第3話 社会の理不尽
聡美は、すでに二十二歳になっていた。高校を卒業して都会に出てきて、最初は途方にくれていたが、コンビニのバイトと、スナックの仕事で何とかやりくりができるようになったのは、二十歳を過ぎてくらいからだろう。
それを最初は、
「二十歳を過ぎてから、大人になったという気持ちが表に出てきて、自分の感情とまわりの目との間にギャップがなくなったからかも知れないわ」
と思うようになっていた。
「さおりちゃん、これでやっとお酒が飲めるね」
と言われて、自分ではあまり飲めないと思っていた聡美も、勧められて飲むうちに、少しずつ飲めるようになってきたのは、身体が酒に慣れてきたからだろうという当たり前のことを思っていたが、この発想が実は自分の中で重要な発想であると感じるようになるまでに、少し時間が掛かった。
お酒が飲めるようになったおかげなのか、それまでなるべく関わりたくないと思っていた客に対しても、さほど意識をしなくても、普通に会話ができるようになっていた。
今まで関わりたくないと思った理由は、
「あの人たちは、私のことをどうしても上から見ていて、子供としてしか思っていないんだわ。その基準があの人たちにとって、お酒が飲めるか飲めないかというだけなんじゃないのかしら?」
と思っていたことだった。
もし、そうであれば、何と浅はかな発想であろうか。そもそもお酒を飲めるようになるのが、二十歳という根拠、一体どこにあるというのか、法律上確かに二十歳未満は未成年だが、医学的に、生理学的に、二十歳という年齢が本当に大人と子供を分けることのできる唯一の年齢だと言えるのだろうか。
法律なので、どこかで一定の線引きは仕方がないとしても、人は個人差というものがあるので、一概に大人と子供の境界線を決めてしまうのは無理がある。個人同士の間であれば、その猶予を認め、必ずしも二十歳を大人と子供の境界線として決める必要がどこにあるというのだろうか?
聡美はそんなことを考えていた頃に、自分が江上のことを好きになってきていることにやっと気づいたのだ。
知り合ってから、一年近くが経とうとしていた。最初こそ、話をすることはあるが、友達というところまでは許せても、親友であったり、ましてや恋人という一線まではまったく考えられなかった。
だが、聡美には東京に出てきてから、気持ちの中のことを、腹を割って話せる相手がいなかったのも事実だ。そのことを、聡美は、
「見て見ないふり」
をしていたのだ。
東京というところは、いつも空気がよどんでいるところであった。だが、問題hそこではない。空気がよどんでいることを誰も見ようとしないのだ。それが、
「見て見ぬふり」
なのか、それとも、
「見て見ないふり」
なのかのどちらなのか、正直、聡美にも最初は分からなかったが、今では、
「見て見ぬふり」
なのだろうと思うようになった。
その理由は、気持ちと行動にギャップがあるからだ。行動だけをいくら繕っても、気持ちが伴わなければ、相手には分からないということを分かってはいるのだが、きっと自分のこととなるとどうにもなることではないのだろう。
これは都会田舎の人間関係なく、誰もが自分のこととなると、とたんに分からなくなってしまうという一種の人間としての本能のようなものなのではないだろうか。
しかし、本能という言葉、実に都合のいい言葉である。
本能と言ってしまえば、少々のことは許されてしまうという風潮があるからであり、それは本質を見ないということと結びついているからではないだろうか。
つまりは、
「相手のことを看破して、それを自分だから分かったんだと言おうものなら、それは相手にもこちらに対して隙を見せることになるからではないか」
という思いがあるからだ。
以前、スナックで話をした会話の中で、
「さおりちゃんは、将棋をしたことがあるかい?」
と訊かれて、
「いいえ、ありませんけど」
というと、
「でも、何となく並べ方くらいは見たことがあるんじゃないかい・」
と訊かれて、
「ええ、テレビで見たことがあるくらいですけど」
と答えると、
「それならいいんだけどね」
と、ここまでは何が言いたいのか正直分からない会話だったが、その人がいうには、
「将棋で一番隙のない布陣というのは、どういう布陣なのか分かるかい?」
と聞かれた。
「たった今、将棋を知らないと言ったのに、それを分かっていての質問なのかしら?」
と感じ、その人の顔を見ると、ニコニコと笑っている。
その笑顔は、
「私には何もかも分かっているよ」
とでも言いたげな余裕を感じさせる笑顔だった・
それを見た時、敢えてその人が自分にそんな質問を浴びせたことが分かった。つまり、今の情報だけで答えられるだけの知識があるということである。
聡美は考えていると、思わず笑ってしまった。
「なんだ、そういうことか」
と思うと、笑わずにはいられなかったのだ。
それを見た相手は、
「やっと分かったみたいだね」
と言って、ニッコリ笑っていたが、
「うん、答えは、最初に並べた布陣なんでしょう? だって、それ以外に思いつくことはないもの」
というと、
「そうなんだ。将棋では最初に並べた布陣が一番隙がない、つまり、一手指すごとに、そこに隙が生まれるということなんだよ。それにね、今さおりちゃんが感じたこととして、いろいろ考えたけど、最終的に、情報が一つしかなかったので、その方法が答えだって気付いたことで、おかしくなって笑ったでしょう? それはね、自分の中で一周して得られた答えだからなのよ。裏も表も回り切ることで一周するために、当然時間が掛かる。でもそれを意識させないから、本当は結構なスピードだということも言えるのよ。人間には裏表がない人間なんていないんだ。それを意識できるかできないかがその人にとって、自分を理解できるかできないかということに繋がるんだって、僕は思っているんだよ」
とその人はいうのだった。
「目からうろこが落ちる」
というのは、まさにこのことではないだろうか。
その時に聡美は、本能という言葉を思い出した。
自分の中で、裏の部分があるということは分かっている。具体的にはどういう部分なのかというところまでは把握できているわけではないが、それを自分の中で、
「本能のなせるわざ」
として、勝手に解釈しようとしているのではないかと思うことがあった。
だから、
「本能という言葉が都合よく使われている」
と感じるのだった。
「自分の中にある隙を、本能の一部のように考えているふしがある」
と思うのは、
「やはり都合よく考えなければ、大人になれないからだと思っているからではないだろうか?」
と、感じているからなのかも知れない。
東京に出てきてからすぐというと、誰を見ても怪しいとしか覆えずに、そんな自分に嫌悪を感じているという矛盾を抱えていた。しかし、それは自分だけではなかった。多くの田舎から出てきた人たちはほとんどと言っていいほど抱えていて、さらにはずっと東京で育った人たちも、同じように、まわりが信じられない人が多かった。
ただ、元から東京にいた人は、そんなことで自己嫌悪に陥ったりはしない人が多いだろう。
「そんなことでいちいち自己嫌悪になんか陥っていたら、生きてなんか来れないわよ。それが東京というところなのよ」
と言っていた。
そんな東京に住んでいる人が田舎に対してほとんどの人は、
「いいわね。田舎は呑気だし、人情は厚いし」
という人がいる。
それを訊きながら、
――何を言っているの。田舎だって、閉鎖的でしがらみが大きいのは東京よりも激しいんだから――
と心の中で思っていたが、ある時友達が、
「私は田舎は嫌よ。一日だって暮らしていけないわ」
と言っていた。
その目を見ていると、とてもウソを言っているようには思えない。切羽詰まっているような感じではなかったが、その様子には、
「誰かに聞いてもらいたい」
という思いが詰まっているような気がしたのだ。
彼女は、結婚したいと思う相手と巡り会って、実に幸せそうな表情をしていたのだが、実はそれが結婚詐欺だということが分かり、それまでお表情が一変してしまった。聡美のスナックに来たのは、友達が、
「話を訊いてあげよう」
ということで連れてきた店だったのだが、その友達というのが、聡美が入るようになってからすぐに常連になってくれた人だったのだ。
「同じ時期にここで出会ったというのも、運命のようだわね」
と言って、よく話すようになり、店以外のプライベートでもたまに会うようになっていた。
そんな友達が連れてきた彼女が男に騙された時のショックは、まるで自分のことのように思えたので、聡美はよく覚えている。数か月近くは、ショックから立ち直れなかっただろう。それでも少しずつ気分がほぐれてきたのか、次第に明るくなっていった。
「徐々にだけど,元気になっていくのが見れてよかったわ」
と、聡美がいうと、
「そうじゃないのよ。あなたには徐々にと見えるかも知れないんだけど、本当はある時のきっかけがあったからなのよ。確かに徐々に気が晴れてきたのは確かなんだけど、もし何かのきっかけがなければ、まわりから見て、ショックから立ち直ったように見えても、本人にとってはまったく立ち直っていないようにしか見えないの。分かるかしら?」
と言われ、
「ちょっとピンとこないかな?」
というと、
「それはね、やっぱり何かのきっかけというのが必要なのよ。きっかけが自分の中でハッキリと分かって、自分の中でそれまでの自分がまったく違った自分だったということに気づくことができれば、ショックから立ち直ったと自覚できるのよ。いわゆる結界を超えたとでもいえばいいのかしら? 超えた結界というのは、意識していなければ結界ではないのよ。無意識のうちに立ち直るということはありえないと思うと、無意識の中でも、絶対にどこかで自覚できることがあるはずなのね」
というではないか。
「ということは、自覚したことを、本人が忘れてしまったということになるのかしら?」
と聞くと、
「いいえ、そうじゃないの。忘れてしまったのではなくて、覚えていないということになるのよね。忘れてしまったというのは、過去形じゃないですか。忘れてしまえばそこで終わりなんですよ。でも覚えていないということは、過去形ではなくて、現在進行形なんです。つまり、覚えていないということが自分の中にあるという意識があって、思い出してはいけないと思っているんですよ。この気持ちが少しでも薄れると、思い出す可能性が出てくる。だけど、忘れてしまったのであれば、何も覚えていないわけではなく、忘れることが記憶に残っているということなので、本人は意識しない時に思い出すことがある。これはデジャブとは違う感覚なんだけど、思い出してしまっても、それが自分の過去の経験のどの部分なのかが分からないと思うんですよ。つまり、中途半端な状態で記憶が意識の中にぶら下がっているという感覚とでもいえばいいのかしら? 忘れたつもりでも思い出すこともあるかも知れない場合は、忘れるのではなく、思い出さないようにするという意識ではなければいけないということになるんですよね。でも、それを人間は意識できない。だから、忘れてしまったことでも、思い出すことがあり、思い出したことに対して、思い出すだけの理由とインパクトがあったということで、思い出したことの理由付けをするんじゃないかと思うんですよ」
と、彼女は言った。
難しい話で、聞いた時すぐには分からなかったが、その後、何かがあったその時々で思い出すのであった。
そんな時、
「思い出すべくして思い出したことだったんだわ」
と感じるのだった。
彼女の言っていることも、今は少しは分かるようになってきた気がする。
確かに今まで生きてきた中で、何かの決断をする時に、何かきっかけがあった気がするが、ショックから立ち直る時も、急に気持ちがすっきり来ることがあったというのを思い出していた。
「何ていえばいいのかしら? そう、割り切った気持ちになれたというのかしら? 割り切ってしまうと、気が楽になれるのよね」
というと、
「確かに、割り切りというのはきっかけの中の一つなのかも知れないわ。でも、それはあくまでも一つの手段でしかなく、割り切るというのは、自分の中で自分を主観的に見ていたものを客観的に見ることで気楽になれることで成立するものだって思うの。つまりは、他人事のように思えるということね。でも、これって大切なのよ。何が何でも自分の中で抱え込む必要はないということ、他人事として考えて気が楽になれるのであれば、それはそれで気持ちを切り替えるという意味では正解なんじゃないかって思うのよ」
と彼女は言っていた。
「私はそこまでショック過ぎて落ち込んだことがないので何とも言えないけど、その時がくれば、今のお話を思い出すかも知れないわ。少しでも救われた気持ちになれるかも知れないと思うわ」
というと、
「そんなことはないわ。あなたにだって、今までにたくさんの選択機会があって、いろいろ悩んだはず。そして、こんなはずではなかったという思いを持つこともあれば、これは運命なんだと諦めようとしているかも知れない。どっちにしても、その気持ちは悩みがあるから考えることなのよ。あなたは、私の今の言葉のようなことを考えたこともあるでしょう? それを悩みとして思わなかっただけなのかも知れないわね」
というので、
「えっ、それは悩みとして自覚していなければいけないことなんじゃないの?」
というと、
「世の中には知らなくてもいいことって結構あると思うのよ。絶対ということが世の中にはない以上、すべてを知る必要もないし、いくら自分の人生を左右する場面に差し掛かったとしても、意識をする必要は絶対にないと思うの。人間には、無意識にでも正しい方に導いてくれる、自浄能力というものがあるからね。それが、今話した結界なんじゃないかと思うにょね」
と、いうことだった。
その話を思い出しながら、田舎にいた頃のことを考えていると、確かに、家を出る時の気持ちを思い出す炉、結界のようなものがあって、それが見えた時、
「どこで妥協するかよね?」
と考えたのを思い出した。
割り切るという言葉と、妥協という言葉、同じ意味で考えていたが、若干違っていることに気づかせてくれたのが、その時の会話だった。その時、割り切るということが、
「いかに他人事だと思えるか」
ということだと思うかを感じた。
だが、妥協というのは、自分の中で噛み砕いていかなければいけないもので、
「いかに自分を納得させることができるか?」
ということではないのだろうか?
聡美はそんなことを考えていると、
「東京に来てからなのか、一人暮らしをするようになったからなのか、いつも何かを考えているような気がする」
と思うようになっていた。
田舎にいる時は東京のことしか考えていなかった。だが、都会に出てきてからは、東京から離れたいと思ったことはあったが、田舎に戻りたいとまで考えることはなかった。東京にいて一番何が嫌なのかというと、必要以上に人に絡まなければいけないことがあるからだ。基本的に東京の人は田舎に比べればであるが、人と絡むというよりも仕事などで、関わらなければいけないというだけである。しかし、そこに感情はなく、血が通っている感じはしない。
だが、逆に田舎にいると、今度は人と関わらなければいけない。関わらなければ、その人は仲間外れにされて、生活自体ができなくなってしまう。都会では、生活はできるが、将来において、出世などができなくなる。下手をすれば、望んでもいない田舎に飛ばされることだってあるだろう。だから、聡美は正社員になれないのを、高卒で田舎から出てきただけの人間だからしょうがないと思っていたが、今のように、コンビニとスナックで何とかではあるが生活ができていることで、正社員として就職できなかったことを悔やんだりすることはなかった。
むしろ、社会人として、会社の一部としてしか機能していないのであれば、別に正社員である必要などないと思っていた。
スナックにいると、いろいろな客がやってくる。常連さんの中にはサラリーマンもいれば、自営業の社長さんもいる。芸術家の先生もいれば、大学教授もいると言った、いかにも社会の縮図を見ているようだ。
スナックにいる間は、サラリーマンであっても、社長であっても、大学教授でさえも、まったく上下関係はない。ただ、皆相手に敬語を使っているが、それは、敬意を表しているからで、無意識のうちだという。それでも、中には無意識に敬語を使わなければいけないという癖がついてしまっている人もいるが、敬語を使うのは、本当に尊敬しているからであろう。
サラリーマンが先輩や上司とくることがあるが、完全に先輩の機嫌を取っているというだけにしか見えない。本当に尊敬などしているわけではないのに、敬語を使われることに、違和感などないのだろうか?
最近では、コンプライアンスが厳しくなってきたので、パワハラに当たるのかも知れないが、春の新入社員の時期など、ちょうど花見の時期と重なることもあって、新人が花見の場所取りをするのが恒例になっている会社も結構あった。
それを見て、聡美は、
「何てバカなことをしているんだ?」
と思ったものだった。
単純に考えて、仕事の時間に仕事よりも、花見の場所取りを優先させるのである。会社の仕事の一環でもなんでもないのである。
聡美が考えたのは、
――誰が、彼らの花見をするための外出を許可したというのだろう?
というものだった。
江上にこの話をした時、江上も、
「まったくその通りだ」
と言っていたが、外出許可の話を訊いた時、彼も一緒になって、
「それは確かにそうだな」
ということであった。
基本的には、事務所を少しでも開ける時は、外出届がいる。仕事以外での外出があるとすれば、歯科医などの病院への通院の場合などは、いちいち提出しなくてもいい会社もあるというが、それ以外では基本的にはありえない。
まさか、外出届の備考欄に、
「花見の場所取りのため」
などと書く人はいないだろう。
まず直属の上司のところではじかれる、
しかも、花見の場所取りなのだから、一人というわけはない。数人で出かけるのだから、それぞれの理由にも限りがあるというものだ。
そんなことよりも、さすがにコンプライアンスを叫ばれていなかった時代であっても、この風習はきっと誰もがおかしいと思っていることだろう。そう思えば、花見の場所取りまではいかないが、他にも無駄と思えることはたくさんあった。
社員旅行であったり、忘年会新年会の強制出席などである。百歩譲って、一次会はいいとしても、二次会の半強制に近い参加は、無駄としか言えないだろう。上司の下手な歌を聴かされたり、飲みたくもない酒を飲まされたり、それで翌日の仕事に差支えが出れば、誰が責任を取ってくれるというのか。ほとんどの場合、
「本人が無理に飲んだだけ」
ということで自己責任にされてしまう。こんな理不尽なことはないだろう。
ちなみに、都会y田舎というわけでもなく、会社という括りでもないが、無駄だと思っていることがあった。
それは学校での朝礼である。
週に何度か、全校生徒が校庭に整列し、校長先生の訓示を訊くという行事であるが、これに何の意味があるというのか、以前、朝のワイドショーを見ていて、そのことを問題にしていたのを見かけた。
「別にしなければいけないことではないですよね。何か全校生徒に対して発表しなければいけないこと、表彰であったり、学校行事の一環としての集合であれば問題はないが、絶対に週に一度は朝礼をしなければいけないという理屈はない。熱中症で倒れる人が何人もいるのだから、そういう意味でもまったく意味のないこと」
というコメンテーターの人がいた。
普段は、ワイドショーのコメンテーターの話は半分聞いていただけだったが、この話には全面的に賛成だった。
世の中というのは、今ではなくなっていることもたくさんあっただろうが、実際には、
「あるある」
ということで、脈々と受け継がれていることがある。
世の中の理不尽を思うと、都会にいると、田舎よりも多いような気がしていた。それでも頑なに田舎に帰ることを考えようとしなかったのは、母親に対しての確執があったからだ。
そこに妹の、「さおり」が絡んでいるから少し厄介だった。スナックに勤めるようになって源氏名をどうしようかと考えた時、最初から、
「さおり」
を意識したわけではない。
いや、正確には、意識はしたが、この名前は使いたくないというのが最初にあった。それでもほとんど時間を空けることもなく、源氏名を「さおり」にした時の心境を、思う出そうとするのだが、すぐに思い出せるものではなかったのだ。
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