第3話 終わらせるということ

 佐久間教授の入院しているというK大学病院は、家から二駅となりの街にある山の麓に位置していた。以前、一度だけ友達の見舞いで来たことがあったが、今度もかつての友達の見舞いである。実際にどんな病気なのかは分からなかったが、新川教授の話では、

「それほど心配するような大した病気ではない」

 ということだった。

 循環器系ということで、心臓関係かと思われたが、実際に病室を訪れると、思ったよりも元気そうだった。病室も個室で、見舞いに行ってみると、仕事をしているようだった。

「大丈夫なのかい?」

 と聞くと、

「ああ、大丈夫だよ。最初は過労ということだったんだけど、講義中に意識を失って倒れたんだ。念のために精密検査をしようということになって検査をしてみると、少し心臓に疾患があるということで、この間手術を受けたんだが、成功ということで、その後のリハビリもあるので、もう少し入院が必要だということなんだ。さすがに完治というわけにはいかないが、それなりによくなっているということで、年齢的なものもあるので、うまく付き合っていくようにすれば、大したことはないと医者も言ってくれているんだ。そういう意味で、俺としても、ずっと教授の仕事をあまり休まずにやってきたので、ここらで少し休息もいいだろうということになって、気楽にやっているところさ」

 と、今まで仕事をしていた人間のいうことなのかという思いを抱かされた松永は、苦笑いをするしかなかった。

「元気で何よりだ。それにしても、本当に久しぶりだな」

 というと、

「ああ、そうだよな。お前が新人賞を取ってから後、結構苦労していたのを影で見ていて、俺もいたたまれなかったんだけど、それだけに、なかなか声もかけにくくてな、そのうちにどちらからともなく変な遠慮をするようになって、結局会話もないままに、縁遠くちゃったったからな。俺はそれが苛立たしかったんだ」

 と、佐久間は言った。

「それは俺だって同じこと、お互いに自分の道を切り開こうとして、一生懸命に自分の道を歩んでいるからな。どちらかが挫折すると、相手が羨ましくも見えるだろうし、それが相手も分かるから、声もかけにくい。それを思うと、どうしていいのか分からなくなるというのが、俺たちの関係だったんだろうな。だから、結局会話もままならなくなってしまって、行きつく先は、交わることにない平行線というわけだったんだな」

 と、松永が言った。

「でも、こうやって再会したんだ。気持ちが繋がるものがあるでんだろうな」

 と佐久間がいうと、松永はこれまでの自分たちのことを考えていた。

 佐久間の方も、今は独身だ。

 一度好きな人ができて結婚すると言っていたが、縁遠くなって久しいので話を訊く機会がなければ、よく分からない仲になっていた。

 風のウワサで聴いたのが、佐久間が離婚したということだった。松永としてみれば、

「結構簡単に離婚したんだな?」

 と思っていたが、実際には十数年の結婚生活だったという。

 ずっと独身で、毎日の変化がまったく感じられず、三十歳を過ぎてからは、毎日があっという間に過ぎていて、三十歳からこの年になるまで、本当に短かったという雰囲気が醸し出されているようだった。

 だが、結婚生活というのは、期間ではないだろう。数年しか一緒にいなくても、充実した毎日を送っていて。ふとしたすれ違いから別れることになったとすると、案外とあっという間に別れてしまえるような気がした。だが、お互いにジワジワ相手を嫌いになっていったのだとすれば、離婚までに行き着くのは結構難しい。どちらかが離婚したいと思うと、相手は変にしがみつこうとするもののようで、気が付けば離婚が迫ってきているはずなのに、何かを躊躇している。

 お互いにあるはずのない未練を探そうとしているかのようだった。

 未練などというのは、相手に持つものではなく、自分で割り切ることのできない執着心が惨めに何かにしがみついているだけだろう。そういう意味で、未練が残った時点で、すでに修復は不可能だと思ったとしても、それは無理もないことであった。

「男女の仲はなさぬ仲」

 という言葉を聞いたことがあるが、果たしてどういう意味なのだろうか?

 子供はいなかったという。それが幸いしたのか、それとも、子供ができなかったことが原因ではないかという憶測もできる。

「まさか、どちらかの不倫?」

 などと、外野の勝手な憶測だったが、いまさら言っても仕方がないだろう。どちらが悪いにしても、お互いに分かっていることであろうし、分かったうえでの離婚だったのだろうから、それは仕方のないことのように思う。

「佐久間もひょっとすると、今の俺のように、人との関係に疑問を感じているのかも知れないな」

 と、まるで、自分と同じ意見であってほしいという思いが、松永の中にあった、

 だが、さすがにいまさら離婚したことを話すわけにもいかない。いくら検査入院だとはいえ、入院している人間に追い打ちをかけるようなことをするのは忍びない。

 そもそも、お互いに気まずいくらいにぎこちなくなっている関係ではないか。せっかくこの機会にかつての仲の良さを取り戻したいと思っている気持ちに水を差すのは愚の骨頂であり、お見舞いということでは、完全に本末転倒な行為であることは否めないことだろう。

 しかし、そうなると何を話していいのか考えてしまう。何しろ人と関わることを自らで拒否してここまできた松永だっただけに、いざとなると、どうしようもないと思うのだった。

 部屋に入ると、佐久間は一人、点滴を打たれていた。ホッとした気分になったのは、他に見舞客がいなかったことだった。

「もし、他に誰かいれば、挨拶だけして帰ろう」

 と思っていた。

 挨拶というのも、

「知り合いがこの病院に入院しているので、その人の見舞いに来たついでに、君が入院していると聞いたので、ちょっと寄ってみただけなんだ」

 というつもりだった。

 しかし、これはあまりにも失礼だ。

「ついで」

 という言葉は言ってはならない言葉だったからだ。

 そんなことを言えば、相手を傷つけることは当然で、怒りさえ抱かせてしまう。なんのために見舞いに来たのか分からないというものだ。それならば、何も言わない方がマシだと言えるのではないだろうか。

「やあ、佐久間君、久しぶりだね」

 と声をかけると、こちらを最初は不思議そうな顔で見ていた佐久間が、すぐに笑顔になって、

「ひょっとして、松永君かい? いやぁ、久しぶりだね。君がお見舞いにきてくれるなんて思ってもいなかったので、嬉しいよ。でも、どうして分かったんだい?」

 と聞かれたので、

「新川教授から聞いたんだよ。最近、馴染みのスナックで、新川教授と仲良くなったんだけど、そこで、君のことを聞いてビックリしてお見舞いにきたというところなんだ。元気そうで何よりだよ」

 というと、

「それはわざわざありがとう。最初は検査入院だったんだけど、その時に心臓に少し疾患があるということだったので、手術をしたんだ。うまく取り除けたので、今は安心しているところなんだけどね」

 ということだった。

 その時点での松永は、佐久間教授が手術をしたというところまでの情報は聞いていなかった。それだけにビックリもしたが。回復に向かっているというのを聞くと、少し安心した。

――なるほど、個室というのは、そういうこともあるからなんだろうな――

 と感じた。

 それでも、個室で一人、点滴を打っているのを見ると、痛々しく感じられる。輸液の量を見る限り、まだ点滴を初めて半分を過ぎたくらいであろうか、あと三十分くらいは点滴を打っている状態なのではないかと思うのだった。

「松永君と、こうやって二人で話をするというのはいつ以来だろうね。大学時代が最後だったかな?」

 と言われたが、

「そうだね。俺の方が、なかなか頭の中を整理できなくなってしまったことで、人と話すのが億劫になっていたんだ。だから、あれからあまり人間づきあいができなくなってしまって、ここまで来たんだけど、でも、だからといって後悔しているわけでもないんだよね」

 というと、

「それも、君らしいかも知れないな」

 と言って、苦笑いをした佐久間だったが、いかにも曖昧な言い方をして苦笑いをするのは大学時代からのことで、あの頃は皮肉を言われていると思ったが、今は少し違うような気もしているのだった。

「佐久間さん、大丈夫ですか?」

 と言って、一人のナースの女の子が覗き込んだ。

「ええ、大丈夫ですよ」

 と声をかけると、彼女は安心して、表に出て行った。

「彼女は私のことをいつも気にしてくれていて、点滴とかも、大体彼女がやってくれるので、安心していられるんだ」

 と言っていた、

 あまり病院に来ることのなかった松永だったので、ナースというものをあまり意識したことがなかった。

 彼女を見て、急に身体に重さを感じたのだが、最初はそれがなぜなのか分からなかった。そもそも病院に来るということのない松永にとって、病院という独特の雰囲気の場所は、想像を絶するものがあったようだ。

 イメージは何となく分かっていたが、実際には薬品の臭いであったり、喧騒とした雰囲気であったり、ほとんど意識したことのないものだっただけに、分からなかったと言ってもいいだろう。

 しかし、彼女を見た時、自分がまるで病人になったかのように思えたのだ。その時以降、佐久間を見舞うことが何度かあったので、その都度病院に来ていたが、その時、病院に入った時に感じたのが、

「まるで自分が病気になったような熱っぽさがある」

 と、すぐに感じたことだった。

 だが、最初に来た時はそのイメージを感じたのは、そのナースを見た時で、

「俺も看護してもらいたいな」

 という気持ちになったからなのかも知れない。

 それまで人と関わりたくないと思っていたことから、女性に対しても、意識がなかった。もちろん、心と身体は別なので、身体を癒すということはやっていたが、実際に彼女を作ったり、結婚をしようなどという気持ちはなかった。

「癒しがあればそれでいい」

 という思いと、

「実際に恋愛などしなくても、疑似恋愛であったとしても、恋愛に匹敵するだけのドキドキ感さえあれば、それで十分ではないか?」

 という思いがあることで、松永は満足していた。

 そういう意味で、疑似恋愛などには他の人とは違う、他の人が恋愛と感じるような思いを抱くことができるようになっていた。

 恋愛を普通にできる人から見れば、

「そんなの気持ち悪いだkじゃないか」

 というに決まっている。

 もし、自分がそちら側の人間であれば、即行で相手を、

「気持ち悪い」

 と思ったに違いない。

 それを思うと、心と身体が別だというのも、理解できる。それが理解できない疑似恋愛を否定する人との違いは、結界レブルのような壁があり、交わることのない平行線を描いているのではないかと思うのだった。

 人と関わりたくないという思いはあるが、

「思っていることを聞いてほしい」

 と思うことは結構あった。

 その思いも、馴染みのスナックを持つことで、そこのママさんはさすがに人生経験が豊富なのか、それとも、松永のように、人と関わりたくないという思いと強く持っているからなのか、結構いうことは的を得ている。的確なアドバイスに基づいた指摘は、いつも、目からうろこが落ちるというほどに感心させられる。

 それがあるから、人と関わらなくても孤独ではないのだ。

 そもそも孤独というのが何を意味しているのかということもよく分かっていない。自分の気持ちを腹を割って話せる相手がいれば孤独ではないというのなら、松永には馴染みのスナックのママさんがいるではないか。

 それだけで十分なのではないかと思わせたのだ。

 そろそろ点滴が終わろうかとする時間になると、計ったかのように、また先ほどのナースが入ってきた。

「佐久間さん、そろそろ点滴終わりましたかね?」

 とニコニコとした表情で入ってきたのを見て、

「ええ、そろそろ終わりのようです」

 と言って、佐久間は彼女を見たのと同時に、松永の顔を覗き込んだ。

「あら? 今日はお友達の方がお見舞いですか?」

 と彼女がいうので、

「ええ、まあ」

 と曖昧に答えた佐久間だったが、それを聞いて、思わず顔を下に向けた松永は、自分がどういう気持ちで顔を下に向けたのか考えあぐねていたのだが、それを見た彼女は、

「大丈夫ですよ、佐久間さんの容体は、ちゃんとよくなっていますからね」

 と言いながら、少し顔が紅潮しているのを佐久間は見逃さなかった。

「彼女はね。金沢さんっていうんだよ。確か下の名前はゆかりちゃんだったっけ?」

 と言われて、松永はドキッとした。

 ゆかりという名前は、大学時代に佐久間と二人、同時に好きになった相手の名前だったのだ。

 その時は、結局二人で譲り合った形になって、お互いに、告白したいという思いを持っていながらも、告白できない状態に、相手のゆかりの方が業を煮やしてか、

「どうして二人ともハッキリとしないのよ。もう、勝手にして」

 と二人と一緒にいる時に、そう言って、ゆかりは二人同時に愛想を尽かしたと言わんばかりに、二人から離れていった。

 確かに二人は、どちらかに好意を持っていた。ひょっとすると、二人ともに好意を持っていたのかも知れない。

「告白してくれた人を好きになろう」

 と思っていたのだとすれば、それは彼女の憤りをそのまま証明しているということになるだろう。

 そう思うと、彼女の態度には辻褄が合っているように思うのだが、逆に、

「男の態度で自分の気持ちを決めようというのも、自分が好かれているのをいいことにして」

 という考えも成り立つ。

 しかし、二人はどちらかというとフェミニストなところがあるので、決してそんな考えはなかった。やはり、行動に移すことのできなかった自分たちが悪いという気持ちになり、それでも最後まで親友を気遣って、ゆかりは去って行ったのだ。

「恋愛と親友のどちらを取る?」

 ということを決めきれずにいたことで、結局お互いに気まずくなったのはぬぐえない事実だったに違いない。

 それだけに、ぎこちなくなった関係を修復するのに、ネックになったのは、この時のことがあったからだというのも事実であろう。

 そんなことがあってから、松永は、親友はおろか、恋愛も自分の感情から捨て去る道を歩んだ。

「煩わしい人間関係なんて、ないならないでいいんだ」

 という思いである。

 ただ、そんな思いがあったからか、人と関わらなくなってからの方が執筆は進んだ。売れるわけではなかったが、アイデアはいくらでも出てくる気がしていた。最近はなかなか新作を描けるような気はしていないが、四十段前半くらいまでは、時間があれば、小説を書いていた。

 その内容も様々なものが多く、パソコンを使い始めると、腕の疲れも意識することもなく、いくらでも掛ける。小説を書くための一番何が重要かということを、三十歳を過ぎてから気付くようになった。

「小説を書く上で何が大切なのかというと、それは集中力だ」

 ということである。

 集中力というのは、誰にでもあるものだが、その分気が散るのも仕方のないことだ。気が散るのを、

「集中が足りないからだ」

 と感じていたが、三十代に入ると、

「それは少し違う」

 と感じるようになった。

 集中力の有無は、気が散るということと相対的なものであるのだが、相関関係にあるというわけではないということに気づくと、小説が書けるようになった。ひょっとすると、小説が書けるようになったから、そのことに気づいたのかも知れないが、その順番にはあまり意味がないような気がした。

 松永は久しぶりに会った佐久間と、尽きない話をしていたが、どうにもエンドレスになりそうで、しかも、時間的に自分が考えている時間よりも、想像以上に過ぎてしまっていることが分かると、

「このままだと帰る機会を失ってしまうかも知れない」

 と思った。

 それは時間が経てば経つほど帰るタイミングを見つけることは困難になりそうで、そのことが分かっているだけに、いかに話を終わらせるかというのが問題だった。

 これは小説を書く上でも同じことで、ある意味、

「書き始めるよりも、終わらせる方が数倍難しい」

 とも言えることだった。

――こんな思い、以前にもよく考えたことがあったような気がしたな――

 それを小説のネタに使ったことがあったので、よく覚えていた。

 始めるよりも終わらせる方が難しいことのたとえとして、まず浮かんできたのは、戦争というワードである。

「戦争は始めるよりも終わらせる方が数倍難しい」

 と言われるが、それはどんな戦争にしても同じである。

 終わらせ方として何とかうまくいったのが、日露戦争ではなかったか。元々、

「世界の大国であるロシアに戦いを挑もうなどというのは自殺行為」

 とまで言われていた。

 しかし、日本という国の安全保障上の問題から避けては通れない問題であったが、同じ利害関係を持っていた当時のイギリスと同盟を結べたり、アメリカと友好的な関係を保てたことで、最後の仲裁に入ってもらえたという外交による根回しによって、戦争を有利に進められたのが一番だった。

 いわゆる戦争という純粋な戦いだけで挑んでいれば、まず間違いなく、日本は安全保障を脅かされて、アジアにおける勢力地図は大きく変わっていただろう。それがよかったのか悪かったのかは、歴史におけるタラレバということになり、その後の歴史でも答えが出ていたかどうかの判別も難しいだろう。

 そもそも、二二六事件においてもそうなのだが、よく、

「歴史が答えを出してくれる」

 という言葉を言われるが、それは果たしてどういう意味なのだろうか?

 歴史が仮に何ならの答えを出すとして、

「これが、あの事件における答えになる後年の歴史なんだ」

 と、誰が言えるのだろう。

 だいたい、誰がそのジャッジを下すというのか、もしそれが答えだとして言えるのだとすれば、歴史がまずその事件から最短で繋がっている必要があり、答えを出してほしいと思っている連中の思想が反映されていなければならないはずだ。

 しかし、時代というのは、その後もずっと続いていく。歴史とはそこで終わりではないのだ。

 つまり、その時がひょっとすると、本当に答えだったのかも知れないが、その後にもその答えに対しての歴史も続いていくわけで、それ以前の歴史が途切れてしまったというわけではないので、まるで金太郎飴のように、どこを切っても同じでなければいけないのではないだろうか?

 そんなことを考えると、本当に眠れなくなってしまう。

 また戦争の中で、終わらせるタイミングがあったにも関わらず、終わらせることに失敗したのが、大東亜戦争ではないだろうか。元々あの戦争は、これも日露戦争と同じで、開戦しなければいけないところまで追い込まれたことでの戦争であった。当初政府としても、軍部としても、

「戦いになったら、まずは緒戦で大きなインパクトのある戦いを行って、相手の繊維を喪失されることで、一気に講和に持ち込み、有利に講和を成功させるということしか、勝ち目はない」

 と思われた。

 しかし、日露戦争での勝利、さらに緒戦であまりにも強烈な勝ち方をしたので、そもそもの目的を忘れてしまった。結局、大国の圧倒的な生産力と兵器開発力の前に屈することになったのだが、これも終わらせ方を間違えた結果だと言えるのではないだろうか?

 それが戦争による終わらせ方の失敗であった。それだけ始めるよりも終わらせることが難しいということなのだが、戦争以外にも難しいと言われることがあるではないか。

 それは、今の誰にでも起こることで、かなりの人が経験していることだと言えるのではないだろうか。

「離婚というのは、結婚した時の数倍のエネルギーを必要とする」

 という言葉があるが、まさにそのことであった。

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