惑うものたちへ

 ああ、またか。

 宿木吐夢は深くため息をついた。これは夢だ。夢の中で夢だと解る夢。登場人物はいつも同じで、俺と、#あの女__・__#だ。

「遅い」

「6時半って言ったよね?」

 車で女を迎えに行くと、一言目にそれだ。

「急な仕事?そんなの関係ない。遅れた分私のためにしっかり働いて」

「朝イチで会議がある?なら少しでも早く帰れるよう頑張ったら?」

 ああ、始まった。

 こちらの事情はお構いなしで、自分のことばかり。

 容姿は人並み以上で、この女と付き合うために全財産を貢ぐ男だっているだろう。八頭身でスタイル抜群、容姿端麗で着ている服も身につけているものも一級品だ。芸能人だと言えば、誰もが頷くような女だった。

「もう日付が変わる?関係ないでしょ、まだ私が満足してないもの」

 だが肝心の中身がこれだ。口をひらけば文句ばかりで、心の底からうんざりする。そして何故だかこの女が夢の中ではいつも俺の彼女なのだ。

「ねえ、早く車出してよ」

 もう何箇所目かの目的地の後、女が助手席からさも当然のように俺にいい放つ。

「ちょっと、何してるの?」

「ねえ、早くしてよ」

 自分では何もしないくせに、態度だけは偉そうに…。俺は勿論の事、女だってどう見ても楽しそうじゃないのに、なんで2人は付き合ってるんだ?

「ほんと使えない」

 その一言で、俺の堪忍袋の尾が切れた。

「…今すぐここから出ていけっ!」


 俺は自分の怒鳴り声でベッドから飛び起きた。シーツが汗でじっとりと濡れている。きっとまた、嫌な夢を見たのだろう。起きたら手からこぼれ落ちる砂のように消えてしまう夢。ただただしこりのように脳に引っかかる感触が不快だった。

 気晴らしにカーテンを開けるとオーバービューの大きな窓から容赦なく日光が降り注ぐ。山の上の35階建てのホテルに居るせいか、紫外線は肌に痛みが走る程強烈だった。時計を見ると、時刻はもう正午になろうとしていた。

 身支度を済ませてロビーに降りると、珍しくそこには誰も居なかった。源さん、詠人、鈴さんの3人は決まっていつもロビーで思い思いの時間を過ごしているんだけど。出かける為にロビーを通る時はもちろんのこと、眠れない夜も物寂しい朝ですら誰かはいた。

「お昼かな」

 もはやロビーに住んでいると言っても過言では無い3人だが、唯一食事だけは自室で摂っているようで、誰かがいない時は大抵それが理由だった。

 シンとしたロビーは彼らがいないと途端に色を失い、燻んだ壁紙や埃被った調度品が目について、

改めてリゾート計画破綻の痛々しさを思い知らされる。いくら当番制で掃除していても、僅かな住人では限界があって、目を凝らせばいくらでも綻びが見つかるのだ。居心地がいいからと長く住もうと思っても、案外住めなくなる日も近いのかもしれないな。


 俺はホテルを出るとすぐ右手にある深い薮の中に躊躇なく分け入る。ここは通称「惑いの道」だ。大層な名前の通り、何処を見渡しても自分の背丈よりも大きな薮しかなく、気を抜けばすぐ前後不覚に陥り迷ってしまう。

 だが、不思議な事に無心でひたすら薮をかき分けていくと、いつの間にかちゃんと下まで辿り着く事ができるのだ。少し前に角谷詠人から教えてもらったこの近道は、最初こそ敬遠していたけど今では重宝している。

 事故の後遺症でいつ頭痛で倒れるかもわからないから、こんな視界の悪い場所は長時間通れないと思っていたが、本当に体感で一瞬なのだ。3キロはある蛇行した山道なのに、一直線に駆け降りるだけでいい。なんというか、時間を跳躍しているような、自分が自分じゃなくなるような、筆舌しがたい感覚。慣れると案外顔や手足に傷をつける薮やまとわりつく虫ですら気にならなくなった。まあ、流石に冬は怖くて山中鈴さんの父親を追いかけた時以来使ってないけどね。

 そんな事を考えながらも、歩みは止めずにひたすら藪をかき分けて進んでいく。

 今日は週に一度の買い出し当番の日で、これから村の外れにある無料販売所まで行かなければいけないのだ。

 夜染村にコンビニのような便利なものはなく、食品を買おうと思ったら村の中心部にある小さなスーパーに行かなければいけない。ただし、それすらも村民限定で、俺たち余所者は利用できなかった。

 ちくちくした草の先が俺の鼻をくすぐり、俺は思わずくしゃみをした。その衝撃で一瞬世界が歪む。

 いつだったか知らないでスーパーに入って恥ずかしい思いをした事があった。夜染役場と同じで、店員は挨拶すらしてくれないし、勿論精算もしてくれない。何度声をかけても無駄で、だからと言って勝手に商品を持って帰ることもできず、結局諦めて帰ってきたのだった。後からことの顛末を詠人に話して鼻で笑われたのを覚えている。無料販売所の存在や買い出し制度について知ったのはその後のことだった。

 時折近くの藪ががさがさと音を立てるが、俺は全て無視して目の前の草を掻き分けることに集中する。

 村にある店はホテルの宿泊客が利用することは想定されておらず、どんな形であれ村民以外受け入れない仕組みになっていて、リゾート計画頓挫後に空き部屋が移住者の住処として生まれ変わった今でもそれは同じだった。

 村という集合体は、いつの時代も多かれ少なかれ余所者を嫌うものだ。こと夜染村においてはそこに追い討ちをかける出来事もあった訳で、特にその傾向が強かった。何せ住民の反対を押し切り強引に村をリゾート地に変え、挙句の果てに頓挫して大量の死者と共に放り出されたのだからそれも当然だ。いやまてよ、死んではいないんだったか。

 不意に頭上で揺れる蓑虫の映像が思い起こされたが、ざらりとした何かに邪魔されてすぐに消えてしまった。それに呼応するように周囲の騒めきが大きくなり、俺はそれ以上何かを思い出さないように、少し乱暴に手を振り回しながら山道を下っていく。

 とにかく、これ以上余所者に掻き乱されたくないという意識が強いのだろう。ホテルへの移住キャンペーンだって苦肉の策だったに違いない。入居時すら村側からの説明が何もなかったし、ホテルの点検に時々職員が訪れても必ず無視される。   

 それでも、村のはずれに申し訳程度に無料販売所が置かれていて、食材その他生活用品は最低限そこで調達できるようになっていた。

 騒めきが無視できないほど大きくなり、思わず振り返ろうとしたその時、目の前の視界が開けて強烈な日光が俺をボイルにした。

 俺は安堵のため息をつくと、全身に付着した草や砂を払い落として村のはずれにある無料販売所へ向かった。 

「絶対嫌がらせだよなあ」

 せっかく山道を早く降りられても、ここからがまた長い。

 販売所は村の中心地である役場を超えて、村唯一の出入り口である空洞トンネルの近くにある。ホテルの住民専用のものを何の為にわざわざ山を降りた場所に用意したのかは知る由もないが、設計者の意地が悪いか、度を超える無能者のどちらかだろう。

 夜染村の中心地は役場だ。山を切り拓いて作られ、あらゆるものが自然と共存しているこの村で、唯一役場だけは反対の極地にあった。黒い箱形の厳しい人工物。その色や形に何か意味があるのかも含めて全くの謎だった。

「暑い…」

 藪を抜けるとしばらく周囲に建物がないため、真夏の直射日光を一身に受けなければいけなかった。既に体は獣道を分け入った事で汗だくになっていて、歩くたびに張り付くTシャツが酷く不快だった。

 ゾンビのようにだらりと垂れ下がった腕をぶらぶらさせながら歩いていると、前方に安樂夫妻がよく夕陽を眺めている茶色屋根の東屋が見えてきた。

 安楽夫妻は巌さんが軽度の認知症で、夫婦で穏やかに余生を過ごすためにこのホテルに越してきたらしい。品のいい老夫婦で、巌さんの時折出る鋭い呟きと博子さんの何でも受け入れる包容力が丁度良い塩梅で混ざり合ったお似合いの2人だ。  

お揃いの白いコートとハットを見につけた姿が印象的で、何処か俗世から離れた雰囲気を纏う人たちだった。

 俺はゆっくりと東屋に近づいてみたが、昼間だからか安樂夫妻はいないようだった。俺は休憩がてら東屋に腰を落ち着かせる。

「ふーっ…。生き返る」

 ひんやりとした木の感触が予想以上に気持ち良くて、俺はその場にごろりと寝転んだ。こういった場所には大抵天井や壁に落書きがしてあるものだが、目で見る限りそうしたものは一つもない。

「浮世離れしてるよなあ」

 この村も、ホテルの住人も、当然俺も…。

 そういえば、安楽夫妻と初めて会ったのもこの東屋だったな。初対面だった事もあり、緊張してあまりじっくりとは見れなかったけど、夕陽が2人の白いジャケットを血で染め上げた事が強く記憶に残っている。目の前に遮るものがないので、ここら見る夕陽はさぞ綺麗な事だろう。

 だが、あの年齢でしかも一方は認知症でありながら、毎日杖をついて思い出の夕陽を見に山を往復するなんて、俺には到底真似できない。そんな生活を続けて良く今まで怪我をしなかったものだ。そこには単に思い出以上の、博子さんの執念のようなものを感じる。

 俺のこれまでの人生で、他人のためにそこまで自分を犠牲にした事があっただろうか。目をつぶって思い返しても、いつまで経っても何一つ出てきやしない。しまいにはうたた寝をして夢の女が出てくる始末。

 これ以上ここに居ると本当にそのまま寝てしまいそうだったので、俺は誘惑を絶って東屋を飛び出した。


 東屋を越えて少し先に進むと、今度は木々が生い茂る森がある。森といってもきちんと道は整備されていて、腐葉土が敷き詰められた遊歩道を歩いて行けば迷わずに抜けられるようになっていた。

遊歩道の途中に風化して今にも崩れそうな木のアーチがあって、そこを潜れば前30ステージから成る巨大なアスレチックが姿を表すのだ。

 変な配置だと思うかもしれないが、この村は本来全てがリゾート地なのだ。ホテルから送迎バスで下まで降り、思い思いに夜染村の自然や自然と調和したアクティビティを楽しんでからホテルに戻る流れになるはずだった。

 リゾート計画が頓挫した今、巨大なアスレチックは存在意義が失われ、ただの置き物になってしまった。危ないから遊ぶこともできないし(仮にメンテナンスされていても、余所者には使わせないだろうけど)、お金がかかるから取り壊すこともできず、ただ朽ちていくだけの悲しい運命。

 アーチから向こう側を覗き込むと、沢山の子どもで賑わう様が見えて、俺は驚いて思わず目を背けた。頭を振って恐る恐る中を覗き見ると、勿論子どもなどおらず、アスレチックは傷ついた体を労わるように静かに横たわっていた。

 もしかすると、いつまでも残り続けるよりも潔く朽ち果てる方が幸せなのだろうか?

 夜染村の立地ならいくらでも手を出す業者がいそうなものだが、きっと過去の事があるからもう村側に余所者を入れる気はないだろうな。国からの賠償金もあるから、村の維持には困んないだろうしね。

 俺はアーチを素通りすると、ゆっくりとした足取りで遊歩道を行く。ここにいる内はあの忌々しい太陽から逃れられるから。ひんやりとした外気が張り付いた衣服の汗を吸い取ってくれている。ああ、こんなにも風が気持ちいい。目を閉じて耳をすませば、森はこんなにも大小様々な音で溢れていることがわかる。風が吹けば葉と葉が擦れ合い、そのざわめきはオーケストラの旋律に変わる。歩くたびに足元の枯れ葉や木の枝がサクサクパキリと耳触りの良い音を立て、鳥や小動物の声がそれに深みを与える。例え影しか見えずとも、ほら、耳を澄ませば今も…。

「いーっあ!ぎゅいいいいい!」

「ぴっ…ぴっ…ぴっ」

「…うっ」

 どこか聞き覚えのある声に驚いて慌てて目を開けると、そこは夜染役場だった。

〈いつの間にここまで歩いてきたんだ…?〉

 森から役場まで、距離にすれば然程遠くはないが、役場に至るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちている。最近こんな事ばかりで嫌になる。生死を彷徨った自損事故からもう一年以上経とうとさはていた。退院してからは特に薬を飲めとか定期通院しろとか言われていないけど、一度病院で検査を受けた方がいいのかもしれないな。俺が入院していたあの…。

「うっ…」

 突然頭に鋭い痛みが走り、俺はこめかみを抑え、痛みが収まるのを待った。言ってる側からこれだ。本当にやりきれないな。

 目の前の黒く威圧的な箱型の異物が俺を見下ろしている。地下倉庫から何かが俺を呼んでいる気がしたが、俺は無視して右手に道をそれた。今日は役場に用事はないし、気軽に立ち寄れる場所でもなかった。スーパーと同じで役場の職員は村民以外には挨拶すらしないのだ。唯一声をかけてくれる神寺御仏さんだって、拒絶反応を起こして何度も嘔吐する始末。今は全国津々浦々の村で移住キャンペーンをやっているが、実態はこんなものだ。結局余所者は余所者で、村の地主がノーと言えばノーの変な掟や式たりがあって、開放的な生活を思い描いて移住しても、結局肩身の狭い思いをしなければいけないのだ。


 この道の先には村の住宅街がある。住宅街といっても隣の家同士の感覚の広いこと広いこと。家と家の間にあるのは延々と続く田圃や畑だ。きっとここで作られたものが全て村人限定スーパーに並べられるのだろう。

 民家から伸びた日陰で時折休みながら、俺はゆっくりと無料販売所を目指した。民家は役場と違って三角屋根に白い塗り壁のシンプルな造りだった。村の景観を損わない為か、どの家も全て統一されている。そこに個人は存在せず、村全体が一つの生き物のように感じられた。

 日陰の土はひんやりとして気持ちがいい。これが都会のコンクリートなら瞬く間に尻がボイルになってるだろうけどね。そんなくだらない事を考えながらぼうっと遠くの山を眺めていると、ベランダの窓ががらがらと開く音がして、村の住人がひょっこりと顔を出した。ベランダの窓の丁度真下に居た俺は、慌てて立ち上がるとすぐにその場から離れた。出てきた中年の女性はどうやらこれから洗濯物を干そうとしているようだ。俺は人の家の軒下で休んでいたことを謝罪しようと声を出しかけたが、すんでのところで止めた。

 主婦は俺の目の前で黙々と洗濯物をかけ続けている。大きな布団をベランダから垂らすと、物干し竿に家族の服やタオルなんかを丁寧に並べていく。まるで俺が存在しないかのように、だ。洗濯物を籠から取り出す時。はたまた干した洗濯物を整えている時。どう見ても目が合っている筈なのに、こちらを見つめる瞳には驚きも不快さもなかった。

 以前の職場は劣悪な労働環境から全員がおかしな目をしていた。他人を虫を見るような目で見る上司。過労で白目を剥いている同僚、濁った魚のような目をしてデスクに向かう後輩…。あの目はそのどれとも違う。その瞳の中に俺は一切存在していなかった。澄んだ目が伽藍堂の俺を通り抜けて遠くの山を見つめていた。

 俺は逃げるようにその場を後にすると、そのまま住宅街を急いで駆け抜けた。民家の前を通りすぎる度に頭上から幾度となく人の気配を感じたが、俺は一度も振り返る事はしなかった。


 住宅街を抜けても、周囲の景色はさほど変わらない。周りを囲む山々と、同じような田圃と畑だけ。等間隔で並ぶ傾いた電柱ですら恋しくなるほど何もなかった。

 強いて言えば道中に小さな祠とゴンドラ乗り場があるくらいか。祠には小さなお地蔵さんのような物が祀られていて、いつだったか源さんが起源を教えてくれたけどもうほとんど忘れてしまった。江戸時代に起きた大規模な飢饉を沈めるために作られたんだったか。いや、水害だったかな?とにかく古くからこの村を守っている有難いもの、らしい。でも、あそこの近くは誰もいないはずなのに何かの息遣いが聞こえる気がして苦手なんだよな。

 右手にある畑の更に奥、山との境界あたりに見えている白く四角い建物がゴンドラ乗り場だ。一応今でも使えるようだが、買い出しの時くらいしか目にする機会がないので、今のところ乗らずじまいだった。

 ゴンドラの終着点は俺の正面に見える山の上だ。白い平家の展望台で、ホテルとは丁度反対側の場所にある。山からはホテル同様リゾート地を一望できるし、冬は雪山でスキーも楽しめるはずだった。それが今となってはアスレチックと一緒で朽ちるのを待つだけの置物に成り下がってしまった。

 特にゴンドラを意識する事なく通り過ぎようとして、俺はふと違和感を覚えた。

「ぴっ…ぴっ…ぴっ…」「シュー…ハーッ…」「ゴウンゴウン…」

 その場で耳をすますと様々な音が折り重なって聞こえてくる。小動物の鳴き声のような、何かの機械音のような。

「スーッ…ハーッ…」「ぴっ…ぴっ…ぴっ」「キュルキュルキュルキュル」

 微かに音がする方に目を向けると、ゴンドラの機械がゆっくりと動き始めていた。

〈動くのか、あれ…〉

 メンテナンスとかしているのだろうか。降りて来るにつれて不自然なほどの揺れが起きている。

「スーッ…」「ガッ…ガッゴッガッ」

 激しい揺れが引き起こす金属の擦り合う音が俺の神経を逆撫でする。

(一体誰が…)

 確かめようにもここからではよく見えない。

「ぐっ…」

 突然後頭部に激痛が走った。後遺症だ。こんな時になんて空気の読めない…。俺はたまらずその場に大の字で仰向けになる。頭を何度も何度も地面に打ちつけられているみたいだ。

〈買い出しは…行けない…かもな…〉

 何とか顔を横に向けると、今まさにゴンドラが地面に激突しようとしている所だった。物凄い衝突音の後、衝撃で体が地面から大きく浮き上がる。

 遠のく意識の中で、ゴンドラの中に源さんを見た気がした。


「ねえ…」「…」

「ちょっと…」「…」

「聞いてるの、ねえって」

 …ここは夢の続きか。目の前に夢で見るあの女がいる。何でいつも起きた時に忘れてしまうんだろう。

「ああ、ごめんごめん。ぼーっとしちゃった」

 俺の口が勝手に喋り始める。

「それで?」顔の口角が自然と上がり、言葉を紡ぐ頃にはもう笑顔になっていた。

「あ、ええと。だから、明日は…」

 いつもと女の様子が違う。口を開けば愚痴しか言わないのがあの女のアイデンティティな筈なのに。

「勿論行くよ。君ならいつも通りやれば大丈夫」思ってもいない言葉が次から次へと口をつく。まるで操り人形にでもなった気分だ。

「ありがと。トムと話すとやっぱり元気でるね」

 女は頬を赤らめてそう言った。間近でみると女の美しさはやはり際立っていて、その潤んだ瞳で上目遣いに見つめられると、多少の性格の悪さなど許されてしまうだろう。

「よかった。でも、慈実はいつも沢山のプレッシャーに晒されてるんだから、僕といる時はもっと好きにしていいんだよ」

 この女、慈実と言うのか。どう考えても名前負けしていて、俺は意識の中で笑った。全く慈愛とは程遠い性格だ。だが、その名前、どこか聞き覚えがある。

「え、どういうこと?」

「もっと我儘でいいってこと。俺も自分の仕事で手一杯で中々手伝ってあげれてないから」

「ありがと。でもそんなこと言われたら私、調子に乗っちゃうかもね」

 そう言って彼女はくすりと笑った。

「はは、望むところさ」

 釣られてトムも笑う。

 思えば、そこから始まったのかもしれない。

 …何が?

 トムはただでさえ超が付くほどのブラック企業に勤めていた。会社の規模も殆ど同じだ。だから慈実のストレスが痛いほどわかった。だって、トムは優しいから。

 …思考が止まらない。文脈が勝手に頭に浮かんでは消えていく。

 慈実は死に物狂いの努力を続け、着実に出世の階段を登って行った。それもひとえにトムの支えがあってこそだ。

 …俺はさっきから1人で何を言っている?

 上に行くに従ってストレスも増える。期待、重圧、しがらみ、嫉み。性差別だって根強くある。最初は遠慮がちだったトムへの態度も次第にエスカレートしていった。最初は、戸惑いながら。次第に熱を帯びて。そしていつしか、それが当たり前になった。

 ……。

 受け止めるだけが優しさではなかったのかもしれない。分かち合うことも必要だったのかもしれない。間違っていれば、諭すことも…。

 それでも、俺は…。


 目を覚ますと、俺は道の真ん中に寝転んでいた。どうやらいつの間にか寝てしまったらしい。瞬きをしたら、一筋の涙が頬を伝った。俺は泣いていたのか。何か夢を見た気がする。いつものように、起きたら忘れてしまう夢。内容は思い出せないけど、今回は不思議と嫌な気持ちはしなかった。あれだけ無慈悲に俺を焼いた太陽も、今は柔らかな光で俺を包みこんでいた。

 仰向けのまましばらく何とはなしにゴンドラ乗り場を眺めていてが、にわかに自分の目的を思い出した俺は、慌てて飛び起きると無料販売所へと急いだ。

 無料販売所はプレハブ小屋のような簡素な造りの建物だった。中に入るとひんやりと冷たい空気が入り口に流れ込み、俺は思わず身震いをした。販売所の中は店というよりスーパーのバックヤードのようで、様々な商品が箱詰めされたままの状態で無造作におかれていた。俺はそれら一つ一つの中をあらためていき、1週間分の食料を次々にリュックに詰めていった。中身は大抵日持ちするレトルト食品やお菓子が中心になる。

 この買い出し用のリュック、どういう原理かわからないけど随分沢山入るし、それなのに重さもあまり感じないんだよなあ。

 ササキ親子と安樂夫妻は源さんが、詠人と鈴さんは俺が担当だった。いくらリュックが万能でも、流石に全員分の食料は入らないからね。勿論自分のものだって買わないといけない。

 俺が引っ越して来るまでは全て源さんがやっていたというから驚きだ。確かに雪山で倒れた俺を担いでホテルまで登って来れるくらいだから、不可能では無いのかもしれないが。

 詠人にはポテチやコーラを、鈴さんには甘いお菓子を多めに入れる。後はドライアイスを大量に詰めて裏道を駆け上るだけだ。ようやく先が見えたことで、俺の足にも力が入る。


 販売所を出てすぐの道で見覚えのない女とすれ違った。それなのにどこか引っかかる。ホテルの住民は入れ替わりが激しいから、新しい入居者だとしても不思議ではない。はて、何処かで会った事があったかしらと考えていると、不意に記憶の底から無数の場面が同時に蘇った。

「あっ…がっ」

 余りの情報量に俺は思わず頭を抱えてうずくまる。並行して瞼の裏に映し出されたものは、あの女の顔。顔。顔。現れては消えて、消えては現れて、早送りされては巻き戻る。

 「………そうだ」

〈俺は、あの女に会った事がある…〉

 涙と涎に塗れた顔で、俺は思わず呟いた。

 …いつかの雪山で。何処かの木の影で。遠くからこちらを覗いていたあの顔。俺だけじゃない。ササキ母だって会ったと話していた。あの女は実在する。それに、毎晩夢に見ていたのはこの女だったではないか!まさに記憶喪失から回復したような感覚。俺の自我は何とか保たれた。

 俺は慌てて女の後を追ったが、もう何処にもいなかった。ほんの数秒にも満たない記憶の本流が、女の存在まで呑み込んでしまったのか。

 あの女は俺を知っているようだったが、俺には身に覚えがない。いつも夢では付き合っていたようだが、就職してからは仕事が忙しすぎて彼女なんて出来たことがなかった。あの夢はてっきり俺の願望だと思っていたが…。

 ぽたぽたと足下に垂れる水滴で俺は我に返った。

「やばい、溶ける!」

 俺は全速力で来た道を戻ると、勢いそのままに草が繁茂した惑いの道を一心不乱に駆け登った。荷物を抱えしかも登りだというのに、俺はただの一度も疲労を感じぬままホテルにたどり着いた。到着までの体感時間はこれまでより更に短くなっていた。


 ホテルに戻った俺は自室に帰らずに、入り口正面にあるロビーの受付カウンターを右に折れると、卓球台を横目にそのまま一階の奥へと進んでいく。買い出しの日はやたらと歩かなければいけないから大変だ。明かりの消えたゲームコーナーを突っ切って、使われていない大浴場の暖簾を通り越した先が次の目的地だ。歩いても歩いても先は見えないほど長い。

 とにかくこのホテルは広いの一言に尽きる。世界中の観光客を呼び込むことを想定して建てられていて、客室は全35階でおおよそ1000室はあろうか。ゲームコーナーはその辺のゲームセンターと同じくらい種類があるし、大浴場など数えきれない程の風呂が広大な空間に所狭しと並べられている。それだけの宿泊客が利用するのだから当然といえば当然なのだが、一つ一つが広い分移動が大変で仕方がない。

「はあ…やっと着いた」

 俺は苛立ちを抑えながら何とか目的地へとたどり着いた。レストラン#夜湖__ヨミ__#だ。メッキのはげた両開きの白い扉を開けると、かび臭い匂いが俺の鼻腔をくすぐり、舞い上がった埃で思わずくしゃみがでた。これ以上良くないものを吸い込まないように手で鼻と口を覆いながら、俺はまっすぐ厨房へ向かった。テーブルの上に無造作に積み上げられた椅子は今にも崩れ落ちそうで、使うものがいないからこそその形を保っていた。オープンしていれば大パノラマとともに毎日豪華な料理がテーブルに次から次へと並び、宿泊客で賑わっていた事だろう。残念ながらそんな日は永遠に来ないまま、リゾート計画は頓挫したわけだけど。せっかくの景色も誰にもお披露目される事のないまま、今じゃ縦長の色褪せたカーテンに遮られてしまった。

 俺は散乱したシーツを踏み超えてそのまま厨房に入る。そこに目当てのもの、業務用の巨大な冷蔵庫があるのだ。人2人が余裕で入るほどの大きさだ。冷蔵庫特有のあのぶーんという音も、まるで芝刈り機の様にうるさかった。重い扉を開けるとひんやりとした冷気が俺を包み込む。こんな暑い日は中で寝たらさぞ気持ちいんだろうなあ。狭い箱に氷を詰められて置いておかれるよりよっぽど快適に違いない。

 冷蔵庫に全員分の食材を詰め終え、冷蔵でないものを横の棚に押し込むと、俺はまた長い距離を歩いてロビーまで戻らなければいけなかった。

 1週間ごとに買いに行くのは正直手間だったが、働いていない身としては決まった予定があるのはありがたい。毎日が休みだし、村としても決まったイベントは多くない。鎮魂祭なんかもあるようだが、そもそも村民じゃないと参加することもできないのだ。ホテルのみんなも毎日同じ事の繰り返しだ。俺も含めて基本的にロビーに集まってだらだらと贅沢に時間を使っている。

 源さんはお酒を飲みながら朗らかに。詠人は小説を書きながら毒を吐き。鈴さんは絵本を読みながら物静かに。安樂夫妻も毎日夕陽を見に山道を下っている。ササキ親子は…全然わからないけどまあいいか。彼らといる時間は居心地がいいけど、どうにも代わり映えしない。だから曜日感覚どころか、時間の感覚がなくなりそうにさえなってくる。ついこの間吐く息が白かったかと思えばもう雪解けで、ようやく春の匂いがしてきたかと思えばもう夏の日差しに焼かれていた。

 なので俺はそれを防ぐために時々ボランティアで仕事をしたり、毎日極力違う事をしようと心掛けている。

 時間に追われない生活はとても贅沢で、いつまでも夜染に居たいと思ってしまうけれど、きっとそれはよくない事だと思う。

 ブラック企業での残業にすり減らされた精神と、生死を彷徨う程の自損事故。その傷が癒えたかと問われたら答えるのは難しい。間違いなく良くはなっている。でも今だに後遺症は俺を苦しめている。精神的な病は目に見えず、治ったと思って無理をすると再びぶり返す事もザラだ。以前鈴さんが父親との対面で不安定になったように。

 みんなはどうなんだろう。あまり踏み込まないのがここの暗黙のルールだけど、それぞれきっと何かを抱えている。そんな彼らもいずれはここから出ていくのだろうか。


「トムさんお疲れ、買ってきてくれたんだ」

 ロビーには詠人しか居なかった。ご飯の時間でもないのに珍しい。

「暑いし遠いしで大変だったよ。詠人の好きなスナック菓子は買っといたから」

「おー、ありがと。てかなんか最近イライラしてない?トムさんらしくないね」

「え、そう?」

 いきなり言われても寝耳に水で、全く自覚がなかった。確かに最近あの女の夢のせいで寝起きが良くないし、記憶が頻繁にとんだりとあまり調子はよくない。いつも毒を吐く詠人に心配されるなんて、よっぽどなんだろうか。

「そうだよ。この半年で随分と考えが卑屈で穿った見方をするようになったよね。最初の頃の天使みたいなトムさんはどこへ行ったのやら。ま、自覚がないならいいけどさ」

「天使って何だよ。…あ、そういえば源さんって何処か行ってる?さっきゴンドラ乗り場でみたような気がしたんだけど」

 俺は何となく居心地が悪くなって話題を変えた。

「あー、この時期はちょっとね」

 珍しく詠人が言い淀んだ。

「この時期?何かあったっけ」

「トムさんここに来たの去年の秋でしょ?源さんはさ、夏は毎日展望台に通ってるよ」

 そうだ。長い長いリハビリを終え、スマホに偶然載っていた入居者募集広告を見て夜染村を知った。職場に辞表を出して、入居したのが去年の9月の事だ。入院中に俺の心配をしに来た奴なんて1人もいなかったし、単純に人員が一減して自分の負担が増える事をみなが迷惑がっているのが見てとれた。

 もう8月だ。早いものであれから一年が経とうとしている。7月で俺も33歳になった。運命を感じて入居を決断した32階の106号室も、もう今では過去のものになってしまった。近々役場に33階の106号室が空いているか問い合わせてみないとな。

「もしもーし、聞いてる?最近ぼーっとすることも増えたよね。そんなんで仕事復帰なんてできるの?」

 詠人の声で俺は我に帰る。

「あ、ごめんごめん。何だっけ?」

「ま、いいけどさ別に。それじゃトムさん買ってきてくれたお菓子でも見に行くかなー」

 詠人は珍しく鼻唄混じりにその場を去って行った。1人取り残された俺は、誰もいないロビーで改めて考える。

「仕事復帰かあ…」

 急に倒れたりするようじゃ復帰なんて夢のまた夢だよな。この症状はいつまで続くのか。医師から具体的な病名は言われていないが、おそらく激しく頭を打ち付けたことで脳に何らかの損傷が発生しているに違いない。高次脳機能障害というやつかもしれない。果たして脳の損傷というのは時間と共に回復するものなのか。

 何となく目を背けていた現実を突きつけられて、俺はその場で1人途方に暮れる。黙っていても言いようのない不安が襲ってきて、俺は硬く目を瞑る。

「ぴっ…ぴっ…ぴっ…」

「シューッ…ハーッ」

「チチチチチチチチチチ」

 近くで小動物が鳴いている。以前のようにまたホテルにリスでも迷い込んだのだろうか。黙っていると、段々と獣の気配が色濃くなってくる。何かが俺を囲んでいる。それも、一体ではなく複数。俺を取り囲むようにして生暖かい息がかかるが、何となく目は開けない方がいい気がした。死んだふりと一緒だ。目を開けたら最後、待ってましたとばかりに骨まで食い散らかされる。いや、死んだふりは逆に死ぬんだったけ?迷ったまま息を潜めてしばらくそうしているうちに、俺は再び眠りに落ちていた。


「お疲れ様、トム」

「おつかれ、慈実」

 #夢の中で目を覚ますと__・__#、そこは何処かの個室だった。テーブルには何かのコース料理が所狭しと並べられている。

「ねえ、聞いてよトム。今日も仕事でさ」

 彼女は席につくなり堰を切ったように話し出した。よほど腹に溜まっていたものがあったらしい。

「責任を取りたくないから面倒ごとはいつも私に押しつけるくせに、手柄だけは横取りして…」

「俺が面倒見てるって周りへのアピールもホント嫌」

「女だからって下に見て…。いつか追い抜いて鼻で笑ってやる」

 トムは黙って彼女の話に相槌を打っている。何か言いたくても、夢の中の俺に出来ることは一つもないのだ。それをいいことに彼女の愚痴は止まることを知らない。満遍なく料理に手をつけながら、それでいて会話も途切れさせる事がなく、かといって行儀が悪い訳でもない。器用な女だ。夢での印象が悪すぎてついつい忘れそうになるが、元がしおらしい性格だ。きっと育ちが良いのだろう。

「それよりもこの間のプレゼン資料、手直しありがと。トムだって忙しいのにごめんね」

 この頃もまだかろうじて謝罪の気持ちはあったらしい。

「気にしない気にしない。俺もこうやって慈実からパワーを貰ってるんだし、お互い様だよ」

 彼女はさしずめ大企業のキャリア組と言ったところか。女性という事もあり、何かとストレスが多いのだろう。悲しいかな、世界はまだまだ偏見に塗れている。

 前に見た夢で「もっと我儘でいい」と言ったからか、彼女の中で俺への遠慮や恥じらいがなくなってきているようだ。段々とあの自分勝手な女に近づいてきている。

「ありがと。ホント、嫌になったら言ってね。私調子乗りすぎちゃうから」

 そろそろ抑えないと大変なことになるぞと心の中で思うが、実際に口に出すことは出来ない。

「全然大丈夫だよ。寧ろもっと発散させたっていいくらいさ」

 相変わらず呑気だなあ。これからお前は毎日毎日夢でうんざりする程発散させられるんだぞ?

 そうやってお前が何でも笑って許しているから。

「あんな事になるんだよ」

「え?」

「え」

 突然思っていたことが口にだせるようになった。理由はよくわからないが、戸惑う彼女を他所に俺はここぞとばかりに今まで溜まっていた鬱憤を言葉にして晴らした。

「確かに俺がもっと我儘で良いって言ったさ。でも、物事には限度ってものがあるだろう」

「え、どうしたの急に」

 彼女の慌てふためく様は少しばかり痛快だった。

「俺が毎日夜中まで残業してる事は知ってるよね?それなのに連日遅くまで呼びつけて…」

 俺は彼女に構うことなく尚も話し続ける。

「毎日仕事でぼろぼろになって身も心も削る生活を続けて、帰宅すれば時間も場所も関係なくお前から呼び出される」

「何、何なのその話。呼び出しって?」

 違う。これは今まで俺が見ていた夢の話だ。夜染に来る前から毎日見続けている夢。目の前の女は、まだその状態になっていない。

「これからお前の行動がエスカレートして、俺が休まる時間は一切なくなるんだ」

「待ってよ、さっきからいったい何を言ってるの?全く意味がわからないよ!そもそもあなたは誰なの!?トムはそんな事絶対に言わない!」

 いや、待てよ。そもそも俺に彼女なんていないじゃないか。これはただの夢だ。繰り返し見るだけの、慣れ親しんだ虚構。

「そんな事だから俺が自損事故を起こすんだよ」

 違う。ただ仕事の過労で自分から突っ込んだだけだ。当時の俺は家と会社を往復する生活しかしていなかった。夢と現実がごちゃまぜになっている。

「お前なんて存在しないんだよ」

 俺が冷たく言い放つと、彼女は何も言わずにとても寂しそうな顔でこちらを見つめていた。


「おい、とむう。そんなとこで寝てると風邪ひくぜえ」

「うあ…」

 顔を上げると視界の先で源さんが覗いていた。浅黒い肌をした強面の男が見下ろす様は、初見では恐怖でパニックになってもおかしくないほどだ。

「んーっ。…また寝ちゃってたか。おはよう源さん」

 最近どうにも体の調子が悪い。大きな発作こそないけれど、頻繁に頭痛や睡魔に襲われて、1日に何度も意識が飛んでしまうのだ。

「おう、おはよう。つってももう昼過ぎだけどな。がははははっ」

 源さんはそう言って見た目どおり豪快に笑った。

源さんの定位置であるテーブルを一瞥すると、珍しくお酒の類は一切乗っていなかった。よく見たら顔も赤くなっていない。

「あれ、源さんもしかしてお酒のストック切らしちゃってる?さっき買い出し行ってきたから、一本くらい買ってくればよかったか」

「あーそうじゃねえんだ。今日はちょっとなあ」

 源さんにしては珍しく歯切れの悪い返答だった。


「ゲンおじさーん!」

 ロビーにエレベーターが到着して、扉が開くなりササキ息子が勢いよく駆け出してきて、源さんの胸に勢いよく飛び込んだ。

「おおぼうず、今日も元気だなあ」

 恐竜がプリントされたTシャツ短パン姿のササキ息子は、帽子が落ちんばかりに何度も飛び跳ねている。

「おはようございます、源さん。今日はよろしくお願いしますね」

 見たこともないメーカーのTシャツを着たササキ母が、遅れて源さんに挨拶をした。

「おう、任せとけえ。今日はいい天気だから景色がいいぞお」

「うわあああい!今日はテッペン光るかな!?」

 ササキ息子と和かに戯れるその姿は、祖父と孫の関係を思わせた。

「あら、トムさんもこんにちは。もしかして一緒に行くんですか?」

 ササキ母が今気づいたとばかりに俺に話しかける。

「え?いや、俺はたまたまここにいるだけで…」

「とむう、水くさいぜ。酒も飲まずに俺が何処行くか気になってんだろお?一緒にどうだ」

「あー…源さんにはお見通しだったか。ならお言葉に甘えさせてもらおうかな」

「ふふ、トムさんも一緒なら楽しいハイキングになりそうですね!さながら擬似家族といったところでしょうか。トムさんはお父さん、源さんはおじいちゃんですかね。うわあ、私柄にもなくテンション上がってきました!だって産まれてこの方そんな状況になったことがないんですから!そう、あれは忘れもしない…」

 こうして、奇妙な4人での旅が始まった。山を降りる時はやはりあの惑いの道を使うようだった。まさかこの道を1日で4度通る事になるとは…。

「ここから山を降りてロープウェイ乗り場まで向かうからよ、はぐれんじゃねえぞお」

 そう言って先陣を切った源さんが豪快に藪の中へ分け入った。真夏なのに上下長袖の作業着なんて、熱中症とか色々大丈夫なんだろうか。

「僕、こんな道へっちゃらだよ!」

「あまりはしゃいだら怪我するから気をつけてね。転ぶだけじゃなくて草で足が切れることもあるんだから。スパッとね。そこから知らず知らずのうちにばい菌が…」

 ササキ親子が勢いよくそれに続く。この藪は切れそうで案外切れない。きっと葉が柔らかいのだろう。ヒルのような変な虫に噛まれたりすることも無いし、見た目に反して安全な道ではある。

 最後に俺がみんなの後を追う形になった。2人が踏み倒したはずの道がもう見えなくなっている。気にせず藪の中に分け入るが、背の高さほどもある薮がすぐに自分の体を覆い尽くしてしまう。

 いきなりみんなを見失ってしまった。ほんの少し先に行っただけなのに、周囲の藪に踏み倒された後は見られない。いきなり迷ったのか、俺。

「おーい」

 呼びかけても答えは返ってこない。改めて辺りを見回すと、背丈ほどもある薮が風もないのに揺れている。何かがいるような気がする。多分、源さんたちではない何かが。それも、取り囲むように。ほらそこにも。そこにも。あそこにも。

「いいーあっ!ぎゅいぎゅいぎゅい」

 近くの薮から黒い影が飛び去った。遅れて足元を何かが這いずり回る。そういえば、ここは#惑いの道__・__#だったな。ここに長くいるのは良くない。

 俺は彼らの捜索を諦めると、カンを頼りに山を急いで降りる事にした。最悪ロープウェイ乗り場まで一人で向かえばいい。

「あはははは」「うふふふふ」「がはははは」

 歩いていると、藪の中で時折みんなの笑い声が響く。声のする方に耳を澄ませても、まるで天から降りてきたように声が全方位から聞こえてきて、音の出どころが全くわからなかった。空を見上げると、藪の中で太陽だけが俺を見つめていて、自分が小人になったと錯覚させられる。

「おれあダメな父親よ…」

 五里霧中で彷徨っていると、風が源さんの声を運んできた。相変わらず姿は見えない。すぐそこに居る気がするし、そうかと思えば遠くで気配を感じたりもする。

「毎日毎日飲んだくれて…イライラしては…女房とガキぶん殴ってよお…」

 抑揚のない無機質な声だ。そこからは悔恨の意志は感じられない。

「私もそうです。あのひとの暴力から逃れるように、この子を連れて転々と…」

 ざざざざざ。

 風なのか、小動物なのか。声が聞こえてくる度に近くで草が凪ぐ。

「挙句の果てにこれだもなあ。それなのに今も…」

「この子には辛く当たってしまいました。誰も頼れる人がいなくて、気持ちの余裕もなくて…」

 ざあああああああ。

 さっきから葉のざわめきが邪魔をして、最後まで聞き取れない。何か大事な事を言っているはずなのに。

「慈実は、本当に頑張ってる」

 良く知った声が聞こえてきた。

〈…これは、まさか〉

「私は、トムに甘え過ぎてたのかな?」

 ざわざわざわざわ。

〈また夢を見ているのか?もういいよ、夢の中は…〉

「ぎいっ!」

 俺はいい加減うんざりして両目に指を突っ込んだが、鋭い痛みに思わず声が出た。

「そんなことない」

「そんなことない…ってトムならいうんだろうね」

〈夢じゃないなら、ここに居る俺は誰なんだ?〉

 ざあああああああああああああ。

 頭の中に突如砂嵐が巻き起こる。それは一瞬俺の視界を覆い隠し、晴れると俺は1人ブラウン管の古ぼけたテレビと向き合っていた。テレビにはドラマが映し出され、俺は画面に釘付けになる。


「ああああああああ、うるせえうるせえうるせえ!」

 物が散乱したリビングで、作業着姿の男が1人拳を叩いて叫んでいる。酔っているのか、激しい動きとは裏腹に何処か目が虚だった。

「どいつもこいつも俺の事馬鹿にしやがって…」

 濁った頭の中では過去と未来が混融し、昔の記憶が何度も反芻されていた。

 母子家庭だった男に進学する余裕はなく、中学を卒業して間もなく働きに出た。金だけでなく、単純に家にいたくなかった。

ーあんたさ、今日はテキトーにどっか行ってて。上客なんだよ。邪魔したら殺すから。

母親は水商売で、取っ替え引っ替え男を漁り、自分の息子の事には無関心だったからだ。 

ーあたしにガキなんていないよ。そんな事より早くやろうよ。

 それから長い年月が経ち、男は家を出た時の母の年齢を越えた。母との交流は断絶していたが、風の噂で肝臓を壊して死んだと聞いた。

 男の転職回数は二桁をゆうに超えていた。男は忍耐というものを知らず、職を転々として長続きしなかった。心では否定しても、魂には母の呪いが刻みついている。

「んだよ…」

 一升瓶を瞬く間に空にした男は、ふらつく足取りで冷蔵庫に向かった。破れたカーテンの隙間から街灯の灯りが床を微かに照らしている。公共料金を滞納しているせいで、電気が止められているのだ。勿論ガスや水道も使えない。散らばったコンビニ弁当や酒瓶に足を取られ、その度にイライラが募って物にあたる。

「馬鹿にすんじゃねええ!」

 男は穴だらけの壁を殴りつけた。部屋に鈍い音が響き、壁に新しい穴が開いた。

 逞しい体に強面の顔なので勘違いされがちだったが、男は普段大人しかった。だが、その反動からか酒癖が悪く、毎晩日本酒を大量に飲んでは見界なく暴れまわった。仕事のストレスは尽きることなく湧いてくる。学のない男は年下からは馬鹿にされ、年上には詰られる。カッとなって手を出して、解雇されての繰り返し。

 やっとの思いで冷蔵庫までたどり着くと、男は縋るように中をあける。けれどもそこは空っぽで、まるで男の歩んできた人生そのものだった。それを嘲笑うようにシンクに積み上げられた食器が音を立てて崩れ落ちた。

 酒瓶を持つ手に力が入り、みしりと何かが軋む音がした。男の視線が奥の部屋へと向かう。

「おい。おいおいおいおいおい!」

 こんな男にも家族がいた。妻1人子1人だ。男は小さい頃から貧乏だが笑顔の絶えない、そんな幸せな家庭に誰よりも憧れてきた。父ではない男たちにおもちゃにされ殴られ、母からはただただ疎まれる。幼少期に自立を余儀なくさせられた男は、幼いながらに自分は親のようにはなるまいと決心した。だが現実は…。

 男が奥の襖に手をかけようとした時、猛烈な睡魔に襲われてその場に倒れ込んだ。体を起こそうにも力が入らない。何とか立ちあがろうと手を伸ばすが、上げた手は無残にも崩れ落ちた。

〈薬でも、盛られたか?〉

 男は朦朧とした意識の中で一つの結論を導き出す。真実は別として、今まで男が家族にしてきたことを考えれば、ある意味当然の帰結だった。

 男は手をあげる以外の表現方法を知らなかったし、話し合っても思い通りにならなければすぐに力でモノを言わせた。幸か不幸かそれが可能な恵まれた肉体もあった。母や母の彼氏達は、話し合いや我慢なんてこれっぽっちも教えてくれやしない。貰ったものは血と暴力と世界の理不尽さだけだ。

〈やられる前に、殺してやる…!〉

 男は再び拳に力を込めたが、燃え上がる怒りも男の体を動かす事は出来なかった。

ーねえ、もう昼間からお酒ばっかり飲むのやめてよ!そんなんだから仕事が続かないんだよ!せめてちゃんと働いて…。痛っ!うぐっ…。やめてやめてごめんなさいやめて。

 結局、男は母親の行動をなぞるしかなかった。壁にぶつかった時、頼れるのは酒と母親の影だけだ。時折自責の念に苛まれることもあったが、気づいたら泥酔して朝を迎えていた。酒はあらゆるものを忘れさせ、鈍らせてくれる。理性や痛み、苦しみや死でさえも。

〈ゆる…さ…ねえ…〉

 男の殺意すらも、酩酊する意識の奔流に飲み込まれて消えていく。


 草臥れたアパートの一室で母親と男の子が小さく肩を寄せ合って震えている。

「…ねえええええ」

 リビングでは男が何事かを叫びながら暴れていた。

 実の父親からD Vを受けて育った女は、小さい頃から母に連れられてシェルターを転々としてきた。役場の住民票には今も開示制限がかけられていて、ある時点からは届出すら止めた。

 不思議なもので、好きになった男からは大抵D Vを受けた。勿論女にはそれを喜ぶ趣味などない。一見すると粗暴な人間には見えないのに、付き合って少し経つとみな本性を表すのだ。

「ああああ!」

 声が少しずつ近づいている。真っ直ぐにこちらに来ないのは泥酔しているからだろう。

「お母さん…」

 母親は擦り寄ってくる我が子を強く抱きしめる。2人の体には青あざが絶えず、その痛々しい傷を見るたびに、母親として我が子を守れない罪の意識に苛まれるのだった。

「おいおいおい」

 大きな音がして、部屋全体が揺れる。きっと部屋にはまた一つ穴が増えている事だろう。家中にぽっかりと空いた穴は何処までも黒く、ともすれば魂まで吸い込まれてしまいそうになる。音がするたびに心臓を鷲掴みにされているような苦しみが女を襲う。

 それでも女が男から離れられないのは、誰かに依存しなければ生きていけない体質だからだ。子どもが居ても寂しさが女を支配し、ちょっと優しくしてくれたらもう頼らずにはいられなかった。女は愛情に飢えていた。母はかなり前に肝臓を壊して死んでいた。

「ぐうっ」

 小さな呻き声の後、どさりと大きな音が聞こえた。何かを殴った音ではない。それっきり、部屋は静寂に包まれた。

〈まさか、泥酔して眠った…?〉

 母親と子どもは顔を見合わせる。男は一度酒を口にすると朝まで飲み続け、翌日ふらふらになりながら何処かへ出掛けていくのが日課だった。今まで飲んでいる途中で潰れて寝た事は一度たりともない。

 今すぐ様子を見に行きたかったが、直ぐに確かめるのが怖くて、しばらく布団を被りながらじっと聞き耳を立てていた。もし起きていたら、男の気が済むまで殴られる。

 だが、しばらくしても一向に音がする気配はない。母親は男の子にそのまま隠れているよう言い聞かせると、男のいるリビングの扉を恐る恐る開けた。

 隙間から覗いていたのは男の足だ。ピクリとも動かない。どうやら本当に寝ているようだった。

 母親がほっと胸を撫で下ろして部屋に戻ると、男の子は声を押し殺しながら泣いていた。毎日毎日男に怯える日々で、泣く事さえ満足にできない。2人の精神はもう限界だった。

「うっ…うっ…ぐうっ。ひっく…」

「大丈夫…大丈夫。お母さんがいるから…」

 いつものように、男の子を落ち着かせるために母親が強く抱きしめると、男の子が同じようにキツく抱きしめ返してきた。

「え…」

 それは、初めての事だった。いつも泣いて怯えているだけだった男の子が、震えていた母親を励ます為に自ら考えて行動したのだ。小さく不安定だけれど、そこには確かに意志と温もりがあった。自分は1人ではない。

 母親は意を決して立ち上がると、うつ伏せで寝ている男を起こさないように台所まで行き、包丁を持ち出した。

 こんなチャンスはもう二度と来ないかもしれない。もう、こんな男に頼らなくても、生きていける。子どもと二人、手を取り合って、懸命に。

「ふーっ…」 

 例えうつ伏せで顔は見えなくとも、男の近くに行くだけで動悸が止まらない。身体中から嫌な汗が噴き出て、何もかも投げ捨ててこの場から逃げ去りたくなる。

 それでも。母親は部屋の向こうにいる我が子の姿を想像する。もうあの子にこんな思いをさせるのは沢山だ。もう後戻りはできない。母親は寝ている男に向かって包丁を振り下ろした。


 雨の降る夜に男が車を走らせていた。街灯に照らされた男の顔は青白く、生気が感じられなかった。

「ねえ、もっとスピードだしてよ。周りに車いないでしょ」

 隣にいる女は酷く不機嫌そうにそう言った。

「この道はカーブも多いから危ないよ」

 男は諭すようにそう言った。崖の間を蛇行するその道は、高低差もあり対向車が見えにくい。申し訳程度に設置されたガードレールの下には、今か今かと真っ黒い海が口を開けて落ちてくるものを待っていた。

「そんなの関係ないでしょ。ドライブしてるくせに、自信ないの?もっと気持ち良くさせてよ」

 男は苦笑すると、少しだけアクセルを強く踏んだ。年代物の乗用車が車体を震わせて場違いな程大きな音を立て、少し遅れて加速を始める。

「それで、今日はどちらまで?」

「私の気の済むまで」

 女はそっけなくそう答えると、すぐに目を瞑った。

「かしこまりました」

 男は口角を無理やり上げて笑顔を作り出す。少し額が汗ばんでいるだろうか。助手席の女に男を気遣う素振りは見られない。

 しばらく快調に飛ばしていた男だったが、途中で異変が起こる。蛇行運転を繰り返した後、少しずつ車が対向車線にはみ出し始めたのだ。睡魔なのか、はたまた急病なのか、男はハンドルにもたれ掛かるようにして突っ伏している。女は相変わらず目を閉じたままで、自分の置かれた状況に気づいていないようだ。

「トム」

「…ねえ」

「トムって」

「はあ…。呼ばれたらすぐ返事してよ」

 そこで女はようやく薄目を開けたが、時すでに遅し。遂には車体が大きく車線をはみ出した!

「え、ちょっと!前っ!」

 女が叫んだ時にはもう車はガードレールを突き破り、転がりながら崖の下へと落ちていった。

「うっ。うっ!ぐう、げえっ」

 フロントガラス、天井、ハンドル、ダッシュボード。2人は落下の衝撃に合わせて幾度となく車内に叩きつけられる。

 何度目かの激突で粉々になったフロントガラスから、シートベルトをしていなかった女が先に車外へ投げ出された。

「…」

 朦朧とした意識の中で、男はただそれを見送ることしか出来なかった。


 気がつくと、男の体は海の中を漂っていた。〈変だな、俺は崖から落ちたはずじゃあ…〉

そのまま仰向けになると、遠くでゆらゆらと陽光が揺れているのがわかる。海中から空を見上げるのは不思議な感覚だった。海の中は丁度良い暖かさで、心底居心地が良かった。

 何処か海外のリゾート地を思わせる、エメラルドブルーのとても澄んだ海だった。男は向きを変えると、背丈ほどもある海藻や珊瑚の間を縫って海の底まで泳いでいく。

 そこには先客がいて、苦悶の表情を浮かべた大男が辺りを赤く染めながら必死にもがいていた。  そこから少し離れた場所では、若い母子が身を寄せ合って海藻の影に隠れながら、大男の様子を伺っている。その視線に気づいた大男は、怒りの形相で何事かを叫びながら母子へ向かっていくが、途中で力尽きたのか、今は両手両足をだらしなく伸ばしたままくの字になって漂っている。

 男は先に投げ出された女をあちこち探したが、何処にも見当たらなかった。もしかしたら崖の途中で引っかかって海に落ちないで済んだのかもしれない。

 ふと我にかえると、元いた場所から随分離れたている事に気づく。いつの間にか大男も母子も見えなくなっていて、男はだだっ広い海の中に一人取り残されてしまった。雲が太陽を攫ったせいで、海の中が少しずつ暗くなっていき、男は急に心細さを感じた。それと同時に、息苦しさと圧迫感が男を襲う。急いで海から浮上しようと懸命に足をばたつかせるが、一向に終わりは見えてこない。

〈そんなに深く潜ったのか…?〉

 辺りを見回しても、人間はおろか生物の痕跡すら感じられない。暗い海は夜と同じだ。どこまでいっても黒しかない。

「……………!」

 男は発狂しそうになって大声で叫んだが、音ですらも広大な暗海に飲み込まれて消えてしまう。

 不安が焦燥に変わり、それが次第に恐怖へと変わる頃、少し先の方に一筋の光が射しこんだ。もしかしたら救助の船かヘリコプターかもしれない。男は逸る気持ちを抑えきれず光に向かって泳ぎ出した。気づけばいつの間にか男の周りには名も知らない色とりどりの魚たちが集まってきていて、男を中心とした巨大な魚群が形成されていく。光に近づくにつれて海は暗い海底から元の透き通った海へと様変わりし、熱帯魚や珊瑚、エイやクラゲが男を優しく出迎えた。男はその賑やかな光景に思わず笑顔になる。

 光は辺り一帯に広がっていて、男の体も心地よい眩しさと不思議な暖かさに包まれた。何故だかわからないのに涙が溢れてきて、雫が海の中へ溶けては消えていく。まるで母親のお腹の中にいるように、男は体を丸めてその光に身を委ねた。

 どのくらいそうしていただろうか。不意に柔らかな光が輝きを増し、男は眩しさに思わず薄目を開けた。光の先には女の子がいて、どうやらあの光は手にした提灯から射しているようだった。眩しさで顔はよく見えなかったが、口元が笑っているのがわかる。

 女の子は男に向かって手招きをしていて、男はその動きに強烈に引き寄せられる。

〈ああ、ここだったんだ…〉

 終わりのない仕事も、女との関係も、先の見えない恐怖すらも、全てを忘れて男は差し伸べられた手を取った。


「おい、そろそろ着くぜトムう」

 源さんの声で目を覚ますと、俺はいつの間にか錆びて赤茶けた内壁に体をもたれかけてロープウェイに揺られていた。

「おはようございますトムさん、よく寝てましたね」

「あ…ああ、おはよう…ございます」

〈…いつの間に乗ったんだろう〉

 窓の外を覗くと、新緑の山々がいつもと違った角度からこちらを見つめていた。

 古ぼけた車内はジリジリと照りつける直射日光を浴びてサウナのようで、俺はたまらず窓を開けた。金属の擦り合う嫌な音がして、俺は思わず目を顰める。途端に生温い風が隙間からぬるりと滑り込んできて、俺はより一層不快になった。

「くーっ。今日もアチいなぁ」

「本当に最近暑いのが続きますね。大丈夫?喉乾いてない?」

「僕は大丈夫!」

 ぼんやりと3人の会話する様を眺めていると、俺以外全く汗をかいていない事に気づく。この村に長くいると、俺もこのまとわりつくような暑さにも慣れるんだろうか。

「ついたあ!ねえねえ、早く行こうよ!」

 ガタガタと激しい音を立て、ロープウェイが止まった。何故俺はここにいるのか。その疑問を聞けない内に源さんもササキ親子も降りる準備を始めていた。

「ぼうず、慌てんじゃねえぞお。山は逃げねえんだからな!」

「あ!こら、待ちなさい、先に行かないの!」

 3人が慌ただしくロープウェイを去り、俺は車内に取り残される。

「また夢、か…」

 ただでさえ後遺症でいつ倒れるかわからないのに、今度は夢遊病。いい加減自分の体が嫌になる。

これが漫画や小説ならいい加減読書も飽きてくるしつこさだ。

「おいてくぞおトムう」

 遠くで源さんの呼ぶ声がした。

「ごめん、今行く!」

 慌てて立ち上がると固い緑色のシートに座っていたせいか、尻が痺れて上手く立てない。その痺れは直ぐに全身に広がって、強烈な痛みへと変わった。

「んぐっ…!う…」

 思わずその場に膝をつく。後遺症の頭痛に勝るとも劣らない痛みだ。ついさっき転落する夢を見たせいかもしれない。妙にリアルで、ともすれば呼吸するだけで体がバラバラに引き裂かれてしまいそうだった。しばしの深呼吸の後、俺は四散した体を手繰り寄せると、何とか足を引き摺りながら彼らの後を追うのだった。


 俺は木陰から夜染村を眺めていた。風が冷たくて気持ちがいい。高所からの景色はいつもホテルから見ているけど、反対側からだとまた違って見えて新鮮だった。

 今日の旅の終着点は、ロープウェイの先にあるこの見晴台だった。なぜ理由はわからないけど、子連れなら走り回れるし景色もいいし、楽しめるのかもしれないな。

 ロープウェイを降りてすぐに展望デッキがあるのだが、全く手入れされてないらしく、使うことは出来なかった。中は殺風景で、腰掛けるための椅子すら置いていなかった。床の角や窓枠には埃が溜まっていて、生活感がまるでないのだ。雨風で窓ガラスが茶色く汚れていて、開けようにも錆び付いて動かなかった。

「あ、リスだ!待て待て~!」

「ピッピッピッ…」

「あんまり際まで行かないでね。山は危険がいっぱいなんだから。滑り落ちて転がりでもしたら、身体中打ちつけられてそのまま海の底までドボン…。こら、もう、言ってる側から…待ちなさい!」

 少し先でササキ親子の楽しそうな声が聞こえて来る。

「おーい、怪我すんじゃねえぞお」

 俺の隣でくつろぐ源さんは、はしゃぐ親子の様子を暖かく見守っている。

「トムよお、もうお前が来て一年か。早いもんだなあ」

「そうだね、長いようであっという間だったよ」

 俺は源さんとのこれまでの日々を思い出す。その大半はロビーで飲んだくれた源さんとそれに文句を言う詠人との、3人でのたわいもない雑談の様子だったが、10年間人と会話らしい会話をしてこなかった俺にとって、それはかけがえのないほど濃密な時間だった。

 それに、普段は飲んだくれてても、源さんはいざという時頼りになる。急に倒れる俺のことを何度も助けてくれて、一度なんて雪山で倒れたおれをホテルまで担いで登ってきてくれて、命を救われたことだってある。

「なあ、源さん。…さっき、声が聞こえてさ」

「どしたあ急に」

 俺は迷いながらも惑いの道での一部始終を源さんに話した。あの時聞こえてきた声と、夢に出てきた男。俺の中の源さん像とは一致しないけど、どうしても無関係には思えなかったからだ。これまでも後遺症で倒れた時にリアルな映像を見る事がよくあったけど、どれも真偽の程は確かめようがなかった。

「ああ、そりゃ#あの道の仕業__・__#だなあ。心が迷ってるとそこにつけこまれんのよ」

 源さんは話の中身など意に介さずに笑った。

「なんだ。じゃあ全て俺の妄想って事?」

 あの声は、それにしては酷く生々しかったように思う。

「お前があそこで何聞いたか知らないけどよ、真っ当な人間なら毎日こんなとこで飲んだくれてねえよ」

 そう話す源さんの顔は、一転してどこか悲しそうに見えた。

「源さん…。あのさ、俺、夢で…」

「ギュイイイイイウ」

「やった!お母さん、捕まえられたよ!」

 俺と源さんの会話を遮るように、突如として甲高い鳴き声が辺りに響く。それに負けじとササキ息子が同じくらい甲高い声で叫んだ。

「え、うそ、凄い!捕まえるのが難しい鳥なのに。認識を阻害する黒いフォルムに特徴的な泣き声、これは影鳥で間違いないよ。あれ、ちょっと待って。もしかして居なくなってない?どこに行ったの?あ、今影が…」

「あーー!逃げられたああああ」

 2人の底抜けに明るい掛け合いを見ていると、何だかあの道での出来事もどうでもよく思えてきた。

「だっはっはっはあ!面白えなあ、あいつら。おおい、あんまり奥にいくなよおお」

 目の前で楽しそうに遊ぶササキ親子も、それを見守る源さんも、側から見ればまるで本当の親子のようだった。

「元気だなあ」

 自分にもあんな時代があったなんて信じられないな。

「なーに言ってんだ、ガキはあれくらいじゃねえと。トムよお、俺から見ればお前もまだまだケツの青いガキなんだぜ?」

「はは、源さんには敵わないなあ」

 33歳の男をガキ扱いとは恐れ入る。まあ、源さんは何でも笑って許してくれそうな余裕があるんだよな。

「お前はちいとばかし大人しすぎんのよ。もっと自分をさらけ出さねえとよ」

「そうかな?」

 特に人見知りとかでもないし、遠慮してるつもりもなかったけど。でも思い返すと働いてからはほとんど人付き合いをしてなかったから、知らず知らず壁でも作っていたのかもしれないな。

「そうだあ」

 そこで会話が途切れて、しばらく沈黙の時間が続いた。ササキ親子は相変わらず夢中で小動物を追いかけまわしている。遠くに目を向けるとヘブンズロード夜染が圧倒的な存在感で屹立していて、太陽の光を一身に受け、光の塔のように輝いて見えた。名は体を表すとは正にこの事で、正に天にも届く勢いだった。

「なあ。あれ、何に見える?」

 徐に源さんが立ち上がると、遠くの方を指差してそう言った。源さんの指差す先には夜染役場がある。上から見るとその存在はより一層周囲から浮いてみえる。

「え、なんだろ」

 急なことですぐに答えが思い浮かばない。何に見えるかなんて考えたこともなかった。周囲の緑からあえて外れた黒い箱型の異物。横からも上からも同じ景色の立方体。

 俺の答えを待っているのか、源さんは何も言わずに黙って役場を見つめている。

「うーん。そうだな…。強いて言うなら棺桶…かな?何となく形とか色的に」

 ドラキュラが古城で眠るように、あの黒い箱の中には蓑虫人間達が眠っていて…。そんなイメージが違和感なく頭の中に浮かんでくる。

「そうかあ。そんな感じだよなあ」

 源さんはそれだけ言うと、役場に向けて静かに手を合わせた。俺はその意図がわからなくて、とりあえず源さんに倣って手を合わせる。

 しばらくして目を開けると、源さんはまだ祈ったままだった。よく見ると頬が涙で濡れている。

「墓、作ってやる事もできなくてよ」

 源さんが誰にともなくそう呟いた。その声は何か押し殺すように小さく、少し震えていた。

「墓…」

〈…ああ、そっか〉

 俺はその言葉でようやく得心がいった。なぜササキ親子と源さんが山登りをしているのかを。多分源さんにとってあの夜染役場は墓標なんだ。

 ー毎年この時期はね。

 詠人の言葉が蘇る。毎年ここで手を合わせているということは、お墓を作れないとか、地元に帰れないとか、余程の事情があるのだろう。それでもこうやって墓に見立てて手を合わせるのは、死者を思い続けている証拠だ。それは立派な墓参りだし、手を合わせたならば、例えそれが罪人だろうと死者を悼む気持ちは等しく同じだ。ササキ親子を連れて行くのも、源さんなりに妻や子どもの事を思っているからかもしれない。

 目の前で涙を流しながら真剣に手を合わせる源さんは、少なくとも俺には良い父親に見えた。

「さあて、そろそろ行くかあ。トム、付き合わせて悪かったな」

「全然大丈夫だよ、源さん。こちらこそありがとう」

「あん?何がだ?」

 源さんがきょとんとした顔でこちらを見つめる。

「いつも助けてくれてさ。夜染に来てからたった一年だけど、源さんには本当に感謝してる」

「おいおいどうした急に。照れるじゃねえの」

 源さんは気恥ずかしそうに目を逸らした。

「こういう時になんて言ったらいいかわからないけど…。俺にとって、源さんは源さんだよ。ちょっと強面だけど、いつも優しく話を聞いてくれて、もやもやを豪快に笑い飛ばしてくれて。ピンチの時は涼しい顔で担いで助けてくれる。俺は目の前にいるそんな源さんが好きなんだ。ま、ちょっとお酒に弱いけどね」

 惑いの道での話、夢の内容、真剣に手を合わせる姿、涙目…。色々な事が脳裏によぎり、どうしても今伝えないといけないと思ったのだ。

「がはは、酒は余計だろお。俺を泣き落とそうったってそうはいかねえぞ?…でもありがとなあ」

 俺から目を背けたまま源さんはそう言った。遠くを見つめる源さんの背中はなんだか少し嬉しそうだった。

「よおし、2人とも帰るぞお」

「ええ~もう?まだ遊び足りないよー」

 今まさに影鳥を追い詰めようとしていたササキ息子が駄々をこねる。

「こら。わがまま言わないの。言うこと聞かない子はホテルから追い出されちゃうんだよ。外は暗いよお。戻ってこれないよお」

「そんなの全然怖くないよ!」

「お母さんとも会えなくなるんだよ?ずーっと暗い道を歩かないといけないよ」

「いいよそんなの!僕もっと遊びたいもん!」

 余程楽しかったんだろう。ササキ息子は母親の脅しにも屈さずに懸命に抵抗している。

「わかったわかった、ならこれでどうだあっ」

「うわああ高いいいいい!」

 源さんはササキ息子を軽々と抱え上げると、ロープウェイには乗らずにそのまま勢いよく山を下って行った。のっそり歩いているようにみえて、みるみるその姿が小さくなっていく。

「まったくもう…。あ、トムさん、私もそのまま歩いて帰ります。トムさんはゆっくりロープウェイで降りて来て下さいね」

「いや、俺もみんなといくよ。俺一人だけ悠々と降りるのは流石に」

 俺の言葉を遮るようにササキ母が話し始める。

「いえ、いえ、そこまでお手間を取らせるわけにはいきません。元はと言えば私が無理やり誘ったんですから。トムさんはゆっくり優雅に景色を楽しみながら降りていいんです」

 中々折れない佐々木母に何と返そうか迷っていると、ふとある疑問が湧いてきた。

 そういえば、彼女はどうなんだろう。惑いの道では源さん同様に声が聞こえていた。

 今でこそ人となりもわかって扱い方もわかってきたけど、初めて会った時の印象は、周囲を警戒する逃亡犯のようだった。見た目と挙動の余りの異様さに思わず恐怖すら覚えた事は内緒だ。彼女もまた、迷ったり後悔しながらここにいるんだろうか。

「…どうかしましたか?」

 じっと見つめられていたことに気づいたササキ母が、首を傾げてそう言った。見開かれた黒目は全てを飲み込みそうなくらい大きくて深い。

「あ、いや、何でもない」

「幸せですよ」

 思っていた答えだからこそ俺は戸惑った。だってまだ質問もしていないのに。

「…なんで」

「何で言いたい事がわかったかって?トムさんってうちの子と一緒ですぐ顔に出るんですよ。気をつけた方がいいですよ、結構筒抜けですから」

 そう言って笑うササキ母が、夢で見たあの母子と重なって見えた。

〈こんな表情もできるのか〉

「勿論辛いことも沢山ありましたよ。本気で死のうと思った事も、世界を恨んだこともありました。時には子どもに当たってしまうことも。でも、今はこうして子どもと一緒に穏やかに過ごせてますから。そもそも生きてるだけで贅沢な事ですし」

 ササキ母は子どもに絵本でも読み聞かせるように優しく俺に語りかけた。両親を早くに亡くした俺にとって、それは久方振りの感覚だった。

「ねえ、トムさん。私実は人見知りなんですよ。人を前にするとどうしても緊張しちゃって。瞳孔も開くし、挙動不審になるし、周りからも気持ち悪いって。転々としてるから知り合いもいないし。

でも、思ってること全部言葉にすれば、案外大丈夫って気づいたんです。子どもの為なら頑張れるんです」

 こちらが話す間もない程切れ目なく話す癖は変わっていない。だがら心に土足でぐいぐい踏み込むマシンガントークのイメージが、俺の中で崩れ去った。

「話してくれてありがとう」

「いえ、いえ。じゃあ私は行きます。息子を追わないと」

「あ、ちょっと!」

 駆け出したササキ母の後を追おうとした時、辺りに強い風が吹き、ロープウェイが大きく軋む音がして、俺は思わず振り返る。車内に誰もいないはずなのに、何故か車体が揺れていた。次に前を向くと目の前にはもう誰もいなかった。

〈彼女らしいな〉

 その場に取り残された俺は一人で山を降りた。どういう仕組みなのか、ロープウェイは俺が乗ると勝手に動いてくれた。熱を帯びた車体は相変わらずサウナのように蒸していて、息苦しさが俺を襲う。

 ートムよお。お前はなんでこんな所で油打ってんだ?ちゃんとしとけよお、後悔しないようになあ。

 ふと源さんに昔言われた言葉を思い出す。あの時の言葉は、ともすれば自分に向けられたものでもあったのかもしれない。

 日が傾き始めた事もあってか、窓を開けると気持ちの良い風が車内を巡る。

「後悔かあ」

 俺はまだ間に合うのだろうか。元々家族も恋人もこれといった友人すらおらず、鬱になっても失ったのは仕事くらいのものだ。あのまま終わりの見えない働き方をするくらいなら、夜染村に居続ける方が余程いい。

〈でも、それじゃあダメなんだろうな〉

 源さんもササキ親子も鈴さんも、みんな訳あって帰れないからここにいる。俺のように戻る選択肢があるのはそれだけで贅沢なことなんだよな。

 だから現状に甘えず、まず仕事を探して、それから…。

 それから?

 それから、何だろう。

 このまま戻っても、前と同じ事になる気がする。かといって、今日の源さんやササキ親子みたいに結婚して家族を持ちたいかと言われれば、それもまだイメージが湧いてこない。

 今まで仕事以外何も考えてこなかったし、考える余裕もなかった。ここにいる間に俺なりの答えを見つけないといけないな。


 ロープウェイを降りてふと空を見上げると、何だか自分の場所はここではないという確信めいた居心地の悪さが襲って来て、俺はもやもやを吹き飛ばすように惑いの道まで全速力で駆け抜けた。住宅街では何故かある家の前に伽藍堂の目をした住人が大勢集まっていて、揃って#俺の先を見つめていた。__・__#

 その眼を見ないように前だけ見据えて走り抜けたが、X線のように俺の全てが見透かされているようで寒気がした。住人に紛れてあの女を見た気がしたが、あの眼を掻い潜って確かめる勇気はなかった。

 ーもう、終わりにしないと。

 すれ違い様にそんな言葉が聞こえたが、果たしてそれは俺に向けられたものだったのか、今となってはよくわからない。ただ祠の中のお地蔵さんだけが俺を見て笑っていた。

 走っても走っても体は疲れ知らずで、足はどんどん軽くなった。あっという間に惑いの道まで辿り着くと、勢いそのままにホテルまで一気に駆け上がる。途中ではやはり源さんやササキ母を模した何かの声が聞こえたけれど、二人から話を聞いていた俺が惑わされることもなかった。

 結局、心配した後遺症も最後まで起きず、足を止めることなくでホテルまで戻ることができたのだった。


 ロビーに戻ると誰もおらず、俺は一人長椅子に寝転がる。

 あの時俺は源さんに夢の話をしなかったし、源さんもそれ以上語る事はなかった。夢で見たあの男と源さんは同じだったのか、判明することは永遠にないだろう。ササキ親子だってそうだ。

 2人とも取り返しのつかない罪を犯したのかもしれないし、逆に誰かからそうした仕打ちを受けてきたのかもしれない。何か事情があるからここに居るのだ。

 それでも。当たり前だけど、どんな事があってもやり直すことはできる。例え自分が傷を負ったり、逆に相手に傷を負わせてしまったとしても、それを抱えて、その業を背負って生きていくしかない。

〈大切なのは自分が変われるかどうかだ〉

 俺は起き上がると、エレベーターのボタンを押した。エレベーターシャフト内を走行するだけで、耳障りな音と振動が何度も起きる。

 生きていれば、いくらでも立ち直る機会がある。一からやり直すチャンスがあり、実際に自らの行動でそれを示すことができる。やってしまった事や、やられた傷は消せないけど、上塗りする事は出来るはずだ。そこには大きな痛みや苦しみが伴うけど、少なくとも、俺はそうしたいと思っている。

 大きな振動の後、ロビーに甲高い音が響く。俺は到着したエレベーターに乗り込むと、33階のボタンを押した。軽い浮遊感が俺に過去の記憶を思い起こさせた。

 入社してからただただ何も考えずに働いて、結果うつ病になりかけて、過労から自損事故を起こし、入院中も俺を心配する奴は誰もおらず、32歳にして無職になった挙句、後遺症のおまけつき。

 側から見れば、どう考えたってお先真っ暗だろ?

 それでも俺は変えたい。夜染に来て、ホテルの住人たちに出会えて、俺は心からそう思えるようになった。

 例えどんなに辛くとも、死ねば楽になるというのは間違いだ。死ねばそこでお終い。悩み、苦しみ、もがきながら、それでも#生きて__進んで__#いける者だけが、過ちを取り返すチャンスを得られるのだ。

 だから。もしどうしようもない程辛くなったら、夜染村に来るといい。そんな人たちを受け入れてくれる場所こそが、ここ「ヘブンズロード夜染」なのだから。その言葉に呼応するように、ホテル全体が暖かい光につつまれた。


 33階に着くと、俺は106号室の前に立つ。このフロアには俺の知ってる限り住民は誰もいないはずだ。ノックしても、もちろん何の反応もない。試しにドアの取っ手を掴むと、施錠はされていなかった。部屋に入ると、そこは俺の部屋だった。置いてあるものも、家具の配置も、匂いすらも。まるでついさっきまで俺が生活していたように。

 〈俺ももう33歳だもな〉

 俺は迷わずベットに飛び込むと、早速心地よい眠りに落ちていった。


 

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