさすら感じるほどであった。
「松永先生ですよね?」
と言われてビックリした。
彼女は松永の顔を真正面から見て、好奇に満ちた視線を浴びせてきた。普段であれば、好奇に満ちた視線は痛すぎると思っていたが、その時は痛いというよりも、癒しを与えてくれたように感じたのは、彼女のナース服に魅せられたからなのかも知れない。
「ええ、松永ですが。どこかでお会いしたことありましたっけ?」
と、わざと、少しそっけない態度を取ってしまった。
「いいえ、初対面ですよ。だから私は感激しているんですよ」
というではないか。
「小説家でいらっしゃるんですよね?」
と言われて、
「ええ、まあ」
と曖昧に答えたのは、彼女の勢いに圧倒されたからなのかも知れない。
だが彼女の勢いはそれほどあるわけではなく、最初から声を掛けられたことでマイナスから自分が出発したことから始まったのだった。
――このままでは、終始彼女に押し切られてしまいそうだ――
と思ったが、
――それも悪くないかも?
と感じるようになった。
「先生のお話は、佐久間さんから伺っていたんですよ。それに私も以前、先生の作品を読んだことがあって、自分が考えていることと似ているような気がしたので、先生のファンだったんです」
というので、
「僕の作品をですか?」
と少し疑念を持って訊ねた。
「ええ、先生の作品の中で、『霧の円盤』というのがありましたのよね? あれが一番好きですよ」
と言われた。
「霧の円盤」という作品は、新人賞を取ってから、三作品目くらいに発表したものだっただろうか。今までに出版した作品が五作品。その中の一つではあったが。この作品は、自分の人気の下降を決定づけた作品だった。
SFチックな作品で、その中に恋愛の描写を入れたりして書いた作品だったが、聡い読者諸君にはお分かりの人もいるであろうが、この作品の元になっている発想は、前述の学校の授業で習った高速回転させた円盤の発想から来ていた。
そして、そこに派生させる発想として、ワープの話も折りまぜていたような気がする。
ある意味、自分にとっての発想の集大成に近い作品だった。
最初に、円盤の発想が思いつき、そこから雪崩式にワープの発想が浮かんできた。自分としては手ごたえのあった作品であったが、一般受けはしなかった。やはり、自分が目指す作風と、売れる小説というものにはかなりの隔たりがあり、そこには、
「交わることのない平行線」
であったり、結界のようなものが見えずに佇んでいるのだということを感じたのであった。
科学とも物理ともつかない発想は以前からあった。だが、それらの作品が一般受けしないのは分かっていたので、途中で恋愛ものを書いてみたりしたが、なかなか書けるものではない。何しろ、人間関係に関わることを避けてきたのだがら、恋愛小説など書けるわけもない。かといって、ホラー系お小説もダメであった。正直、怖い話は自分自身が苦手なので、当然書くこともできない。
だが、ホラーではないが、オカルト系の作品には、大いに興味があった。ホラーとオカルトの厳密な区別に関しては分からないのだが、ホラーの場合は、サイコ系であったり、妖怪や幽霊のようなものが出てくるものが多いと思っている。
しかし、オカルトというと、カルトというように、
「奇妙なお話」
というものがオカルトに含まれるのだと思っている。
つまりは、
「普段はごく普通の生活を送っているような人が、何かの弾みで、知らない世界の扉を開けてしまうという表現になるのか、あるいは、奇妙な世界が存在していて、誰でもがその世界に入り込んでしまう」
というような発想である。
同じ時間に、同じ場所に、まったく別の世界が広がっている。いわゆる、
「次元の違い」
というものを醸し出しているというべきであろうか。
そんな次元の違いというもの、それは前述の次元というものと、見方によれば同じなのであるが、理屈としては微妙に違っているという言い方ができるのではないだろうか。
ただ、どちらからでも、もう一つの次元という発想は思いつくものであり、そういう意味では、自分の小説に次元というものが切り離して考えることのできないものであると言えるであろう。
そういう意味で、オカルトが最近は自分のジャンルになる。
オカルト系の小説というのが、最後一番ごまかしがきくものだという感覚がある。
またしても前述の話に戻って恐縮であるが、
「始めるよりも終わらせる方が数倍難しい」
この言葉は小説にも言えるのではないだろうか。
どんなジャンルの小説であっても、書き始めと終わらせ方。つまり、プロローグとエピローグは難しい。インパクトを与える書き出しも大切だが、最後まで来て、辻褄が合っていなかったり、尻すぼみのような話であれば、なかなか自分でも納得できない話にはならないだろう。
小説を書き始めると、途中、集中する時間があることに気づくのだが、入り込んで小説を書いていると、話が脇道に入り込んでしまうことが、往々にしてある、そんな時は修正をするよりも、そのまま幅を広げて書いてしまうようにしている。特に、そんな時、収拾がつかなくなってしまうので、最後の終わらせ方をうまくぼかすというテクニックを覚えたのだ。
オカルト系の小説を書いていると、時々、自分に才能があるのではないかと錯覚してしまいそうになる。だが、うまくごまかしてラストを形成しているので、実際には本当に上手なのかどうかは分からない。
しかし、ずっとオカルト作品を書いていると、曲がりなりにも、
「上手になっていくのではないか」
と思うのであった。
「松永先生の作品で、私はオカルト系の作品が好きなんですよ。最後のまとめ方が結構上手な気がするのでね」
と言ってくれたことがあったのを思い出した。
あまりママは松永の作品を褒めてくれることはなかったので、しかも、その時はぽつっと口にしただけで、気を抜いていれば聞き逃してしまうのではないかと思うほどであった。
ママさんは時々、松永の作品を読んでくれている。松永も執筆はしているが、出版社が採用してくれなかったたくさんの作品を、お釈迦にすることは少し気が引ける。
ママさんはあまり批評をすることはないが、それはきっと自分の役割をわきまえているということであろう、
ママさんの批評はないが、他の客で、松永の作品を読んでくれる人がいた。その人は、最初手厳しい内容の話をしたので、
「あまり関わらないようにしよう」
と思ったのだが、最初に読んでくれた作品への批評は、訊いていて適格であり、次回作へのヒントが隠れていたりで、その人にだけは、いつも作品を読んでもらっていた。
本人は、そこまで感じていたわけではないのだろうが、どうやら、彼も一度は小説家を目指したことがあるようで、
「俺の方が諦めが悪かっただけだよ」
と、いうのが松永だったのだ。
彼がいうのは、
「小説というのは、自分の中のイメージをいかに書き出すかということだと思うんだよ。誰かに読んでもらいたいとか、ましてや、売れたいなどというのは、まずその先にあることで、確かに人が読んでどう感じるかということは大切なのかも知れないけど、そればかりを意識していると、大切なものを見失ってしまう。野球のバッターだってそうじゃないか。どの方向に向かって打てばヒットになるかとか、どうすれば、ランナーを進められるかということも大切だ。チームプレイだからね。でも、まずは、バットに当てなければ何も始まらない。バットに当てることに集中しなければいけないんじゃないかな?」
というと、
「でも、監督はその選手ならそれくらいのことはできると思って使っているんじゃないかな?」
「だけどさ。いくらできるはずの選手であっても、バットに当てるという基本を頭の中から外してしまっては、結局バットは空を切ることになるんじゃないかな? 要するに、基本あっての応用なんだよ。原始時代しか知らない人に、いきなり明治維新の話をするようなものなんじゃないかな?」
と、彼は面白いたとえ話をした。
なるほど、話はあくまで基本が大切だということに終始することになるだろう。ここで野球の話を持ちだしてくるあたり、かなりの面白い発想の持ち主だといえよう、ただ、野球の世界にもプロモいれば、アマチュアもいる。ほとんどプロと言ってもいいアマチュアもあれば、アマチュアと言ってもいいプロモある。スポーツによってもバラバラだと言えよう。
松永は自分の作品をほとんど読み直したことはない。推敲が苦手であった。最初に書く時も、思いついたことをどんどんと書いていく、思い付きを重ねながら書いているので、数行先のことをイメージしていると、筆が止まることはない。だから、勢いで書けるのだし、プロットとは若干離れたところを書いてしまうこともあったりした。
そもそも、再sっはプロットなど作ってもいなかった。途中から、プロットを作るようにしたのだが、またある時を境に、プロットは書き出しの部分と、骨格と言える大きな部分、つまりや書き出しの情景や、テーマくらいしか決めておかず、書いていくうちにストーリーがイメージされていくのであった。
その時に困るのが、
「どこまで書いたのか分からなくなる」
ということであり、前に書いた時のイメージをどれだけ思い出せるかが大きな課題となっていた。
時間が経つと忘れてしまう。それは集中することによってイメージができあがり、出来上がったイメージで、作品は先に進んでいくのであった。
だが。集中が一度切れてしまって、他のことに没頭すると、今度は、前に高めた集中力とは違う集中力がよみがえってくる。
そのため、なるべく間を置かずに書くことを心掛けるようになったが、どうもうまくいくとは思えなかった。
つまり、集中力の持続は、時間に関係していないのではないかということである。
時間だけを追いかけてしまうと、時間に追いかけられている自分が分からなくなる。
そんな時間との追いかけっこをしてしまうと、無限のループに這いこんでしまうと、今自分がどこにいるか分からなくなってしまう。この考えが、
「始めることよりも、終わらせることの方が数倍難しい」
と言われることとリンクしているのではないかと思うのだ。。
結局ここに考え方が戻ってくることで、自分が先ほど考えた無限ループの発想が証明されるのではないかと思えてくる。
無限のループは交わることのない平行線を作り上げ、見えない結界を意識しなければならなくなる。
それを思うと、小説を書いていくということが、無限ループではあるが、そのループには限界があり、その限界をいかに無限にループするかということを表しているのではないだろうか。
そのことを、教えてくれたのが、批評をしてくれる彼の存在で、それは、手厳しい批評からでしか現れないものなのかも知れない。
松永は人の批評を甘んじて受け入れるほど度胸があるわけではない。一生懸命に書いていることを批評されるくらいなら、ただ自分の道を貫けばいいだけだ。
そう思っていたが、腐ってもプロであるという自覚を見失うところである。自由にやるとしても、その自覚だけは失ってはいけないのではないだろうか。
ただ、最近では、趣味としての小説を書くことが多くなったので、自分が小説家であるという意識が少なくなってしまった。実際に知っている人も少ないし、知っていても、話題に触れてはいけないという思いを知り合いは感じ、気を遣ってくれているのか、誰も何も言わなくなっていた。
そんな思いも手伝って、小説を書くということをしなくなってしまったのだ。
それなのに、いまさらのように、この病院に見舞いに来てしまったことで、小説家というワードを思い出させる人が現れようとは思ってもいなかった。
確かに彼女には悪気はない。悪気はないどころか、ガチのファンだというではないか。
しかも、
「霧の円盤」
という作品が贔屓だというのは、正直松永の中で気に入ってもらいたい作品であることに違いはなかった。
自分が小説家であることをまわりは気を遣って誰も触れようとしない中、自分でも意識しないようにしていたというよりも、意識をしないようになったと言った方がいいかも知れない。
それなのに、敢えてファンだと言われると、照れ臭い思いもある。しかも、自分よりもだいぶ若いナースだということは、照れ臭さを通り越して、いつ以来になるのか、恋愛感情も沸き上がってきた気がした、
「恋愛感情が死滅したのって、いつ頃からだっただろうか?」
人と関わりたくないと思うようになり、恋愛など、
「恋愛感情に至る前のドキドキ感さえ味わえればそれでいいんだ」
という思いがあった。
それが疑似恋愛でもいいという思いから、風俗で使うお金をもったいないとは思わない。もし恋愛をして、誰かと付き合っても、デートしたりして、一定の期間を使って仲良くなり、さらにお互いに恋愛感情を持つことで、結婚を考え始め。そこで、やっと結婚ということになる。近楽にしても、結婚するにしても、莫大なお金と時間が掛かるのだ。
特に結婚式など、なぜあんなにお金がかかるのかということが、疑問で仕方がない。
デートだって毎回のデート代もバカにならない。結婚することになっても、結納であったり、婚約指輪、さらには結婚式ともなると、それだけで、数百万である。
そんなにお金をかけたって、別れる時は別れる。そう思うと、一体何が大切なのか、それが分からなくなってくる。
そういう意味でも、松永が小説家として生きていた時代が相当過去のものであり、本当に事実だったのかということすら、自分でも分からなくなってきていた。
これも一種の頭の中で考える矛盾だった。
小説を書く時でも、
「想像と現実の板挟み」
という矛盾を孕んでいる。
ただ最近は、小説を気楽に書いているということで、少し矛盾に対しての感覚が変わってもきていた。
「想像と創造の板挟み」
だと思うようになっていたのだ。
想像というのは、変わらないが、現実というところを少し前向きに、そしてポジティブに考えて、
「創造」
という言葉に当て嵌めるようになってきた。
小説を書く上において、松永の思い描く想像というのは、考えていることを頭に描いて、現実のようにストーリー化してみたりすることである。
では、創造というのはどういうものであるかというと、あくまでも、元は現実であり、その現実を、想像するかのようなイメージで紡ぐ。つまりは、現在起こっていないことを未来に起こることだとして、頭の中で作り上げることだが、それは現実から想像への領域を超えるものでは決してないということである。
ただ、最近では、その創造の方が頭の中で曖昧になってきている。気が付けば現実として捉えているのだ。
そんな自分を意識していると、以前の小説家として意識していた時のことを思い出す。それは、有頂天であった頃のことではなく、小説家として、売れないということの葛藤に悩んでいた頃のことであった。
その頃のことを思い出すのは苦痛でしかないのに、さらに、病院で自分のファンであるなどという女の子が現れたことが自分にとって、精神的に追い打ちをかけるのではないかという、漠然とした不安を持ったのであった。
その不安が的中してほしくないという思いと、忘れていた恋愛感情を思い出させてくれたことは、相反する感情であったのだが、これも忘れかけていたドキドキ感を思い出させてくれたような気がした。
正直最近、欲求に不満すら感じなくなってきていた。身体は反応するのだが、恋愛感情に匹敵するようなドキドキ感を必要としないという思いに至っていたのだ。
小説を書いていて、
「想像と創造の矛盾」
を感じるようになってきたのは、この頃からだった。
完全に、感情がマヒしてきたのではないかと思い始めたのだった。
そう思えてくると、記憶が定かではなくなってくる。毎日が同じパターンの繰り返しであるということも災いしているのかも知れない。
五十歳になると、とたんに身体のあちこちにガタのようなものが現れてきた。
腰痛であったり、足が原因不明の痛みに襲われてみたり、重たいものを持つわけでもないのに、肩痛になってみたりと、自覚できるだけでもいくつかの症状が現れてきた。
「何か、若返りに必要なエキスを探さなければいけないのかな?」
とも感じ始めたが、いまさら若返ってどうしようというのか。
恋愛をするわけでもない。小説を書く以外に何かを始めたいという意識があるわけでもない。
サラリーマンであれば、
「定年退職後の第二の人生」
という、一つの節目があることで、何か老後の楽しみを探そうという気力もあるのかも知れない。
少なくとも定年退職に至るまで、曲がりなりにも一つのことをやり遂げたという達成感があるからだろう。
そう、自分にないものは達成感なのだ。
最初に小説を書いていて、新人賞を受賞するまでは、少なくとも達成感があった。まだまだ先が見えているという感覚があったからで、小説を書き終えると、自分の中で節目を感じていて、それが達成感であったということをあの頃は意識していたはずだった。
新人賞を取ってから、その感覚が薄れていき。小説家としての有頂天というわずかな時期を通り過ぎ、苦悩の末に考えた、
「ただ、書き続ける」
というだけの、プライドを捨てた悟りのようなもので書き続けることが、次第に別の意味のプライドを形成していったのだ。
では、それまでのプライドと今のプライドでは何が違うというのか?
それは、達成感の有無ではないだろうか、すぐに分かりそうなこんなことでさえ、分からなかったというのは、それを感じさせてくれる外的な刺激がなかったということであろう。
人と関わらないということは、外的な刺激を自分でシャットアウトしたことであり、
「人のふりを見てわがふり直せ」
ということわざがあるが、それすらないと言えるのではないだろうか。
松永は、それでもいいと思っているうちに、五十歳を超えてきた。そして、身体にガタを感じるようになってから、余計にその思いが強くなってきていた。そもそも、年を取るほど、人と関わらなくなるのが人間ではないだろうか。
人によっては、サラリーマン時代に、嫌というほど人に関わってきたことで、定年退職してからは、人と関わらずに自由に生きようと思っているであろう。
それは、本当の意味での人とのかかわりの煩わしさを知っていて、もういい加減に嫌だとまで感じているからこそできることだとも言える。
サラリーマンをしていても、そこまで人と関わらずに仕事ができる人もいる。そんな人は、きっと、定年退職後も、人と関わって行こうとするに違いない。もし、ここで人とのかかわりを解いてしまうと、残るのが孤独だけだということが分かるからだった。
「一人暮らしの老人が、孤独死をしていて、それが一か月近くも見つからなかった」
ということも結構あるようで、その惨めさを考えてしまうというのもあるだろう。
しかし、松永としては、
「一人で勝手に死んでいくんだから、それを惨めだという感覚がどこにあるんだろう? 死んでしまえば皆平等ではないか?」
と思うのだった。
考え方によっては、死後にも世界が広がっていて、死んだ時の状況で、その先の世界が決まってくるというようなものもあるようだが、
「そんなことは、小説のネタにこそなれ、現実的に考えることではない」
と思うようになっていたのだ。
松永は、そう思っていたのに、ナースであり、自分のファンだという金沢ゆかりに出会ってしまった。それはいいことなのか悪いことなのか(悪いことということはないと思っていたが)、要するにどこに転ぶかという意味で、まったく想像もできなかった。
いや、松永とすれば、
「創造もできなかった」
というべきであろうか……。
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