第6話 殺されたのは?
さおりのことを気に掛けていた聡美だったが、何とか、母親に形ばかりでも認めさせればそれでよかった。
何も、心から祝福してほしいなどと思っているわけではない。ウソでもいいから、
「結婚おめでとう」
と言ってくれればいい。
聡美が納得できなくても、江上と江上家の人々が納得してくれればそれでいいのだ。
江上家を騙すようで気が引けるが、これも一種の、「嘘も方便」というべきであろうか。そもそも結婚に
「親の承諾が必要だ」
であったり、あるいは、
「結婚とは家同士の結び付きだ」
などという、旧態依然とした考え方に誰も異議を唱えないのはどうしてなのだろう。
そもそも、結婚という儀式に金をかけすぎるということに、誰も何も言わないのはどうしてなのだろう?
結婚するのに、なるほど、結婚式は必要かも知れない。それはあくまでも、洋式、和式どちらでもいいが、洋式であれば、教会に行って神父さんに、結婚の儀を取り行ってもらえばそれで終わりではないか。
「家族は?」
と言われるのであれば、別にどこかのホテルのレストランでも団体予約をして、そこで二時間くらいの食事会にでもすれば、簡単に終わる。
そもそも、披露宴というのも、聡美はバカバカしいと思っている。
何と言っても、一番バカなかしいと思うのは、客のバランスを取るということであった。
新郎か、新譜のどちらかが友達がほとんどいないとか、家族が少ないなどの理由で、参加者が十人足らずの場合もあるだろう、その反対に。相手の客は、百人近いなどというと、あまりにもつり合いが取れない。場合によっては、
「披露宴でのサクラ」
ということで、そういう商売もあるという話を訊いたことがあった。
聡美としては、
「別に、相手が百人呼びたいなら百人でいいし、こちらだって、十人しかいないなら、十人でいいんじゃないか?」
と思うのだが、
「そうはいかない。結婚式のバランスが崩れる」
と言って、ほぼ皆反対するだろう。
じゃあ、結婚式のバランスって一体何なのか? 確かに、結婚式と披露宴を合わせて。皆は結婚式と総称していうようであるが、本当の結婚式は披露宴などは別であり、披露宴というのは、読んで字のごとし、まわりに披露するためのものだ。別に絶対に必要というわけでもない。
しかも、披露宴ともなると、一種のお祭りである。しかもストーリーはテンプレート化されていて、いくつかのパターンから大筋を選び、オプションで何をつけるかで、規模も決まってくる。有名人の披露宴ともなると、披露宴だけで、数百万ということだ。
「人生に一度の晴れ舞台」
と言われるが、聡美にはどうしてもそうは思えない。
これが、自分が仕事にしていることや目指していることの結果としての、賞の受賞パーティということであれば、
「一生に何度もない晴れ舞台」
と言えるだろう。
自分の努力が実ったことなので、祝ってもらうことに何ら違和感はない。しかし、結婚というのは、極端な話、皆することであって、自分だけが特別でもない。それなのに、いかにも人生の成功者でもあるかのようにおだてられたかのような大舞台に担ぎ上げられ、自分が偉くなったかのような状況になってしまうことを、聡美は恥ずかしいとすら思うのであって、
「何が、人生に一度の晴れ舞台なのか?」
と、バカバカしさしかないのだ。
しかも、授賞式であれば、賞の主催者が金銭面も主導権も握ってくれている。それなのに、結婚式というのは、自分たちでお金を出して、自分たちで演出をする。これを茶番と言わずに何という。
「別に結婚式だけで、披露宴なんかいらないや:
ということになると、いざ結婚となった時、結婚式だけができるところというのは限られてしまっているようだ。
「うちは、結婚式と披露宴がセットになっているので」
であったり、
「さらに、新婚旅行までがパックなんですよ」
というところばかりである、
式だけをしてもらって、その後、食事会。そして、新郎新婦だけが、そのホテルで初夜を迎えるというのが、一番なのではないかと思うが、どうしてこんなことになっているのだろうか。やはり冠婚葬祭というのは、商品化してしまったということであろうか。
披露宴というと、呼ばれる方も大変である。
「今年はまわりが結婚ばかりするので、出費がかさむ」
という人が多い。
それだけ呼ばれるというのは、社会人としての一種の誇りなのかも知れないが、出費の面では溜まったものではない。
呼ばれればスピーチを頼まれたり、余興を頼まれたりする。しかも、それを頼むのは誰かって? 何と、結婚する主人公である当人たちだった。
何が楽しくて、お金をかけてまでそこまでしなくてはいけないのか、呼ぶ方も呼ばれる方も、あまりいい気はしない。披露宴というものを楽しみにしている人も中にはいるだろうから、あまり気持ちを表に出していうことは控えなければいけないのだろうが、言い始めるととどまるところを知らないというのも事実だった。
本当に世の中の年中行事の中には、
「こんなもの、何が必要なのか?」
というものであったり、
「元々はまったく違った主旨だったものが、ただのお祭りになってしまった」
というものもたくさんあるだろう。
「本当に必要なのか?」
と言われるもので、バレンタインデーや、ホワイトデーなどがある。
好きな人にチョコを挙げる一年で唯一の日というが、本当はキリスト教の中で、ローマ皇帝の迫害下で殺された人を祀る記念日だったのだが、家族や大切な人に贈り物をするという日に変わったというのが本当のところである、日本が日キリスト教ではないということもあって、男性が女性に告白できる唯一の日などという悪しき伝説になったしまったことで、批判、不満も多く、今では少し変わってきているということであった。
ホワイトデーに至っては、チョコを貰った女性がお返しをするという日本で生まれたものだというではないか、しかも、お菓子屋がお菓子を売りたくて強引にこじつけた日というのが一般的になったようだ。ホワイトデーというのを考えた人も、ここまで普及するとは思っていなかったかも知れないという、実にバカバカしい日ではないか。諸説あるようだが、その説のどれもがお菓子屋さんのおん坊というものばかりというところが、バカバカしさを増幅させている。
ただ、商売屋としては、尊敬すべきところで、よく思いついたという経緯を表しておくことも忘れないようにしたいと思うのだ。
話は横道に逸れたが、結婚式というものが、どれほどくだらないものなのかということを誰も言わないのはなぜなのだろう? 自分も祝ってもらいたいという思いが強いからだろうか。
それとも、一生に一度のことだという思いが強いからだろうか。もちろん、結婚するのは何度でも構わないことだとは思うが、二度目はどんな顔をして披露宴をするというのだろう。
結婚というものが一体何なのかということを考えると、親の承諾がいるいらないというのも、どこか違うような気がする。
今はだいぶ変わってきているようだが、昔であれば、男性のところに奥さんが嫁にくるという意味で、家同士の結び付きということになるのだろうが、最近では、家族関係なしで一緒になるカップルも多いことだろう。それを思うと、結婚というものが何を意味するものなのか、疑問に思えてきた。
そこへ持ってきての、妹のさおりの、
「母親に対しての血の繋がりへの疑惑」
という話が出てきたのだ。
特に田舎という土地での出来事に、何となく振り回されてしまいそうに感じた聡美は、これから自分が何を目指していけばいいのか、本当に途方に暮れていた。
まさか、自分から結婚を申し込んできた相手が、親という障害だけで、何も考えずに自分から逃げたのだと思うと、どうにも許せないという気持ちを通り越していたのだった。
そういえば、江上という男、考えてみれば、アブノーマルな性癖の持ち主だったではないか。今では男らしいところが結構あるので信じ込んでいたが、そもそもの性癖を忘れていたことが、聡美にとっては、失敗だったかも知れない。
世間では、
「同性愛者であることを隠蔽するため」
ということでに偽装結婚がよくあるというではないか。
偽装結婚というと、よく聞くのが、入国ビザが切れていたり、ザイルいい資格を得るためのものというイメージが強いが、ドラマなどでよく扱われるのは、同性愛者による偽装結婚というのもあったりするのだ。
ただ、彼はその同性愛から逃れようという気持ちがあったのかも知れないという思いも贔屓目に見れば、見れないこともないが、やはり結婚を考えている相手を見捨てるようなマネは、普通では考えられない。
他のオンナに乗り換えたということであれば、それもありえないことでもなかったが、今の段階では同性愛という思いが頭を大きくもたげていた。
考えてみれば、その方がいいかも知れない。相手が同性愛者という、一種の変態に属する相手であれば、諦めもつくというものだ。
一体自分が何に悩んでいるのかが、今の聡美には分からない。確かに青天の霹靂ではあったが、何がどうなったのか分からないところこそが悩みなのだろう。
「自分があの男に何か嫌われるようなことをしたのか? あるいは、あの男が嫌いなところを私の中に見つけたというのか?」
というあくまでも、悪いのが自分だった場合、、または、
「あの男が同性愛者であったり、私のことを好きだと言っていたことが、実は方便であったり」
という相手が悪い場合がある。
自分が悪い場合は、何としてでも悪いところを見つけ出し、相手を説得しようとするか、今回はしょうがないとして、新しい相手ができた時に失敗しないようにしようと考えるのかであるが、相手が悪い場合は、何も自分が悩む必要はない。
「悪いやつに引っかかった」
というところが唯一、問題なだけで、すべては相手が悪いのだ。
何も自分が悩む必要などまったくない。
今の段階で考えられるのは、聡美の中に悪いところは考えにくいということだ。
ひょっとすると、相手に構いすぎてしまって、相手が億劫に感じるということもあるかも知れないと思ったが、聡美の方からそんなに積極的だったことはない。やはり。相手が心変わりしたのは、聡美に原因があるわけではないとしか思えなかった。
「それなら、こんな田舎にいることはない。さっさと東京に戻ればいい」
と思ったが、今までは、東京というところがどんなところだか分からなかったので、勝手にいい方に想像を巡らし、期待に胸を躍らせていたのが田舎での思いだが、今のように、いつ戻ってもいいと思うと、戻る場所である東京が、実に狭いところに思われて仕方がなかった。
知らなかった時は、どんなに広いものであるか想像もつかないし。自由自在に伸縮するかのような世界にも思えた。ある意味で、東京という場所は、生き物のようなところだと思っていたのだ。
しかし、本当の東京は確かに生き物であった。ただ、それは一人の人間に、どうすることのできないとてつもなく想像を逸脱するかのような場所であった。
半永久的に続くものなど存在しないし、限られた場所に人が密集しているので、自分一人が占有できる場所はわずかしかない。それも、人との共有を半強制的にさせられて、占有などという言葉が存在しないのが、東京というところではないかと思わせた。
力がないと生きていけないのも東京というところである。力がないのであれば、力のある人間にくっつくしかない。まるで寄生虫のような生活だ。
そんな生活に思いを馳せて、自分は田舎から出てきたのだろうか?
そんなバカなはずはない。希望に胸を膨らませてきたはずなのだが、何が恐ろしいと言って、いつの間にか、希望というものが、何であったか。胸を躍らせるとはどういう感覚なのかということを、すっかり忘れてしまっているのだ。
言葉だけ覚えていて中身はない。すべてを消滅させてくれるのであればいいのだが、肝心な部分だけが欠落しているというおかしな感覚を与えてくれたのも、東京というところであった。
「東京には、空がないという人がいたが、ないのは空だけではない。何が怖いと言って、何がないのか、それが分からないことが恐ろしいのだ」
と言えるのではないだろうか。
聡美はそんな東京に、本当に帰りたいと思っているのだろうか?
そんなある日、妹の友達が、いもう戸を訊ねて遊びに来た。
ちょうど母親もいなくて、家にいるのは、自分だけだった。時間的には昼の十二時頃だったようで、母親がスーパーに買い物に行く時間とも一致していた。妹の友達は週に二回くらいは妹のところにやってきて、勉強をしているという。
「中学三年生の時にちょうど引っ越してきて、仲良くなったんだけど、彼女の母親とうちのお母さんも仲良くなったようで、よく母親同士でも、いろいろ一緒に出掛けたりすているということだった。
家に来ることもたまにあったが、さすがに田舎の旧家には、敷居が高いので、しょっちゅうは来ないようだ。それに比べて娘の方は、そんなことにはおかまいなしに、よく遊びにやってきていた。
聡美の家は、結構な土地持ちで、敷地面積は千坪を超えているようで、詳しくは知らないが、家屋に納屋、さらに庭の広さはハンパではない。最近では旧家の方が老朽化してきたこともあり、母屋とは別に新たな建物を作って、そっちに拠点を移そうとして、新旧二つの家が連建しているが、それでも庭は十分にあり、家の広さが際立っていた。
さらに近くには、農地も持っていて、以前は近所の人に土地を貸して、農業を営んでいたということもあった。今では近所の人は都会に引っ越していったので、土地は売って、その場所はスーパーになるということだった。
納屋の方も、少し老朽化していたが、聡美が家にいた頃までは、前述の農地を貸していた分で、摂れた農作物を格納するのに使っていたようだが、今は補強を施し、妹の勉強部屋に改造し、うまく使っていた。
それでも余った部分は、駐車場に改造し、納屋もそれなりに使用価値はあった。
だから、妹が家にいる時は、母屋の時もあれば、納屋にいることもある。どちらが長いかというと、何とも言えないほどではないだろうか。
その日、妹の友達が訪ねてきた時、
「さおりさんはいますか?」
と、いつものように母屋に訪ねてきた。
しかし、母屋で聡美が声をかけてみたが、いないようだったので、彼女はいつものように、
「じゃあ、納屋の方かも知れないですね。私行ってみますね」
といつものように、納屋に向かった。
表から見る分にはただの納屋だが、中はかなり改造が施されていて、数人が十分に暮らせるくらいであった、結構広い勉強部屋だけではなく、リビングや、ダイニングキッチンも揃っていて、たまにイベントがあった時など、納屋を使って、パーティを催すこともあったくらいだ。
実は、父がこのような改装癖があるようで、祖父が生きている頃はなかなかできなかったが、祖父が死んでから、父がこの家の世帯主になってからは、結構、家の改装に没頭することが多かった。
「元々、お父さんは、学生時代には建築業に興味があったんだよ」
と言っていて、自分で図面を書けるくらいだった。
工事の発注にも、最初から口を出すことが多く。まるで、現場監督になったかのような格好が実に様になっていた。
今は他の仕事が忙しくなったので、現場監督の恰好までは見ることができなくなっていたが、この家は、ところどころに奇抜な改装が施されているが、それは父親の意向がかなり影響しているのだった。
奇抜ではあるが、しっかりとした機能性も充実していて、それが、一度は建設業を志したというだけの父の建設家としての冥利に尽きるところであった。
納屋の表はそのままの佇まいを残しておいて、内装は近代的な形にしているところなど、プロの建築家を唸らせるだけのものであった。
元々、聡美とは仲がいいわけではないが、喧嘩をするほどのものでもない。母親があまりにも聡美に構いすぎているところがあるので、父親は口出しできなかったというのが本音だったようで、母親と喧嘩をして一人になった時など、たまに声をかけてくれて、話をすることもあったが、父の自由奔放な性格に羨ましさを感じるくらいであったが、そんな時、
「やっぱり、親子なんだな。私のこの性格は、父親からの遺伝に違いない」
と感じていたのだった。
自由奔放で話をすれば、そのほとんどを分かってくれる父と、世間体を気にしたり、まるで自分が家を守っているかのような、どこか無理を感じさせる母とでは、聡美の感じ方は真逆であった。いまさらながら、そんな母親を説得しようと、のこのこと帰ってきたのは、江上との結婚を夢見たからだったのだが、まさか、その江上が結婚を諦めるなどと言い始めるとは、思ってもいなかった。
「裏切られた」
と感じるのも、当然のことではないだろうか。
江上が別れを告げてきてから、さすがに狼狽した聡美は、彼に逢いに行ったが、けんもほろろに相手にされず、追い返された。その時の顔を忘れることはできないが、
「人間というのは、こんなにも恐ろしい顔になれるのか?」
と思ったのは、それまでの彼が優しさに満ち溢れていた顔をしていたからだ。
いや、そう思い込んでいたというだけのことであって、本当は彼に優しさがあったわけではなく、彼の方も無理をしていたのかも知れない。それは、冷静になって考えると、自分も無理をしていたのではないかと思ったからであって、お互いにすれ違っていることに気づかなかったのは、きっとお互いが無理をしていたからであろう。
そう思うと、燃え上がるのが一緒であれば、冷めるとしても、同じタイミングだという考えは、思い込みにしか過ぎない。
そんな思い込みに気づいてからのことなのか、最初に冷めた方も、まだ冷めていないのに、一方的に冷められてしまった方も、お互いに傷つくことは分かっている。
しかし、最初に冷めた方とすれば、ここで情に流されてしまっては、お互いに絶望的に傷つくまで、つまりは行きつくところまで行きついてしまうと思ってしまうことだろう。
冷められた方は、訳も分からずに追いかけてしまうが、その惨めな様子を見た最初に冷めた方は、
「やはり、別れを切り出して正解だった」
と思うのだ。
なぜなら、その時点で冷めた方にもまだ相手に対しての思いは完全に消えているわけではないからだ。傷つきたくないという思いと、一緒にボロボロにまでなりたくないという思いが、別れという苦渋の選択に迫られることになるのであった。
「とにかく、相手には早く気付いてほしい」
という思いだけが相手に対しての態度に出る。
それまで、
「この人が冷淡になった態度など想像したこともない」
という思いと、
「この人ほど自分のことを分かってくれる人はいない」
という思いが交錯し、この関係が永遠に続くと思っていた。
もちろん、途中で小さな波はあるだろう。喧嘩だってあるかも知れないが、あくまでもお互いの気持ちを確かめ合うという意味でのものであり、別れに繋がるものではないと思っていた。
しかし、実際にその時が訪れると、
「この人のこんな顔、想像したこともない。今まで、この人だけが自分のことを分かってくれると思っていたが、急に、この人のこの顔ほど、二度と見たくない顔だと思う」
そんな気持ちになってきたのだ。
そう思えてくると、やっと冷静になれてくる。それまでの自分が錯覚をしていたとは思いたくないが、そう思わないと納得できないという矛盾が残ってしまう。
恋愛が終わる時というのは、何か音が聞こえるのかも知れない。
例えば、身体の骨が折れる時というのは、他の人には決して聞こえないが、錯覚かも知れないと感じるような微妙な折れる音がするという。聡美は今までに何度か骨折をしたことがあったが、その中で一度か二度は骨が折れた時の音を聞いたことがあった。
「ピキッ」
という音がするものだと聞いたことがあったが、確かにそんな音だった。
だから、骨が折れたことを、すぐに自覚したのかも知れない。
この音は、痛みが来るよりも先に感じたものだった。
音があった時というのは、骨が折れたと言っても、それほど大したことのない時だった。音が聞こえなかった時の骨折は、ほとんど、感知までに一か月以上かかり、ひどい時には入院もあった。ギブスにかかっているので、ギブスが外れてからも、リハビリという辛い時期がやってくる。固まってしまった禁肉をほぐさなければいけないのだが、下手をすれば、また骨を折ってしまいそうな感じがするので、その骨が折れた時の痛みが頭の中にあって、リハビリは、そういう意味でも辛いものであったのだ。
失恋だと分かった時にも、骨が折れた時のような音がした。それがいつだったのか、その時は分かっていたが、すぐに分からなくなった。それは自分が失恋したことを受け入れて、自分の中で納得した時だろう。あくまでも、納得した時期であって、辛さが解消された時ではなかった。その二つが同一ではないということは、最初から分かっていたことであり、まわりとも隔絶されたその思いが、自分を納得させる力になったのかも知れない。
そんな失恋をしたことで、自分がどこまで成長できるのか、そのことを考える余裕ができてくれば、失恋の痛手の出口が見えてくるだろう。つまりは、相手中心の考え方から、自分中心の考え方へシフトできるかということが、立ち直りのきっかけではないかと、聡美は考えるようになっていた。
そんなこと考えるようになった矢先、まさか、家の中で殺害された人が発見されるなど、誰が想像したことだろう?
話は一転、殺人事件へと変貌していくのだった。
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