第4話 アイデアの膨らみ
もちろん、結婚したことも、離婚したこともない松永に分かるはずのことではないが、今入院中に佐久間には分かることだろう。ただ、今の世の中は昔と違って、結婚する人は減ってきていて、結婚しても、離婚する人が結構増えてきているという。ある意味独身者が多いということだが、再婚率というのはどうなのだろうか?
もし、再婚する人が少ないということであれば、前述の言葉の説得力はあろうかというものである、
結婚しない人の理由を聞いてみたいと思うのは松永だけではないだろう、松永は、人と関わるのが嫌だということと、同じ人とずっと一緒にいて、飽きないという自信がないこと、そしてよく言われることとして、
「この人となら、一生添い遂げることができる」
と思っているが、その言葉に信憑性を感じないという人もいるだろう。
さらに、最近の松永、つまり五十歳を過ぎてから考えることとしてもう一つある。
それは、子供の頃に経験したことであったが、松永の家には犬がいた。自分が小さい頃に、親がまだ子供の犬を買ってきて、子供の成長を見守るように、犬の成長も一緒に育んでいたのだが、親も松永自身も分かっていたのではないかと思うのだが、一緒にいる時は考えなかった。分かっていて敢えて目をその事実から背けていたのか、事実としてあるのは、
「イヌの寿命は人間に比べると短い」
というものだった。
大体、生きても十五年くらい、十年も生きればいいのではないかと言われてもいるのがイヌである。ハムスターのように短いペットからすれば、十五年というのは結構長いのだろうが、自分よりも先に死ぬのは分かり切っていることである。
ハムスターのようにすぐに死んでしまうことを思えば、十年以上生きてくれれば十分だという考えもあるが、実際に十年も一緒にいれば、完全に情が移ってしまって、死を迎える時、その事実と本当に向き合えるのか、自分でもよく分からない。
イヌの場合は、徐々に老いを感じていく。
「この子もだいぶ年を取ってきたわね」
と、母親も覚悟を決めているようだが、まだ、中学生か高校生くらいの子供には、なかなか受け入れられるものではない。
一緒に散歩したり、えさを食べさせているのを横で見ていて、おいしそうに食べているのを気が付けば満面の笑みを浮かべて見つめている自分に、微笑ましさを感じたりと、犬と一緒に過ごした日々は貴重で、忘れられないものとなっていた。
いざ、硬くなって冷たくなった犬を見ていると、悲しさを通り越して、何もできなくなってしまったほど放心状態に陥っている自分に気づく。
それまでは、犬が死ぬという事実を自分で考えないようにしていたというわけではなく、最初から分かっていなかったのではないかと思ったのだ。そして、死を目の苗三して初めて意識して、いなくなってしまったことに悲しみを覚え、いや、何に対して自分が悲しんでいるのか分からなくなっていた。
死んでしまったということが悲しいのか、もう二度と会えないということが悲しいのか、それとも、死を目の前にしていたはずなのに、何もしてあげられなかったことが悲しいのか。
憔悴状態に陥っていると、まわりは、
「この子は君に感謝しているはずだよ。最後までそばにいてくれたからね」
と言って慰めてくれるが、その慰めが何に対しての慰めなのか分からなかった。
自分が、何かに後悔していて、その気持ちを和らげるために慰めてくれているように思えたからだ。
だが、何を後悔するというのか? 死ぬことを意識していないかのように振る舞っていた自分が悲しくなったことで、何かを後悔しているかのように見えるのか、自分を慰めてくれる大人だって、自分以上にいろいろと死というものに対して経験しているはずだから、慰め方も分かるであろうに、皆、判で押したかのような慰め方は、どこから来るというのか、本当に分からなかった。
あれだけ子供を慰めながら、毅然としていただろうに、ほとぼりが冷めてくると、
「動物はもう飼う気にはなれないわ。見送るというのは辛いものだから」
と言っていた。
人間は嫌でも見送らなければいけないので、運命から逆らえないのだろうが、ペットは飼わなければいいだけのことだ。すぐに捨ててしまう無責任な飼い主が多い中で、まだいいのだろうが、どうもそんな親の考え方にどこか納得のいかないところを感じた松永だった。
もっとも、始めるよりも終わらせる方が難しいというのは、こういういろいろな発想を集約できないからだというのも一つの理由なのかも知れない。
「決断ができない」
という優柔不断な性格もさることながら、
「いろいろ豊富な発想が頭の中から湧き出してくる」
といういい性格もあることから、
「自分の中にあるもので、いい性格と悪い性格が表裏にあるのだ」
という考えが生まれてくるのも無理もないことだろう。
「長所と、短所は紙一重」
ということばを聞いたことがあるが、まさにその通り、歌舞伎などの舞台設定にあるという、
「どんでん返し」
などがその例となるのではないだろうか?
どんでん返しというと、忍者屋敷などで、非難する時や、あるいは、相手をその日やにおびき寄せて、誰もいないと思わせておいての奇襲攻撃に使ったり、以前、子供の頃に見たアニメで、表はみすぼらしい茅葺屋根の民家なのだが、中には豪華な品々で溢れた豪邸のような部屋だった。実はこの家の家主は盗賊で、盗品を家に飾っていたのだ。
しかし、刑事や他の盗人の目を欺くため、もし、誰かが家に近づいてくれば、家の柱の横にある紐にぶら下がると、上下が反転し、外観にふさわしい、囲炉裏端のような室内に早変わりをするという、どんでん返しの仕掛けが施されていた。
子供の頃にそれを見た時、
「よく、水などがこぼれないな」
などという発想が最初に浮かんできたが、自分が天邪鬼だということを分かっていたので、思わず苦笑いをしたものだ。
だが、実際には当たり前の発想であり、逆に、
「どうして、他の人がそういう発想をしないのか、実に不思議だ」
と感じていたのだった。
どんでん返しというのは性格にもあるもので、一種の二重人格であったり、普段はどちらかの性格が表に出ているのだが、いきなり正反対の性格が表に出てくると、その時、もう一つの性格が出てくるだけの正当性を、どこかに求めようとする。
いや、必要があって出てくるのだから、逆に出てくることを最初から分かっていたはずなのだ。本人だから当たり前なのであり、二重人格性というものが、特殊な性格だと思っている人もいるかも知れないが、松永は、
「皆にいえることだ」
と思うようになった。
それを感じ始めたのは、ある年齢くらいになってからだった。ただ、これが年齢によるものなのか、それとも、何かの心境の変化によるものなのか、自分でもハッキリとは分からない。何かのきっかけがあったということが分かれば、年齢に関係ないと言えるのだが、その感覚があったわけではない。そのために、年齢ではないかと考えてしまうのも、致し方のないことではないだろうか。
ただ、もう一つ考えられるのは、
「自分が二重人格だと考え始めた時期に由来しているのではないか?」
という思いもあったが、それはないような気がする。
もし、自分に感じたのと同時期にまわりにも感じたのであれば、それ以前からまわりに対して予感めいたものがあったはずだからである。
自分の性格に気づく時、自分に自覚があったかどうかはその時々で違っているが、いつも予感めいたものがあったような気がする。それが松永の自分に対しての、自分の評価ではないかと思っていたのだ。
ただ、年齢的なものというのも、実は侮れないとも思っている。
例えば、二十代から三十代になった時、自覚はしていた、つまり
「いよいよ三十代だ」
という意識がなかったが、後から思うと、何かの節目があったような気がする。
三十代から四十代になる時は、明らかに自覚をしていた、三十になった時とは明らかに違うのだ。それは、
「四十歳というのが、不惑と呼ばれる年齢」
だからである。
四十歳になると惑わないとよく言われるが、それは、孔子という人が、
「私は四十歳になると、迷わなくなった」
という言葉を残したことから、
「四十歳にして惑わず」
ということで、
「不惑というのは、四十歳という年齢を意味する」
というだけのことなのだ。
実際に他に根拠があるわけではない、ある意味、故事に対しての誇大評価とでもいえばいいのか、どこまでを表現するのか難しいところである。
だが、そういう言葉というのは言葉だけを知ってしまうと、どうしても、
「四十歳になると、迷わない世代に入ってくるのだ」
と思い込み、実際に四十歳を迎えて、迷わなくなった人というのがどれほどいるであろうか?
そもそも、孔子と呼ばれる人は、世界的にも歴史的にも有名な人物で、一般人とは違うという意識である。そんな人が、
「四十歳になったら迷わなくなった」
というのである。
今の自分たちに当て嵌めるだけでも、おこがましい相手と言える人の言葉を鵜呑みにできるはずもない。知れば知るほど、言葉が実はあてにならないものであると言えることも結構あるのではないかと思われる。
同じ時代の人間で、一番と呼ばれるだけではなく、さらにさかのぼっても偉大な人なのだ。あくまでも参考程度にしか思えないのではないだろうか。
そういう意味で、
「不惑という年齢に入ると、本当に迷わなくなったよ」
という人も中に入るが、正直信憑性は感じない。
そういう人は、暗示にかかりやすい人なのか、それとも、自己顕示欲が強い人なのかのどちらかではないか。自己主張が強くて、下手をすればまわりを巻き込んでしまいそうな人物に、いるのかも知れない。
逆にそういう人に二重人格性を感じるのだ。
自己主張を表に出す人は、それまで抑えていた感情を表に出すことを覚えたのではないかと感じる。
抑えていたというのは、出してはいけない性格だと思っていたということで、実際の自分の性格とは正反対のものだったのかも知れない。
それを思うと、二重人格というものを考えていくうえで、いろいろ言われる性格がどこか水面下で結び付いているのではないかと思うのだった。
まるで心理学のような発想であるが、松永は、年齢を重ねていくうちに、自分の小説が理屈っぽくなってくるのを感じていた。
その理由に、人の性格を考えることが多くなったからで、ひいては、他人ということではなく、自分の性格ということであり、自分が小説を書きながら、実は自分の性格分析をしているのではないかと思うようになってきたのだった。
小説を書いていると、意外と文章がスラスラと出てくることがある。特にあまり何も考えていないと思う時の方が、
「もうこんなに進んだんだ」
と感じる。
しかし、実際には時間もそれくらい経っていて、気が付けば一時間くらい、アッという間だったことも少なくはない。
いや、小説をずっと書いてくると、それが当たり前のように感じられた。時間的には十分くらいしか経っていないと思っているのに、実際に時計を見ると、一時間が経っているのだ。
書きあがった成果的には、実際の一時間を要するスピードなのだ。つまりは書いている時に感じるのは、
「俺って、結構スラスラ書けるじゃないか」
と思うことだった。
実際の時間と感覚的な時間の違いの理屈に気づくまで、
「一歩も二歩も作家として成長したのかも知れないな」
と感じていたが、分かってしまうと、
「やはりな」
と、ある意味、成長していないことに納得できてしまう自分に気づく。
悪いことではないのだろうが、ここまで来ると、本当に自分が何を目指しているのか分からなくなってくる。
「四十にして惑わず」
などという言葉、嘘っぱちではないかと思ってしまうのであった。
自己暗示なのか、それとも無意識にできるようになったことなのか分からないが、小説を書くのが仕事ではないと思うと急に気が楽になってきた。前は、
「仕事だと思うから自覚ができるのであって、小説に向かう姿勢が確立される」
と思っていたことで、職業意識が大切だと思っていた時期があった。
確かに、それは必要なことであるのは間違いない。新人賞を受賞してからというもの、出版社の人からも散々言われたような気がする。
それははっぱをかけてくれていただけなのかも知れないが、プレッシャーにもなっているということを分かっていないのだろうか。人の性格に裏表があるように、人が相手を説得しようとして発する言葉にも、それなりに裏表があると思っている、特に説得力のある言葉は余計に、そのイメージが強いのではないかと思うのだ。
説得力というのは、相手をその気にさせる力があるが、強すぎると相手にプレッシャーも掛けかねない。相手を説得しようと一生懸命になることは、時として相手に高圧的なイメージを植え付けることになるであろう。
そのことをどこまで相手が分かってくれているのかを説得する方も分かっていないと、せっかくのいい言葉も相手を苦しめることになるだろう。下手をすると、洗脳に近いことになったり、自分に対しての嫌悪感に繋がったりしないとも限らない。
これは、その人の立場にもよるかも知れない。家族であれば、少々の厳しいこともいうかも知れないが、家族であるがゆえに、指摘されたくないと思うこともあるはずだ。
「そんなこと、ちゃんと分かっているよ」
と、子供の立場で思うことも多いだろう。
親から見ればいつまでも子供は子供、しかし、実際に子供は成長しているのである。他の人であれば言われても素直に聞くのに、相手が親だと、どうしても反発してしまう。それが思春期における反抗期に繋がってくるのだろう。
そういう意味では反抗期は決して悪いことばかりではない。
「小さい頃はあんなに素直な子供だったのに」
と思う母親もいるだろうが、それだけ大人になった証拠だとも言える。
それを分からずに履き違えた理解をしていると、子供との距離が埋まることはなく、下手をすると、決定的な溝となり、その溝に沿って、交わることのない平行線を描くことになってしまうに違いないだろう。
「年を取ってくると、子供の頃のことをよく思い出すようになる」
と言われているようだが、この場合の
「年を取る」
というのは、果たしていくつくらいのことなのだろう。
松永も、よく昔のことを思い出すようになっていた。特に小学生の頃y中学時代などの思春期の頃が多い。しかも、その頃のことを思い出すようになると、今まで学生時代の頃というと、本当に昔のことのように思えていたのに、今では、二十代、三十代の方が遥か昔のことで、子供の頃のことが最近のように思えるのだった。
これは、二十代、三十代というのが、まるで別の次元の出来事のような気がして、
「別の世界ではないのだが、別の次元という考え方だ」
と考えるようになった。
「世界の違うと次元の違い」
この決定的なものは、いくつか考えられる
ます、どちらも、時間的な発想としては同じ時間のものなのであるが、世界の違いは、場所が違っているものであり、その象徴が、文化の違いという発想になる。
次元の違いというと、同じ時間の中で、同じ場所にいるのに、次元が違う世界があり、想像上の世界であるという考えであった。
いわゆる、
「パラレルワールド」
のような発想であり、無限に広がる可能性の数だけ存在するものであり、さらに次の瞬間には、また無限の可能性が広がっているという考えだ。
それを考えた時、松永は物理の授業で聴いた興味深い話を思い出した。
先生は一つの模型を教室に持ってきて、ちょうど円盤のようになったものが、中央で棒にくっついていて、ちょうど円盤が扇風機の羽根のようになってるのだった。そして、中心から円グラフのように、等間隔で区切られたところに、カラフルな色で彩られているのだった。
「色というものは、どんなにたくさんあっても、それを高速で回転させると、こうなるんだ」
と言いながら、その円の端を持って勢いよく回転させる。
「おおっ」
という声がまわりに響いたが、それは一部の人だけで、意外とこの現象は知っている人が多かったようだ。
松永も知っていて、それほどの感動はなかったのだが、それよりも、実際に見たのは初めてだったので、話に聞いていたことが証明されたことに別の意味での感動を覚えたのだった。
高速で回っている縁は、色がすべて消えて、真っ白になっていた。それを見た時、最初に感じたのが、
「これを使えば、人工的な透明人間だって作れるかも知れないな」
ということであった。
もし、話に聞いておらず、初めて見せられたことに感動していれば、こういう発想は生まれてこなかったかも知れない。
このことは、事あるごとに思い出してきたような気がする。別に決まった時ではないので、定期的にという言葉にはならないが、思い出すというのが決まって、小説のアイデアを考えている時だったというのは、それだけ集中しているからだったのではないかと思ったが、逆に、
「集中している時に、ふと気が抜けた時に思い出しているような気がする」
とも考えた。
しかし、それは逆に言えば、
「気を抜いた瞬間であっても、集中しているという括りで考えた時だってあるので、その時の方が、却ってアイデアが浮かんでいたような気がする」
というものであった。
松永は、これまで自分が小説をアイデアを考える時というのは、思ったよりも集中していることに気が付いた。
だから、肝心なのは最初なのだ。
集中できる環境を自分の中で形成できるかできないかで、生みの苦しみを味わうようになる。
それはアイデアを生むという意味ではなく、アイデアを生むための時間を自分で持てるかということが大切だということである。
自分で集中できる環境を作り、その中にうまく自分が入り込むことができれば、意外と入り込んだ世界は居心地がいいものだ。
居心地の良さがアイデアを形成し、昔に感じたアイデアに繋がりそうな記憶をよみがえらせることができる。それが円盤の色のカラクリであった。
「無限のまったく違った色であっても、高速で回転させれば、色は混じりあって、一つの色を形成する。つまり、どんなに別の次元であっても、高速で回転させれば、そこには真っ白な世界が広がっているのであって、皆はその回転した真っ白いものしか見ていないのかも知れないんだよ」
と先生が言った。
「どういうことなんですか?」
と他の生徒が聞くと、
「世の中には、次元というものがあって、それが可能性の数だけ広がっているという考え方があるんだけど、先生はその考え方には賛成で、それをいわゆるパラレルワールドと呼ぶんだけど、皆は、パラレルワールドという言葉を知っているかい?」
と訊かれて。
「はい、知っていますよ」
と、答えた生徒がいた。
「じゃあ、それが未来にばかり広がっているものだと思うかい?」
と訊かれて、訊かれた生徒は一瞬たじろいだが、
「そうじゃないんでしょうか?」
と答えた。
これは、意外な質問だったというよりも、どちらかというと、自分の心の中を覗かれたかのようなドキッとした感覚ではないかと思えた。だから、一瞬返事に困ったのだろうが、考えていたことに自分なりに自信があったのだろう。毅然とした態度で答えていたのが印象的だった。
「うん、確かにそうかも知れないけど、過去にだって、可能性があったのは間違いないんだ。しかも、未来に末広がりで広がっているように、過去にも末広がりで広がっていると思うのは、先生だけかな?」
というと、皆考え込んでいた。
ここまでくると、ついていけないと思う人がほとんどではないかと思ったが、それ以上に、普通なら、どう考えても違っていると思えることなのに、それを全面的に否定できないのは、先生の迫力もあるのだろうが、奇抜な発想に戸惑っている自分を感じているからなのかも知れない。
「じゃあ、先生は、現在が至上だという考えなんですか? いわゆる現在至上主義というのかですね」
という人がいた、
「私はそう思っているんですよ。この円盤でいえば、中心部分ですね。一番中心には色はないんです。だけど、高速で回転させると、色がついて見えるでしょう?」
と言って皆が見つめる。
「それは目の錯覚なんじゃないですか? ちゃんと見れば色がついていないことが分かりますよ」
と誰かがいうと、
「ええ、その通りです。その通りなんだよ。でも目の錯覚というのは、まわりが真っ白だから、中心も真っ白だと思うとおいうことでしょう? それをどこまで正しいと考えるかということが大切なんですよ」
というではないか。
さらに先生は続けた。
「円盤のまわりを過去と未来の発想だと考えると、中心は現在なんだよね。現在というのは一つしかない。だから、それが中心だという発想なんだ。まわりのどこからどこまでが、未来で過去なのかって分からない。それは時間が定期的なスピードで動いているからであって、未来が現在になって、一瞬にして過去になるという瞬間が存在する。それは意識することのできないほどのスピードなんだよね。このスピードが、カラフルな色を真っ白にするスピードではないかと思っているんだ」
と先生は言って、少し考え込んだ。
生徒の誰も声を出す人はいない。小さな声で唸っている人はいたが、それは必至に話を理解しようとしている態度に思えた。
話に途中で突いてこれなくなった人も、同じように考え込んでいる。どこかで先生の話がつながったのであろうか、それを思うと、先生の話にはワープのような作用があり、ワープというのを思い出すと、これも、当時流行っていたアニメを思い出した。
その頃は習ったことはなかったが、高校生で習う、三角関数におけるところの、
「サインカーブ」
と言われるものがある、
一種の心電図のようなものだが、十代でそこまで知っっているわけではなかった。
いわゆる波目のカーブであり、グラフのゼロの線を上に行ったり下がってきて、下に行き、また上がってきて上に行くというのを繰り返しているものだが、それを時間軸というのだという。
「ワープというのは、その時間軸のカーブを描くことなく、頂点から次の頂点に飛び移ることである」
という説明をしていた。
それを思い出すと、先生の言っている話をまんざらでたらめではないように思えていた。きっと他の生徒も同じように、そのアニメを思い出していたのだろう。
また別の発想としては、
「先生は、こんな発想に至った元々の起源は、この発想によるものだったのではないか?」
と思えた。
大人だからと言って、SFアニメを見ないとは限らない。特に先生のようにSF的な発想をするのが好きな人は、余計にアニメを見ていることだろう。それも子供の目線からではなく、あくまでも、SF、つまりは、サイエンティフィック・フィクションとして見ているということだ。
小説を書いていると、最近その時のことをよく思い出す。すると、自分なりにいろいろな発想が生まれてきて、その発想を裏付けるかのような思いが、沸き上がってくる。
そんな時、
「小説って書いていて楽しいものんだな?」
と感じる。
ある時期から、発想が湯水のように溢れてくることがあったが、それをメモに書き出してくると、いくらでも書けるような気がしてきた。
ただ、プロとして、いわゆる
「売れる小説」
というものを書けるとは思っていない。
むしろ駄作ばかりを書いてしまうのではないかと思うくらいで、小説家というものが、どういうものなのかを見失ってしまいそうだった。
そういう意味で小説家としては中途半端であるが、物書きとしてはある程度充実しているのではないかと思っていた。
そう思うと、他の売れる小説を研究し、そちらにばかり目を受けているのを見ると、
「まだまだ青いな」
などと思うようになってきた。
売れない小説家の戯言なのだろうが、それでもいい。売れることが大切であるのは分かっているが、本当にそれだけなのだろうか?
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