おざなり・おきざり・おかえり
夜染村で過ごす2度目の冬が来た。吐く息は霞み、顔がひりつくように痛い。これなら辺り一面の緑が白い絵の具に塗りたくられるのは時間の問題だろう。
そうは言っても、今年は雪が積もるのが遅いらしい。去年は10月にもう初雪が降って、勢いそのまま11月にはしっかり根雪になっていた。程度の差こそあれ、例年そんな感じだと詠人も話していたように思う。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
夜染役場は今日も静かだ。俺は職員との返ってこないキャッチボールを早々に終わらせると、早速仕事情報をチェックしにかかる。観光課の掲示板には今日も様々な情報が乱立しているが、俺の求めているものはここにはない。
「お願い アスレチックは使用しないで!」
「第14回鎮魂祭のお知らせ」
「入札情報 旧展望台解体工事」
「スーパー夜染 開店30周年記念セール」
カウンターの右端にぽつりと置かれた手製の箱。その中に申し訳程度に入れられたA4の書類を手に取った。
各位
本日の仕事は下記のとおりです。
興味がある方はご自由にどうぞ。
・焼却炉への の投げ入れ
以上
〈役場に焼却炉なんてあったか?〉
焼却炉という単語を聞く事自体、夜染に来てから初めて事だ。そんなものがこの村にあったことすら知らなかった。ボランティアの仕事は大抵使われてない部屋の掃除や整理が主なので、今日はそれだけで随分新鮮な感じがした。
俺は観光課を後にすると、地図のとおりに役場を進む。
まず通路を真っ直ぐ突き当たりまで進み…。ひた。突き当たりを左に折れる。ひたひた。少し歩いて左手にあるのが焼却室だ。はあああああああ。
途中から俺の歩みに合わせて何かの気配を感じた気がしたが、振り返っても誰もいなかった。今日の役場は普段より暖房の設定温度が低い気がして、俺は思わず身震いをする。
部屋に入る前に手元の書類を改めて確認して、ついため息が漏れた。肝心の中身が明らかな脱字で、何を捨てるのかわからない。こうしたちょっとしたクオリティに村民とそれ以外とで露骨に差があるんだよなあ。
「おばっ。ぼえござまずうう」
ドアを開けると、パイプ椅子に座った上寺御仏さんが盛大な嘔気と共に俺を出迎えてくれた。無視する他の職員と嘔吐する上寺さん。どっちがマシかと言われたら、答えるのは中々難しい。
「すみません。今から作業させて貰います」
上寺さんが目にも留まらぬ速さでトイレに駆け込んだのを確認した所で、俺は早速仕事に取り掛かった。
薄暗い部屋の中に口を縛った30リットルの黒いゴミ袋がいくつも置かれている。部屋の更に奥にも窓のない暗い部屋があり、そこに件の焼却炉が鎮座していた。左右不均衡な大きな錆びた鉄の塊は、終末世界のスクラップロボットよろしく今にも動き出しそうな迫力だった。
〈これを中に投げ入れればいいんだな〉
袋は思ったよりも重く、持ち上げるとからりと管楽器のような音がした。天井の蛍光灯が切れかけてチカチカと明滅を繰り返していたが、電源スイッチが見つからないのでやむなくそのままにした。
奥の部屋の扉を開けて、まずは焼却炉の前にゴミ袋を移動させていく。
がら、がら、かららん。ころ、ころ、ころん。
がしゃあああああああああん!
運ぶまではいいのだか、置くとうるさいの何の。
分厚い扉を閉め切っているせいで、音がもろに耳を直撃してその度に頭が痛くなった。それに窓もなく密閉されているせいか、どうにも寒くて息苦しい。
〈見た目以上にハードな仕事だな、これは〉
数十分かけて焼却炉の前までゴミ袋を運び終えると、いよいよゴミ焼却の時間だ。
横空きの焼却炉の蓋は見た目通りの重量で、全体重をかけてようやく開けることができた。中は想像以上に広く、折り重なった死体を何人でも焼けそうだった。既に底には灰が溜まっていて、中には焦げ臭い匂いが充満している。
がしゃああああああああん。
最初は、大胆に。
がらごろがら。
次第に調整を加えながら。
ぎゅむごりゅっがっ。
最後は無理矢理押し込んで…。
「…だめかあ」
ところが、最後の一袋がどうしても入らない。押し込んでも押し込んでもまるで意思を持っているかのようにぬるりと焼却炉から這い出てくるのだ。最後のゴミ袋からは絶対燃やされまいとする執念が感じられた。
〈全部取り出して入れ直すのは面倒だなあ〉
どうしようかその場で思案していると、視界の端で何かが動いた気がした。ゆっくりと目で追うと、部屋の隅に俯いた白い巫女装束の女の子が座っていた。
〈いつの間に…。いや、いつから…?〉
女の子は微動だにせず、ただ俯いて座っていた。
相変わらず、天井の蛍光灯は規則正しく明滅を繰り返している。
りい…。さっきまでと明らかに部屋の雰囲気が変わっていた。一瞬にして空気が張り詰める。絶対に声をかけない方がいい。ヒトとしての本能が俺にそう警告している。
りり…。よく見ると、蛍光灯の明滅に合わせて少しずつ女の子がこっちに近づいてきている。部屋の暗がりから、俯いた格好のままで。
バンバンバンバン!!
すると突然目の前の焼却炉から激しく何かを叩く音が聞こえた。大きな音に驚いて、俺は思わず後退りした。
りん。
部屋の空気が一段と冷え込んだ。肩まで水の中に沈んでいるように、空気が重くて俺は立ったまま息苦しさを覚えた。ともすればごぼごぼと口から濁った音が聞こえてきそうだ。早くこの部屋から出なければ、陸に居ながら溺れかねない。だが、俺の体は息をすることさえ忘れて、視線が女の子に吸い寄せられていく。
りり…。
〈逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ!〉
女の子は明滅に合わせて、消えては暗がりからまた現れてを繰り返す。そしてその度に俺との距離が少しずつ少しずつ縮まっていく。まだ、顔は見えない。俯いたまま近づいてくる。微動だにせずに、音もなく。空気は頬を裂き、喉から濁った音と共に液体が溢れ出る。それなのに、俺の足は地面に張り付いて離れない。
バンバンバンバンバンバンバンバン!!
焼却炉が狂ったように音を立てる。お前達もアレから逃げようとしているのか?
りいり。
絶え間なく繰り返される音と光のグラデーションが脳から体への指令を混乱させている。今の俺はただのカカシだ。脳みそのない愚かなカカシ。ああ、女の子がもう目の前に…。
バンッ!
バチイッ。
焼却炉からの一際大きな衝撃で蛍光灯が破裂して、途端に部屋が暗闇に支配された。気づけば目の前から女の子が消えている。俺は安堵のため息を吐くと、緊張の糸が切れてその場にへたり込んだ。
…ブン。
安堵したのも束の間。
割れた筈の蛍光灯がすぐに仄暗い光を取り戻す。
光に照らされ、再び女の子が姿を現した。俯いたまま、俺の目の前に座っている。
〈あ…。うあ…〉
俺は、あまりの恐怖に感情を言語化することすら出来なくなっていた。
すーっ。女の子がゆっくり頭を上げて…。はああああ。顔に生暖かい息がかかる。ああ、ここに来るまでに感じていた吐息はこの子だったのか。よく見ると髪が濡れていて、床に水が滴り落ちている。
俺と女の子は座った状態で向かい合っていた。体が動かないばかりか、目を逸らしたいのにそれすらも出来ない。
真っ白で正気のない顔には、まだ辛うじてあどけなさが残っていた。だが、それに不釣り合いな程、顔は憎しみで大きく歪んでいる。目のあるべき場所にはぽっかりと黒い穴が空いていて、その闇は何処までも続いているようだった。
「くっくっくっく」
女の子は肩を揺らして笑っていた。どうにも堪え切れないという程に。はああああああ。生臭い匂いに鼻が曲がりそうだ。女の子は俺の顔に両手を伸ばすと、嬉しそうにその身に引き寄せた。
「ぼこお」
その瞬間、体の中に何かが入り込み、俺は意識の海に呑まれて溺れていった。
ざざ…。
「おーい、このお地蔵さんみたいのどうする?」
重機に乗った作業着姿の男が、身を乗り出して周りにいた作業員に問いかける。
「地蔵う?汚ねえ石ころじゃねえのかこれ。ここら一帯埋めるんだからそのまま壊しとけえ」
粗暴な男はお地蔵さんを足蹴にして去って行った。
「はは、あいよ~」
重機が前進し、メリメリと音を立てて祠が踏み潰されていった。
ざりい…。
ーゆるさない。
「よーし、後はこの一際デカい木を切れば終わりだな」
今度はチェーンソーを持った違う作業員だ。
「でもこれ、切っちゃっていいんですかねえ」
不安気に違う作業員が訊ねる。
「いいも何も上がしろってんだからやるしかねえだろうよ」
「でもここ、デカいホテルを建てるんすよね。大丈夫かなあ」
「馬鹿な事言ってないでさっさとやるぞー」
作業員がハッパをかけるように不安気な作業員の頭を叩いた。
「ってえ!わかりましたよ~」
長い年月この森を守ってきた巨大な木は、無情にも切り倒されてしまった。
ざああああ…。
ーゆるさない。
「おい!何でリゾート開発なんて許可したんだ!村民は全員反対してただろ!」
怒りの形相で村民たちがスーツ姿の男に詰め寄っている。
「いやいや、ここに村民の過半数を超えた署名があるじゃないですか」
「あ…あいつら…。裏切りやがったのか。……金か。ええっ!?そうなんだろっ!?」
「はああ…。それは正当な立退料ですよ」
スーツ姿の男は呆れたようにため息をつく。
「てめえ…!」
その態度に神経を逆撫でされたのか、村民の1人が、スーツ姿の男に掴みかかる。
「おっと。これ以上は警備のものを呼びますよ」
スーツの男はそう言って笑った。
「許さねえ。ここがどれだけ神聖な土地かも知らないで…。祟りが起きるぞ!!」
村民は怒りと畏怖の混じった複雑な顔をしていた。
「はっ。どうぞ、何とでも仰ってください。あなた方も我々に感謝する日がきますよ」
話は終わりとばかりに村民達が黒服のガードマンに外に押し出される。
ーゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない。
〈………〉
俺は何とか全てのゴミを詰め終わった。最後の一袋が中々入らなくて苦労したが、休憩のつもりで見上げた蛍光灯の明滅に気を取られている内に、気づいたら全てが終わっていた。最近意識を失う頻度が以前にも増して上がっていて、何をするにも苦労していた。近い内に病院を受診しなければいけないかもな。今日も体調が心配だったけれど、ひとまず無事に仕事を終わらせられそうだった。
〈さて。仕上げといくか〉
俺は焼却炉の横にある緑色のボタンを押した。少ししてから大きな音がして、鈍い振動と共に焼却炉が動き出した。ゴミ袋達はここから時間をかけてゆっくり灰になるのだろう。ごおうと激しい熱風の音に混じって、誰かの叫び声が聞こえる。
「あはははははははははは!」
何だかとても嬉しくて、悲しくて、楽しくて、やるせなくて、俺は涙を流しながら笑った。その場でくるくる回りながら、気の済むまで。
「もう静まったんですね。お疲れ様でした」
回る快感に酔いしれていると、入り口の扉が開いて無表情の上寺さんが部屋に入ってきた。
「お…お疲れ様でした」
俺は涙を拭うと、気まずくなって入れ替わりですぐに部屋から出る。どうやら嘔気は治ったようで、すっきりと晴れやかな…いや、すっきりしすぎて全く感情がないようにも見えた。
「あなたは…どっち?」
「は?」
部屋を出たところで、上寺さんがそう呟いた。驚いて振り返ったが、彼女はもう俺に背を向けていた。ホテルに帰るまで俺はその言葉の意味を考え続けたが、結局答えは出なかった。
「お、トムさんお帰り~」
「ただいま」
ホテルに戻ると角谷詠人がだるそうな声で俺を出迎えてくれる。
「どうせまた役場で嫌な思いしてきたんでしょ?ホント物好きだよねトムさんは」
詠人の言葉に俺は苦笑いする事しか出来なかった。
いつまでもここにはいられない。だからこそ俺は、無視されようが、目の前で吐かれようが、ボランティアに参加するのだ。新たな生活は以前のようにもう後悔したくない。
「こんにちは。人喰い大男から無事にお宝は手に入れられましたか?」
暖炉の側にある長椅子で絵本を読んでいた山中鈴さんが、こちらに寄ってくるなりそう言った。
「こんにちは鈴さん。えーと…勿論!打出の小槌とかたくさんね」
何の昔話かわからずに、俺は適当に答えを絞り出す。
「それなら良かった。…でも、宝物は喋るハープや金の卵を産む雌鶏ですよ」
山中鈴さんは小声で囁くと、自分の場所へと戻って行った。
「え」
やっぱり、あの時眠りについたはずの鈴さん主人格はまだ消えてないと思うんだよなあ。
「なーににやにやしてんのさ、気持ち悪いなあ」
「いやいや、してないよ!」
「ふふっ」
ロビーで賑やかに団欒していると、音もなく誰かがホテルに入ってきた。
「あらあら、楽しそうねえ」
安楽夫妻だ。この時間にホテルで見かけることは滅多にないので、何だか不思議な感じがした。
「こんにちは、珍しいですね」
「あらあら、トムさんこんにちは。そんなに珍しいかしら。時々ロビーで詠人さんとはおはなししてるんですよ」
「…へえ」
俺は驚いて思わず声が出る。詠人と安樂夫妻が和やかに団欒している姿がどうしても想像できないから。
「なんだよトムさんその変な反応は」
「いや、意外だなって」
詠人は実はおばあちゃんっ子だったのかな?毎日一緒に居てある程度わかったつもりでいたけど、毒舌で皮肉屋の詠人にも、まだまだ俺の知らない一面があるのかもしれないな。
「がはは、何てこたあねえ、こいつも所詮人の子よ」
「だね、前より親しみがわいてきたよ」
「やめろ2人とも!そんなの俺のキャラじゃないんだよ!」
詠人が顔を真っ赤にして反論する。初めて見るその焦りっぷりがより人間味溢れてまた可笑しかった。
「はは、尖ってるなあ」
「がはは!わかるぜえ。俺もここに来た時は荒んでたからなあ。でもよ、わざわざ#こんなところまできて、__・__#意地張る事もねえよ。なあ」
「アル中の源さんにだけは言われたくないね!」
これは、いつものありきたりな雑談の風景。俺の日常は毎日がこんな感じだ。たわいもない、中身のない話を延々と繰り返すだけ。会話の度に笑って、泣いて、怒って、感心して…。
この村にいても特にイベント毎もないし、日常に大きな変化はない。
だけど、日常を捨て去って勉強に明け暮れた学生時代に、時間に追われ仕事が日常の社会人時代。今の俺にとってはただの日常が何よりも幸せで、極上の時間なのだ。
いつかは終わるとわかっているけれど、俺が夜染にいる間は、これからもこんな暖かい時間がいつまでも続いてくれる事を願ってやまない。
「むぐっ」
ああ、またこの痛みだ。俺はこめかみを抑えて膝をつく。いつも日常を切り裂くように突然やってくるこの痛み。夜染村にせめて診療所でもあれば、現在の状態が、わかる、のに…。
いや、それだけじゃない、今回はぐわんぐわんと頭が回っている。
そう思っていたら、遠くで誰かの叫ぶ声が聞こえた。
「地震だ!」
どうやらホテル全体が揺れているようだ。
「がはは、こんなのなんてことねえよ」
源さんが笑いながら酒をあおる。詠人は気にもとめずにパソコンに向かい、鈴さんはにこにこと絵本に夢中になっている。
そうは言っても結構大きいぞ。これくらいの地震、そう何度も起きないと思うのだが…。
けたたましい音と共に、突如ロビーの電気が消えた。一旦揺れが収まり、俺の頭痛もそれに呼応するように落ち着いた。
「あれ、ブレーカー落ちた?非常用のパネルどこだっけ」
古いホテルはこういう時に不便極まりない。ちょっとした事ですぐあちこち壊れたり誤作動を起こしたり。おまけに役場も放置してるからその度に自分達で何とかしないといけないのだ。
「暗くて何も見えないなあ。誰か懐中電灯取ってくれない?こっちにはなくてさ。源さん?おーい」
真っ暗闇に自分の声だけが虚しく溶けていく。
「なあ、詠人、鈴さん、そこに居るんだろ…?」
俺はロビー中を動き回るが、何故だか誰も返事をしてくれない。
「さては…みんなでドッキリだな?」
さっきの地震は体感でせいぜい震度3といったところか。この程度の揺れは東京では当たり前のように起こっているが、人が死んだり建物が崩れたりするものではない。
「参った、何事かと思って焦ったよ。ほら、いい加減種明かしをしてくれよ」
どれだけ呼びかけてもやはり応えは返ってこない。それどころか、さっきから適当に動き回っているのに一度も壁や物にぶつからないのだ。
〈ここは本当に俺の知ってるロビーなのか?〉
試しにめちゃくちゃに走ってみたが、同じだった。ロビーにあるはずの長椅子も、暖炉も、カウンターも、エレベーターさえも消えていた。あり得ない。現実では起こるはずのない事だ。
〈つまり、また夢か〉
ここ最近はこうした事が前触れもなく毎日起こるから困ったものだ。生死を彷徨う大怪我をしたんだから当然と言えば当然かもしれないけど、いかんせん頻度が多すぎる。あれから1年以上経ち、俺の体もそろそろメンテナンスの必要性が出てきたって訳だ。
過労とメンタルが落ち込んでの事故だった訳で、社会復帰は慎重にいきたい。貯金にもまだ余裕はあるし、ここは居心地も良いしね。だが一方で、早く復帰しなければ一生このままかもしれないという焦りもあった。
〈まあ、なるようになるさ〉
夢であれば自分じゃどうしようもない。脈絡もなければ終わりも突然だ。ことの成り行きを見守っていようじゃないか。
暗い道をしばらく歩いていると、道の先がぼんやりと明るくなってきた。どこからから声も聞こえてくる。
〈彼処が出口かな?〉
俺は声のする方に引き寄せられ、淡い光に飲み込まれていった。
我に帰ると、俺は薄暗いロビーに立っていた。まだ停電は続いているのだろうか。それにしてはさっきと何処か違う。ひび割れた窓から太陽光が差し込んでいる。壁にかけられた絵や棚の調度品は傾いたり床に落下していて、カウンターの周りにもダンボールやらゴミやらが散乱していた。
〈そんなにひどい揺れだったのか〉
これじゃあもう廃墟だ。古くても住民達でよく手入れして、趣のあるのがいい所だったのに。
ぎしっ。
天井から何かが軋む音がした。見上げると芋虫人間が揺れていて、吊るされた紐が今にも切れようとしている。
「うっ」
慌ててその場から退避すると、激しい衝撃とともに誰かの声が聞こえ、気づいた時にはシャンデリアの破片が辺りに散らばっていた。
「っつう」
俺は鋭い痛みに思わず顔を顰めた。左の頬に触れると、ばっくりと裂けて血が滴り落ちている。どうやら飛び散った破片で切れてしまったらしい。
正直なところ半分まだ夢の続きだと思っていたのだが、血まみれになった手と鋭い痛みがそんな甘い考えを否定している。
「おーい!誰かいないの?」
俺の呼びかけにも返事もなければ物音ひとつしない。一体みんなは何処へ行ったんだ?まさか瓦礫の下敷きにでもなったのか?浮かんでくる最悪の想像を振り払い、俺は必死に辺りを探し回った。
だが、ロビーに人の気配はなく、散らばった瓦礫だけが自らの存在を声高に叫ぶのだった。
2階へと続く階段は、崩落した天井で塞がれていた。勿論エレベーターは動かない。
ふと、もしかしたらみんな慌てて外に逃げたのかもしれないと思い立ち、エントランスから外に出てみると、何故だか俺は再びロビーの真ん中に立っているのだった。
だが、今度は周囲に先ほどまでの荒廃した感じもなく、停電前と同じようにみんながそこに居た。
「源さん!良かった」
俺は安堵して一番近くにいた源さんに声をかけたが、なんだか様子がおかしい。
「すまねえ。いや、許さねえ。誰に逆らってんだクソどもがあ。おい、違うだろお!悪かった。悪かったって!痛え。やめろ!謝ってるだろうがっ!痛てててて。やめろおおお」
ぶつぶつとまとまりのない事を呟きながら手にした酒瓶をしきりに口に運んでいる。どうやら悪酔いしているようだ。源さんが前後不覚に陥っているところを見るのはこれが初めてかもしれない。
「なあ、源さん。もうこれ以上飲むのはやめた方がいいよ」
俺が声をかけてもこちらには見向きもしない。まあ、特に暴れているとかでもないし、このままそっとしておくのが賢明か。
後ろに目を向けると、今度は暖炉の側で鈴さんがうずくまって震えていた。
「お父さん、ごめんなさい。お父さん、もう叩かないで。お父さん、勉強頑張るから。もう勝手に遊びに行かないから。もう友達なんて作らないから。だからお願いやめて。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
もしかしたら以前のような発作が出たのかもしれない。あの時鈴さんは父親に立ち向かって見事追い返したけれど、トラウマというものはそう簡単に消えてなくなるものじゃない。
「詠人、手が空いてたら手伝ってくれ!鈴さんが!とにかく部屋に運ばないと!」
パニックに陥ってホテルを飛び出したら大変だ。いつもは何に対しても非協力的な詠人だが、頼みの綱の源さんがあんな感じだし、緊急事態の時は流石に手伝って貰わないと。
「打ち切り?え、なんで。いや、だって、期限はまだ…。ちょっ、ちょっと待って、切らな。……くそっ!ふざけんなっ!約束と違うだろ!俺は!俺は、まだ…」
「おいおい、詠人までどうしたんだよ一体」
詠人は毒舌で常に不機嫌だけど、どんな事が起きてもいつも余裕が感じられた。その余裕がまた憎たらしかったんだけど、今の詠人にはそれが一切感じられなかった。
詠人は俺の問いかけを無視してそのままエレベーターに消えていった。初めて見る切羽詰まった様子に俺は鈴さんのことも忘れて詠人の後を追う。
俺が近づくとエレベーターはすぐに開いた。詠人は2階の107号室だから、おそらく自分の部屋に向かったのだろう。俺は力強く2階のボタンを押すと、閉じるボタンを連打した。
密閉された空間の中で俺は考える。さっき詠人は一体誰と話していたのだろうか。詠人にしては珍しく、電話口の相手に対して緊張というか遠慮みたいなものが伝わってきた。
〈職場の上司か、それとも親や親戚か…〉
いや、待てよ。スマホらしきもので会話していたが、そもそもこの村に電波なんてないはずだ。じゃあ詠人は本当に誰と話していたんだ?俺が知らないだけで機種によって使えるのか?それとも詠人の自作自演か。いや、そんな事何のために?
2階へ向かったはずのエレベーターは、一向に到着する気配がない。もしかしてボタンを押し忘れたのかな。そう思って案内パネルを見ると、どうしたことか、階数が7階になっている。無意識に自分の部屋の階を押してしまったか。
「10階、です」
アナウンスの後、エレベーターの電光板が白く光り、俺はその光に飲み込まれた。
男の子が狭く散らかった部屋のソファに寝転がってテレビを見ている。食卓には既に男の子の大好物のカレーが並んでいた。
「詠人ちゃん、いつまでもそんなとこにいないで、もうご飯食べちゃいなさい」
祖母が本日もう何度目かのやり取りを繰り返した。態度の悪い少年に対しても、叱るでもなく優しい眼差しを向けている。
「はいはい、わかったよ、もう。せっかくいいとこだったのに…。ていうかいい加減ちゃん付けやめてよばあちゃん。俺もう小四だよ」
男の子は不機嫌そうに、でも満更でもない表情を浮かべている。
「あらあら、いいじゃないの。私にとってはいつまでも可愛い孫なんだから」
少年は渋々起き上がり、食卓についた。反抗期真っ只中の少年も、祖母の笑顔には弱いようだった。
「まったくばあちゃんは…。いただきまーす」
大好きなカレーを大好きな祖母と食べているというのに、少年はどこか心ここに在らずだった。しきりに居間の時計を見て時間を確認しては逸らしてを繰り返している。時刻は20時30分。夕食には遅い時間だった。
「そういや、今日も遅いの?お母さんとお父さん」
我慢できなくなったのか、少年は祖母に平静を装って問いかける。少年の落ち着きのなさは、どうやら両親の帰りを待っていたからのようだ。
「そうねえ。お仕事が忙しいみたいね」
「…やっぱり、俺が悪い子だから?」
少年の言葉に一瞬祖母の表情が曇る。
「何言ってるの、お父さんもお母さんも詠人が大好きだからお仕事頑張って」
「違う!」
少年は強張る祖母の顔を見て、いつの間にか自分が大声を出していたことに気づいて狼狽える。
「…あ、えと、その…。ごめん。…ばあちゃん」
「…いいのよ。おばあちゃんはいつでも詠人ちゃんの側にいるからね」
そんな少年を、祖母は強く強く抱きしめるのだった。
短い映像が終わり、俺は現実に引き戻された。体感で一瞬の事だったが、意識が映像に持っていかれていた。今のは、詠人の過去なのか?エレベーターはアナウンスされた10階に止まることなく上昇を続けている。
「15階、です」
ガタガタと激しくエレベーターが揺れて、今度は内部が暗闇に包まれた。
花もない殺風景な病室のベッドに、祖母が横たわっている。
「対光反射なし、18時12分、ご臨終です」
死亡宣告を聞かされているのは、まだあどけなさの残る中学生の少年1人だけだった。
「ぐうっ…。ひぐっ…。ばあちゃん…。いつも、側にいるって、言ったじゃん…!」
少年は祖母に寄り添って人目を憚らずに泣いた。
暗転。
「あれ、何で電気が…。ああ、起きてたの。寝坊しても知らないわよ。明日も私は早いんだから」
夜遅くに母親が仕事から帰宅すると、とっくに寝ているはずの息子が居間で何をするでもなく一人で座っていた。
「ばあちゃん、死んじゃったね」
息子がぽつりと呟いた。
「そうね」
母親は時計に目をやりながらそっけない返事をする。
「何で病院に来なかったの?お父さんもお母さんも」
「仕事は待ってくれないのよ」
空返事をしながら、視線はカレンダーを向いている。
「どんな時でも?」
それでも少年は質問する事をやめなかった。
「そう」
「俺が死んでも?」
「…くだらない事言ってないで早く寝なさい」
少しだけ、母親の答えが遅れた。
「ばあちゃんさ、俺の書いた小説好きだったんだ」
「はあ。だから何よ。私も疲れてるの」
母親は不機嫌さと苛立ちを隠そうともせず、無理矢理会話を終わらせて居間から出て行った。
「………ごめんなさい」
少年は、夢の炎を静かに燻らせていく。
不意に周囲が明るくなり、俺は自分がエレベーターに居たことを思い出す。まるで短編映画を観ているかのような感覚。やっぱり詠人はおばあちゃん子だったんだな。
エレベーターはまだ上昇を続けている。詠人の年齢を正確には知らないが、24、5くらいだろうか。最初が10階でその次が15階。なら次は…。
「20階、です」
予想どおり、5歳刻みで映し出されるようだ。俺は静かに扉が開くのを待った。
「…あのさ、母さん」
キッチンからリズミカルな包丁の音が聞こえてくる。青年は立ち上がって、母親からの返事を待っていた。
「何よ改まって」
母親はそんな息子の様子を知ってか知らずか、振り返らずに料理を続けている。
「俺、その…。実はさ。大学ももう2年になって色々将来のこととか考えてさ。それで、この先本当に今のままでいいのかって思うようになってさ」
「だから話は何。要点だけ言って」
青年は慎重に言葉を選びながら母親の様子を伺っていたが、母親に突き放されてようやく決心がついたのか、大きく息を吐いて拳を握りしめた。
「だから……。俺、大学、辞めようかなと思って」
「いきなり何を言ってるのあなたは」
言葉と裏腹に声色は至って平坦で、母親に驚いた様子はない。
「いや、俺さ、言ってなかったけど、実は前からずっと小説を書いていてさ。今まで色々小説の賞に応募してて。この間ようやく最終選考までいったんだ!書評にもまだまだ荒削りって書いてたし、もっと本気で打ち込んで、磨いて、小説家としてさ」
「………はあ。全く、悪影響だったわ」
母親は、そこでようやく作業の手を止めて、長い長いため息を吐いた。
「どういうこと?」
「昔お父さんも嘆いてたわ。あの人が無責任に誉めたせいであなたが物書きの真似事をするようになったって」
言葉の意味を理解して、青年は怒りに体を震わせた。
「…ば!…ばあちゃんを、わ、悪く言うなっ」
強烈な非難の言葉もいざ母親を前にすると勢いを失い、声はうわずり何度もどもってしまう。
「誰がお金を出して、何のために大学に行かせてると思ってるの」
「それは…そうだけど…。でも俺は…」
「はあ。辞めたいなら勝手にしなさい」
青年が煮え切らない態度でいると、母親はそう言ってまた包丁を規則正しく動かし始めた。
「え、いいの」
激しい口論を想定していた分、青年は拍子抜けしてそう聞いたが、母親の答えは予想外のものだった。
「その代わり家にはもう戻ってこないで。お金は今までどおり毎月口座に振り込むから」
「ちょ、ちょっと待ってよ母さん」
青年は既に地元を離れ、地方の大学に進学していた。だが、それでも年に数回はこうして実家に帰省しているし、もちろん自分の部屋もそのまま残っている。
「それくらいの覚悟で言ったんでしょ。もう話は終わり?ならこの週末で荷物まとめて部屋を空っぽにしておいて」
「待って…ちが…」
明確な拒絶の意思を前にしても、青年はそれでも縋るような目を母親に向けるのだった。
俺は眩しさから現実に引き戻される。この映像が本当なら、詠人の捻くれた性格にも納得がいくというものだ。両親からきちんと愛されず、若いのに家を追い出され、それでも小さい頃の夢を追ってここヘブンズロード夜染で日夜小説を書き続けているというわけか。…泣けてくるね。もちろん、あくまで本当のことだとしたら、だけど。
親からDVを受けているなら命を賭して家から離れる道を選ぶ者もいるだろう。周りが介入して引き離す事だってある。だが、今回のような無関心こそ厄介なものはない。どれだけ突き放されても、やはり親には褒められたいし認められたいものだ。
俺だってそうだ。遠方にいる両親とはもう随分昔から疎遠になっているが、本当は…。いや、違う。違うぞ。俺の両親は既に病気で亡くなっている。仕事が忙しすぎて連絡はあまりしていなかったけど、関係は悪くなかった。
映像に影響されているのかもしれない。正に追体験という言葉がぴったりな程の没入感なのだから。
だが、次は25歳、そろそろ最後だろう。エレベーターは軽快に上昇を続けている。いや、それどころか、25階を過ぎたのにまるで止まる気配がない。
「次は25さ、ささ、で…でてす」
30階を超えたあたりで突如アナウンスが乱れたかと思うと、ガクンと空間が傾いてエレベーターが勢いよく落下していくのがわかった。
「う、う、う」
激しい揺れと落下するGで俺は天井に何度も叩きつけられる。あれ、この光景、何処かで見た…いや、起きた気が、するぞ…。朦朧とする意識の中で俺は強烈な既視感を覚えていた。
「23サイ、デス」
轟音とともにエレベーターのドアが弾け飛び、思い出す間も無く俺は暗いロビーに放り出されて落ちていく。
暗い部屋の中で、男が一枚の紙を呆然と眺めている。
「…なんで」
何度見たところで「落選」の二文字が変わることはなかった。それでも、現実を認めたくなくて、何度も何度も伏せては捲ってを繰り返した。
「そうだ、編集部に…」
そう思い立つが、男はすぐに携帯電話を床に投げつけた。料金が払えずに携帯電話が止まっていた事を思い出したのだ。いつもは月末に振り込まれるはずの仕送りが、もう二ヶ月もなしの礫だった。
「くそっ!」
題材も、構成も、文章も、全てが今までの集大成だった。ここ最近は手応えを感じても落選することが多く、最終選考どころか二次選考すら通過しないこともあっただけに、今回の作品に文字通り全てをかけてきたのだ。
〈どこがダメなんだよ…!〉
男は落選通知をぐちゃぐちゃに丸めると、思い切り床に叩きつけた。抑えきれない感情のまま、部屋の壁を強く殴る。
「うるせえぞおおおお」
「す、すいません」
家賃が格安で壁の薄いボロアパートには、社会不適合者が多く入居している。
隣の部屋の粗野なチンピラ風の男がすかさず壁を殴り返してきて、それに萎縮する自分が惨めでたまらなかった。
才能があれば、大賞を取らなくても編集者から声がかかる事もある。せめて、編集部と連絡さえ取れればと藁にもすがる思いでいると、突如携帯電話がけたたましくなった。かけられなくとも、出ることはできるのだ。
〈まさか、編集…!〉
縋るような気持ちで電話に出ると、果たしてそれは母親からだった。
「もしもし!…あ、か、母さん…。そ、そうだ、最近仕送りがないみたいだけど…。え、打ち切り?え、な、なんで。いや、結果は出てないけど、もう少しなんだ。でも、約束の期限はまだ…。ちょっ、ちょっと待って!切らな。……くそっ!ふざけんなっ!約束と違うだろ!俺は!俺は、まだ…」
会話の途中で一方的に電話は切れた。きっと、母親から電話が来るのもこれが最後だろう。アルバイトもしていないのに、どうやって生活しろというのだろう。
「くそっ!くそっ!くそおおおおおおお!」
止めどなく溢れ出る感情の奔流が、何度も何度も部屋の壁に拳を打ち付けさせた。
「てめえこらうるさいっつってんだろっ!舐めてんじゃねえぞこのオタクやろうっ!」
しまいに酒に酔った隣の部屋のチンピラが怒鳴り込んできたが、それでも男は壁を殴り続けていた。両手の拳からは血が滴り落ち、辺りには断熱材や壁の破片が散らばった。
「おいっ!聞いてんっ!のかっ!こっち見ろや!おらっ!無視すんなよ!おらああっ!」
「うっ!ぐっ。げえ。ぐぶっ」
キレて怒りの沸点を超えたチンピラは、何の躊躇もなく男の顔面を殴りつけた。
「次やったら再起不能にするぞおらああああ」
気の済むまで男を殴りつけたチンピラは、満足するとそう吐き捨てて去っていった。
「がはっ…。…ああ…。っぺ…。はあ…。……くそ、痛え、な…」
チンピラが去った後、血と体液に塗れた男はしばらく痛みでその場から起き上がる事が出来なかった。
ようやく起き上がっても、自分の置かれた現状の惨めさにとめどなく涙があふれてくる。
〈もう、いいや〉
男はよろよろと玄関に向かうと、冬に備えて買い置きしてあったポリタンクの灯油を部屋まで引っ張り出し、どぼどぼと辺りに撒き散らす。
程なくして、部屋の中にむせかえるほどのガソリン臭が蔓延する。
「くくっ。おえっ。こんなの、小説でしか。ええっぷ。見たことないや」
一通り撒き終わると、今度は自分も頭から一気に被る。
「げえっ」
ガソリンのあまりの純度の高さに男は思わず嘔吐した。それでも間髪入れずに、震える指でライターに火をつける。時間を要しているのは単に殴られて朦朧としているからであって、男に躊躇は一切なかった。子どもの頃からずっと一人で小説だけ書いて生きてきた。認めてくれるはずの祖母はとっくの昔にこの世を去り、無情にも小説は男を見放した。外界との唯一の繋がりだった母親も、今まさに縁が切れた所だ。もうこの世に男の未練は何一つ残っていなかった。
「あがああああああああ!」
一気に体全体が火に包まれると、すぐに気絶もできない強烈な痛みが男を襲い、堪らず部屋中を転げまわる。
「だからうるせえって…おおおっ!?」
築70年の木造アパートは忽ち火だるまで、燃え盛る炎はチンピラをも飲み込んで勢いを増してゆく。
「おおっご。ぶぶぶぶぶ」
肉が焦げる匂いが部屋中に充満する。熱で肺が焼けて息ができない。覚悟を決めたはずなのに、手は、体は、自然と何かの助けを求めてもがいて掻きむしる。男は死ぬのがこんなにも苦しい事を今初めて知った。
〈ああ…死んだ方がいい小説が書けそうだ〉
目を開けると、そこはまだエレベーターの中だった。
〈何だよ、これ…〉
最後に観せられた映像は、悪趣味にも程があるものだった。
今までの映像も、本物かどうか判断に迷うものばかりだったが、今回はどう考えても偽物で、それでいて不快だった。何せ詠人は同じ訳ありホテルで暮らす家族同然の存在なのだ。それを無惨に殺されて何も感じないわけがない。
「…階です」
怒りで我を忘れている内にアナウンスと共にエレベーターが止まり、外から無言で女が乗ってきた。夢で見た神出鬼没のあの女だ。
〈名前は確か…慈実だったっけ。なんでこのエレベーターに…〉
「全部本当よ。だって死んでるもの」
女は乗り込んでくるなり真面目な顔でそう言い放った。俺はそんな女の態度に苛立って直ぐ様否定しようとするが、一足早くエレベーターが降りる階を告げた。
「…33歳、デス」
エレベーターを降りると眼前にはいつの間にか深い森が広がっていて、俺は戸惑いながら道を歩く。少し進むと見慣れたアスレチック広場に出て、ササキ親子がいつものように2人で戯れていた。
だが、近づいてみるとやはりロビーに居たみんなと同じように様子がおかしかった。
「ほら、ほら、ほら、早く逃げないとあの人が追ってくるよ。ほら、早く、早く、早く」
ササキ母は初めて会った頃のように、ぐいぐいとササキ息子の手を引っ張って先を急ごうとしている。
「ねえ、痛いよお母さん。あいつはもうお母さんがやっつけたんだからここには来れないよ」
「ここがどういう場所か忘れたの?暗闇に光が見えれば誰だって来ちゃうでしょ。だから、急がないと。ほら早く。急いで、急いで、急いで…」
佐々木母のあまりの切羽詰まった様子に堪らず声をかけようとしたところで、エレベーターの扉は無情にも閉じてしまった。
「トム、あなたが行っても意味がない。だって…」
「死んでるから、って?」
俺がぶっきらぼうに呟くと、女は満足げに頷いてみせた。
「そう。このホテルの住人みーんな、死んでる」
「74歳、デス」
今度は東家だ。安樂夫妻がいつもの様に寄り添って空を眺めている。
「巌さん、私、もう疲れちゃったわ」
いや、違う。何か様子が変だ。並んで座っているには不自然な影。あれは…博子さんが巌さんを押し倒している?
「ああ…」
「せっかく解放されたのに、なんでまた元通りなのかしらね」
「ううっ…」
博子さんの手が巌さんの首に喰い込んでいく。深く、静かに、強く。
「あなたをこの手にかけたのも、綺麗な夕陽の見える日だったわね」
「っ…ぐっ…」
博子さんの顔からいつもの和かで余裕のある表情は消え去り、憎しみに満ちた目で巌さんを見つめている。白い手首からは青白い血管がはち切れんばかりに浮かび上がっていた。
「神様は残酷ね」
「げええっほぉっ!ごほっごほっごほお!」
博子さんは締め上げていた手を離すと、むせ返る巌さんを無視してこちらに目をやった。
「死んだ時間にしか記憶が戻らないなんて」
目があった博子さんは、涙を流しながら俺に微笑んだ。
エレベーター内はやけに静かだった。
毎日ロビーで楽しく話していたみんなが、源さんも詠人も鈴さんも、ササキ親子や安樂夫妻までも。
「みんな、死んでる…?」
目の前の女は苛ついたように、組んだ腕を指で弾きながら貧乏ゆすりを繰り返す。
「ねえ、まだ思い出さないの?」
何を、思い出すんだ?
よく見ると、エレベーターの中をリスがうろちょろしている。アスレチックから戻る時に入り込んだんだろう。
「ぴっぴっぴ…」
「そんなに、すーっ。忘れたいの?はーっ」
リスが鳴き、女の呼吸がやけに大きく聞こえる。深い深い、まるで眠っているような。
ぴっぴっ。ああ、頭が痛い。すーっ。こんな時にも後遺症が…。はあーっ。
ぴっぴっぴ。リスが。リスが五月蝿いんです。何処ってほら、そこ。そこの隅にいる。眠っているんですか。機械音が。すーっ。先生。彼女は。トムは。はあああーっ。
「30歳、デス」
エレベーターが開くと同時に、俺は意識を失って外に倒れ込んだ。
「…ねえ」
気がつくと、俺は車で夜道を走っていた。運転中だというのに眠気が強くてどうにも頭が働かない。
「トムって」
隣で女が俺を呼ぶ。助手席にいるのは慈実、俺が彼女だ。今はどうしてドライブしているんだっけ。堪えても堪えても睡魔は津波のように何度も押し寄せて、俺の意識を夢へと攫っていく。
「はあ…。呼ばれたらすぐ返事してよ」
こんな場面を前にも見た気がする。デジャブというやつだ。何処で見たんだっけ。確かあれは…。
「え、ちょっと!前っ!」
隣で慈実の叫ぶ声が聞こえる。いや、これは自分の声か。果たしてどちらが叫んでるのかもうわからないほどの衝撃が直ぐに俺を襲う。車はガードレールを突き破って崖の下を勢いよく転がり落ちていく。
「うっ。うっ!ぐう、げえっ」
俺と慈実は車内で激しくミキサーされて体も脳みそも魂も何もかもが混ざり合って溶けていく。そのうちどちらかが車外へ投げ出され、朦朧とした意識の中で、半身は精一杯手を伸ばした。
「1階です」
無機質なアナウンスで目を覚ました俺は、しばらく放心状態でその場に立ち尽くしていた。
今の映像は、俺の過去の記憶なのか?会ったこともない筈なのに俺のことを知っていて、辟易する程何度も夢に現れた奇妙な女は、本当は俺の彼女だったのか?
大事故にも関わらず、奇跡的に死なずに済んだ事も、辛いリハビリの末にやっとの思いで退院できた事も、今こうして夜染で静養していることも、全ては幻だったとでも言うのか。
「1階です」
エレベーターが俺を追い出そうと急かしてくる。
「降りないの?」
俺は目の前の女をじっと見つめたが、やはり何かを思い出す事も、記憶の端に引っかかるものもない。
「お前は…本当は俺の彼女なのか?それとも俺が見せる幻?」
「さあ?そんなの自分できめたら」
意味あり気に現れた癖に、女は俺を突き放す。
「意味が、わからない…」
俺は頭を抱えながらよろよろとエレベーターを降りたが、女が続いた気配がない。
後ろを振り返ると、女は腕を組んだまま壁にもたれかかり、一向に降りる気配がなかった。
「…降りないの?」
今度はこっちが女に聞き返す。
「聞こえる?息を吸って吐く音が。繋がれた機械の電子音が」
女は俺の問いには答えずにそう言った。
気づけば俺の肩の上にリスが乗っていた。ぴっ…ぴっ…ぴっ…。すぐ横で鳴き声が聞こえる。いつの間に肩に乗ったんだ?すーっ。はあああ。リスにしては随分大きな吐息だ。すううっ。はああああ。まるで人間のような息遣い。生暖かくて、独特の獣臭が…。いや、違う。これは俺だ。俺の吐く息だ。
…苦しい。体が石化したように全く動かない。それどころか何も感じない。体の感覚が失われている。脳味噌だけ遺された男がホルマリン漬けになって、繋がれた機械で会話する。そんな話を昔何かの映画で見たことがあった。何一つ自分ですることができない。生かすも殺すも誰か次第。それが、今の俺。
「思い出してきた?自分のこと」
息苦しい。口の前のぴっ何かがぴっ邪魔をしてぴっ。うまくぴっ。ああ、五月蝿いな。頭がおかしくぴっ。なりそうだ。
「あなたはまだ死んでいない」
すうーっ。…この状態で?はあーっ。暗闇の中で、ずっと?
「そう。今この瞬間も、あなたの身体はこの世に繋ぎ止められている」
機械に繋がれたケーブルや体に流し込まれる薬品の数々が、必死に俺を生かそうとしているのか。だが、魂は女の言う死者の国でこうして彷徨っている。
「1階、です」
エレベーターが、再び暗いロビーへ俺を誘っている。どうやら一瞬戻りかけた魂が再び肉体から離れてしまったらしい。視界からリスは消え去り、もう煩わしい機械音や呼吸も感じなくなっていた。
「…なんで。なんで、俺はまだ…あんな姿になっても、こうして肉体から魂が離れても、生きていられるんだ」
俺は縋るように女にそう尋ねた。積み上げてきた現実が音を立てて崩れ去っていく中で、目の前に居る女の存在だけが頼りだった。
だが、女は相変わらず冷たい目で俺を見つめている。
「さあ。まだこの世に未練があるんじゃない?」
女は突き放すようにそう言うと、俺を残して暗闇の中に消えて行った。
あの女が本当に俺の大切な人だったとして、彼女だってもう死んでいる。なら俺を現世に引き留めている物は一体何なんだ?記憶が戻るきっかけになる筈の存在を何度も目の当たりにして、何でいつまでも俺の脳はそのままなんだ?
よろよろとエレベーターを降りると、暗いロビーにはみんながいて虚な目でこちらを見つめていた。そこにはいつもの幸せな日常なんて存在せず、死に際のベッドで見る悪い夢そのものだった。
頭の中を整理する暇もなく、みんなが俺に迫ってくる。
「…っ」
俺は目を閉じて耳を塞ぎ、一目散にホテルから逃げ出した。後ろから誰かが何かを話す声が聞こえた気がしたが、俺はもう振り返らなかった。
そんな筈はない、まだ後遺症が見せる夢の中なんだろうという気持ちと、目の前で見た残酷な現実が交差する。
俺は迷わず惑いの道に分け入った。とにかく早く。一刻も早く村から出なければ。
ざざざざざざ…。
深い藪をかき分けて、転げ落ちるように山道を駆け降りる。混乱して軽いパニック状態なのに、体はいつまでも疲れを感じない。そういえば、今までも良くこんな事があった。ランナーズハイとか、後遺症の影響で記憶が飛んだとか、色んな理由で納得させてきたけど…。
ーえ、ちょっと、前!
頭上から不意にあの女の声がして、俺は足がもたついて転倒する。ここは傾斜のついた獣道だ。俺は勢いそのままに山道を転がり落ちてしまった。
「ぐぐっ。あうっ。ううっ。…がっ!」
下まで続く長い一本道を、俺はかつての事故の時と同様にあちこちにぶつかりバウンドしながら落ちていく。
ざあああああああああ。
ーこのホテルの住人みーんな、死んでる。
藪の中に再び無機質な女の声が響く。
「うっ!!」
激しい衝撃と少しの意識消失の後、俺は頭を押さえてなんとか立ち上がった。幸い、どこも怪我をしていないようだ。
ここからまず東家を抜け、アスレチックの森を越え、役場を通り越して…なんて考えてから顔を上げると、俺はもうトンネルの前にいた。
<何で、ここにいるんだ?>
以前鈴さんの父親と対峙した時も気づいたらトンネルの前に立っていた気がする。村の出口に行かなきゃと強く願ったら、いつの間にか…。
俺はふらふらとトンネルに向かって歩き出した。
ここを抜ければこの村から脱出できる。あと少しだ。でも何故だろう。#ここから先には行ってはいけない気がする。__・__#
トンネルの中は明かり一つなく、闇が全てを飲み込もうと待ち構えていた。恐る恐る顔を近づけて見るが、先は全く見通せない。それどころか音も、風も、この先からは何一つ感じられなかった。俺は急に怖くなって後ろを振り返ったが、勿論そこには誰もいない。隣の町へと続く長くカーブしたトンネルだ。過疎の村だから暗いのも静かなのも当たり前。俺は自分にそう言い聞かせて…。
「みいつけた」
目の前で折り重なった声がしたかと思うと、息を吐く間も無く伸びてきた無数の白い手が俺を闇の中へと引き摺り込んだ。トンネル内は深海のような閉塞感と息苦しさがあり、俺はその場で必死にもがいた。もがいてももがいてももがいてももがいても浮上どころか沈みもせずに、あるはずの壁や地面にもぶつからない。蜘蛛の巣に囚われた蟲と同じ、緩やかに死を待つだけの身。次第に目の奥がチカチカと火花を上げ始め、鮮やかな光に包まれながら、俺の意識は暗闇へと沈んでいった。
真っ暗な空間に何やらぼそぼそと話し声が聞こえている。酷い揺れの後だからか、ホテルはあちこち倒壊しかろうじてロビーであることが見てとれた。
「終わった?」「まだまだ」「それは残念」「残念ですね」「今日の#揺れ__・__#は大きかったがなあ」「あらあら…」「失敗か」
どうやら、彼らはヘブンズロード夜染の住人たちのようだ。火の消えた壊れかけの暖炉を囲み、まるで暖を取るかの様に密集して身を寄せ合っている。
「あったかいねえ」「ええ、暖かい」「今のうちにたっぷりあたっておかないとね」「何せこれからは…」「おっと」「困る困る」「口には出さない方がいいなあ」「だって狼さんは」「お腹に石を詰められてさ」「そうそう」「川に落ちて」「何だっけ」
暗いロビーでは誰が話しているのか判別がつかない。ただひたすら脈絡のない会話が続いている。
「さあてと、じゃあそろそろ迎えに行くとしようか」
誰かの号令で、影たちが一斉に立ち上がった。壁の亀裂から差し込む月明かりが、彼らを怪しく照らし出す。その顔は正気のない青白い顔をしていて、それぞれ何かが欠けていた。
「いいね、そうしよう!」「ええ、そうしましょう。楽しみだわ」「ああ…月が綺麗だ」「これでお終い、めでたしめでたし」「ふふふ…」「あははは…」「がはははははは!」
彼らが去った後も、ロビーには抑揚のない笑い声がいつ迄も響き渡っていた。
「ねえ」「ねえってば」
「ん…」
誰かが俺を呼ぶ声がして、身体が優しく揺すられる。眠い目を擦りながら起き上がると、俺は周囲の眩しさに思わず眉を顰めた。窓に目をやると、外はどうやら朝の様だった。
「あれ、俺…」
「トムってば、すぐ寝ちゃうんだもん。起こしてもぜんっぜん起きないし。これじゃ泊まった意味ないじゃん!」
隣では寝巻き姿の慈実が拗ねたように口を尖らせている。付けっぱなしのテレビからは超常現象を取り上げたバラエティ番組の再放送が流れていた。大袈裟に驚くひな壇の芸人達の声が俺の眠気を完全に吹き飛ばした。
「ああ…そうだ。ごめんごめん。俺、いつの間にか寝ちゃってたんだ」
休日はようやく慈実とゆっくり過ごす事が出来たのに、連日の激務が祟って布団に入った瞬間に寝てしまったのだ。俺から誘っておいて直ぐに熟睡するなんて、幻滅されても仕方がない。だが、当の慈実は口調こそ荒いが、本気で怒っている様には見えなかった。
「あれ、何だっけこれ。昔何かで見たんだよなあ。キャピタル…。キャタピラ…?」
今もこうして慈実はテレビと真剣に睨めっこしている。画面には海外の農園で一部分だけ円を描くように作物がかり取られている様子が映し出されていた。
そもそもこの仕事は休日があることすら滅多にないのだ。多分慈実と出会ってから初じゃないかな。普段は慈実の会おうにも、残業後に日付が変わるギリギリの中で眠い目を擦りながら挨拶して終わるのがやっとだった。メッセージ上では毎日やり取りしていても、実際に長い時間一緒に居れるのは格別だった。それにしても…。
「キャトルミューティレーション」
「あ、そうだ、それそれ!…ねえ、何でにやにやしてるの」
慈実に指摘されて初めて、俺は顔がにやけている事に気づいた。
「ふふ、慈実がようやく素の自分を出してくれたことが嬉しくってさ」
会った時の慈実は、とにかく誰からも嫌われないように自分の周囲を分厚い壁で取り囲んでいた。自分を曝け出す事を極端に恐れ、相手に合わせ過ぎて逆に自分を見失っていたように思う。それがこうして自然体で寛いで、その上文句まで言えるまでになったなんて。
「ええ、これでも頑張って大分抑えてるのに…」
「なら俺といる時は抑えなくていいよ」
「そんな事したら嫌われるかもしれないじゃん」
「俺に気遣いは無用だよ。俺はありのままの慈実が好きなんだ」
「……何それ、そんなクサい台詞真面目に言う人初めて」
慈実はくすりと笑ったが、目には少しだけ涙を浮かべていた。俺は特別な事を言ったつもりはないけれど、もしかしたら今まで周りにそう言ってくれる人がいなかったのかもしれない。
でも、本当に特別な事を言ったつもりはなくて。俺に取っては当たり前の事なんだ。仕事が忙しくて、正直全く会えない。電話する時間もないし、プレゼントを買う余裕もない。先の予定も立てられない。たまに予定を入れても仕事で直ぐ駄目になる。普通ならよっぽどの高ステータスでもなければそんな男と付き合おうなんて思わないだろう。仕事しかなかった俺に、死んだように生きていた俺の人生に、彩りを与えてくれたのは他でもない慈実なんだ。
「ありがとう」
「何よ急に」
そう言いながら、慈実は照れたように笑った。
その笑顔が何よりも愛おしい。
だから、俺はこの先、どんな事でも受け入れよう。いい事も悪い事も、慈実がいない頃に比べたら、どんな事が起きたって最高なんだから。
気がつくと、俺はトンネルの前に大の字で倒れていた。一瞬全てが後遺症の見せる夢かと思ったが、俺の腕にはびっしりと掴まれた指の跡が青あざのように残っていた。
「嘘だろ…」
これは夢なんかじゃない。それはつまり、ここが死者の国であることが確定してしまうということだった。
「そんな筈ない。そんな訳がないんだ」
俺は頭を掻きむしると、大急ぎで夜染役場へと向かった。役場には人がたくさんいるし、集団催眠か何かで錯乱したホテルの住人に襲われたって言えば、助けを呼んでくれるかもしれない。トンネルの謎だってもしかしたら…。そうだ!きっとそうに違いない。急がなければ。みんなが追いかけてくる前に。
ここから役場へ行くためには、住宅街を通らなければいけない。あそこは嫌だ。村民達の伽藍堂の目が俺の心を騒つかせる。
だが今はそんなことを言っていられる状況じゃない。
「はあ…。はあ…。すーっ。はあーー。はあ…」
俺は走る。下を向いて走る。都会と違い、ぶつかる物も人もいない。車に轢かれる心配もない。ただ、舗装された地面に沿って道なりに進むだけだ。
しばらくすると、住宅街に入ったのがわかった。
下を向いても家の影が大きく伸びている。
トンネルからここまではそれなりに距離があったはずだが、疲労は少しも感じない。
「すーっ。はあああああ。すううう。はあああ」
息切れもしていないのに、深く呼吸しなければいけない気がして自然と呼吸が深く、長くなる。そうしないと、呼吸が止まってしまいそうで怖かった。
そういえば、今は何時なんだろうか。地震が起きてから、時間と空間の感覚が失われてしまった。辺りが明るいような、暗いような。距離が長いような、短いような。
時折バルコニーにいるのであろう人影が視界の端に映る。伸びたり縮んだり、右へ、左へゆらゆらと。シュレーディンガーの猫のように、俺が顔を上げるまで周囲の一切の事象が何一つ定まっていないみたいだ。
「くすくすくす」
上から誰かの笑い声が聞こえる。
「あれをみて。ほら、そこ。あれだって」
子どものような、大人のような、男のようで、女みたいな、中性的な声色だ。
「ねえ聞いて聞いて」
何かが俺の顔を上げさせようとしている。
「…さーん聞こえますかあ」
目の前にベッドに寝ている患者が見える。巡回の看護師が声をかけて反応確かめているようだ。静かな部屋に、患者の呼吸音と繋がれた機器の無機質な音が規則正しくリズムを刻んでいる。
「あれ、今少し動いたんじゃ」
「…さああん聞こえるうううう?」
看護師が患者の手を握ると、俺の手に温もりが感じられる。肩を叩かれると、俺の肩も揺れる。
違う。あそこにいるのは俺じゃない。俺はここにいる。
耳を塞いでも、頭の中に声が響いてくる。目を塞いでも、瞼の裏に映像が映し出される。
もうやめてくれ!
目と耳を更にキツく押さえつけながら、俺はがむしゃらに走る。それでも声と映像はどこまでもついてきて、脳裏に焼き付いて離れない。
「うっ」
俺は何かにつまづいて顎から勢いよく地面に体を打ち付ける。けれど痛みは全くなくて、起き上がって確認しても、体に傷一つついていなかった。
顔を上げるとそこはもう夜染役場で、いつの間にか俺を呼ぶ声も聞こえなくなっていた。
俺は役場に転がり込むと、カウンターから大声で職員を呼んだ。
「ヘブンズロード夜染に住んでいる宿木ですが!」
けれど、相変わらず誰1人として俺の方を見向きもしない。でもそれっておかしくないか?
「もしもーし!あのぉ!すみませーん!」
入って来た時に挨拶しないのはまだわかる。余所者には冷たいのもこの村の歴史を考えたら当然だ。でも、声をかけても無視するのは明らかに異常だろ。それにこんなに大声をあげているのに、ただの1人も顔色ひとつ変えないで仕事ができるだろうか?#まるで俺の事なんて見えていないかのように。__・__#
「おいっ!これならどうだあお前らっ!ほら!こっちを見ろおっ!!」
俺がどれだけ大声をあげても、強くカウンターを叩いても、職員が俺に気づくことは終ぞなかった。
「何で誰も返事をしないんだよ…。俺はここにいるだろ…。なあ…。誰か、誰か俺を、見ろよおっ…!」
俺はその場に音もなく崩れ落ちる。自分が死にかけていて、幽霊のような存在だという事実が俺に重くのしかかった。
どれくらいそうしていただろうか。遠くから聞こえた足音が段々と近づいてきて、やがて俺の目の前で止まった。
「どうが、じまじだが?」
顔を上げると、そこには吐き気を堪えてへの字の口をした上寺さんが立っていて、いつものように俺に話しかけてくれた。そうか、彼女がホテルの住人を担当しているのは、#死者が見えるからだったのか…。__・__#
「ああ…上寺さん…。俺は…俺はどうすればいい…?もう、やり直すことすらできないのか…」
普通なら不快に思う上寺さんの顔も、今は天使のように輝いて見えた。
「気づいだんでず…うえっ。ぞれなら、戻っだ方がいいでずよおっ」
上寺さんが思わず手で口を覆った。指の隙間からつうっと濁った液体が漏れ出して床に零れ落ちた。
「戻るっていっても、あのトンネルのせいで村から出られないんだ…。というか、出たとしてもどうやって帰ればいいんだよ」
例え俺が今辛うじて命を繋ぎ止めていたとして、それが一体何なんだ。どうやってこんな村まで来れたのか知らないが、仮に暗闇のトンネルを抜けられたとして、どうやって遠く離れた元の体まで戻れというんだ。ヒッチハイク?飛行機?それとも泳いで?…馬鹿馬鹿しい。どうせ俺が帰る時は死ぬ時だ。
「あなだは…余喘。だがら、引ぎ寄せられだ。ごごっ…は、夜染…。ぞういう場所っ」
意味がよくわからず、俺はしばらく言われた言葉を頭の中で反芻した。
「…は?余喘と夜染…。はは…洒落かよ…。何だよ、それ…。ヘブンズロード夜染だあ?ふざけんなっ!」
くそっ。このままいつ来るかもわからない死ぬ瞬間まで夜染で過ごせということか。
見上げると、目の前の上寺さんはいつもと変わらない表情で俺を見下ろしている。そこには哀れみもなければ蔑みもなかった。
「…っ」
上寺さんは出口を指差すと、もう限界とばかりに大慌てでトイレに駆け込んで行った。
「おうええええええええっ!!」
役場に響く粘りを帯びた叫びが、いつまでも俺の脳内にこびりついていた。
呆然として彷徨い歩いた俺は、結局ホテルの前に戻ってきていた。入居したての頃はあれほど輝いて見えたホテルは、蓋を開ければなんて事はないただの廃墟だった。
ここに戻った所で何もない。寧ろ、死者である事に気づかれたホテルの住人たちが、俺を捕まえて仲間にしようとしてくるだろう。
…でもそれでいい。もう、どうだっていい。これから先を幸福に生きるために決断した移住が、全てまやかしだったんだから。
ひび割れた入口を抜けると、薄暗いロビーで死者達が勢揃いで俺を待ち受けていた。
「やあ、みんな。俺を仲間にしたいのか?はは。そういやたまにみんなだけでこそこそ話してたことあったもんな」
みんなが、音もなく一歩前に出る。何故かみんなは笑っている。正気のない白い顔で笑っている。
「何で何も言わないんだよ。死人に口なしってか?ははっ。なあ」
かごめの童謡のように、俺は死者の輪の中心となる。これが仲間にする為の儀式なのか?全員違う人間なのに、誰も彼も同じ顔にしか見えない。
「…詠人。もう毒を吐かないのか?お前の小説、本当に楽しみにしてたんだよ。生意気だったけどさ、俺はお前のこと弟のように思ってたよ」
楽しかったなあ。散々毒を吐かれつつも、住人たちの中で1番話した気がする。
「…源さん、また酔っ払いながら色々話を聞かせてくれよ。源さんにはここに来てから本当にお世話になったよ」
源さんには何度も命を救われたし、悩みも沢山聞いてもらった。普段は飲んだくれているけれど、実の父親のように頼れる存在だった。
正面の2人は、俺の問いかけには応えずに相変わらず薄ら笑いを浮かべている。
「巌さん、博子さん。夕焼けを眺めるあなた達はとても素敵だった」
時折ハッとさせるように鋭い一言を発する巌さんと、何でも許してくれそうな優しいおばあちゃんって感じの博子さん。身なりも所作も上品で、理想の老夫婦だったな。
背後にいる2人も、きっと同じ顔をしている。
「佐々木親子。坊主は元気いっぱいで、母はそれ以上にお喋りだけど、時々鋭い事言ってくれるんだよな」
最初は暗く壁が感じられた佐々木母だけど、今では話し出したら止まらない1人マシンガントークもお馴染みだ。でも、基本的にどんな事も率先して助けてくれるんだよな。
あれだけお喋りだった佐々木母も、元気に飛び跳ねていた佐々木息子も、ただ、俺の両脇で佇んでいるだけだ。
「…鈴さん。俺、鈴さんと話すの楽しかったよ」
何でも昔話に例えて話をする鈴さんに最初はどう接していいかわからなかったけど、段々と打ち解けることが出来て、どんどん知りたくなっていった。不思議な魅力があったよなあ。多少なりとも力になれたなら嬉しいね。
輪が段々小さくなり、遂には点になった。みんなが俺になり、俺がみんなになっていくのがわかる。体がじんわりと暖かくなって、大いなるものの両腕に包まれて揺られている。それがまた心地良くて、段々と眠くなってきた。
〈ああ、これが、死ぬって事なのか。思ったよりも…〉
悪くないな。
「…トムさん。トムさん。いつまで寝てるのさ。起きてよ早く」
俺は馴染みある刺々しい声で目を覚ます。
「…おはよう詠人。何だか死んでる割に気分は悪くないな」
周りを見回すと、そこはかつてないほど豪華なロビーだった。先刻同様、ホテルの住人達が勢揃いで笑っている。
シャンデリアが柔らかに俺を照らし、壁や棚の調度品はどれも真新しく輝いている。床には色鮮やかな絨毯が敷かれ、美味しそうな料理の匂いと温泉の香りが俺の気持ちを高鳴らせた。
これが全盛期のヘブンズロード夜染か。みんなの顔も、先程とは打って変わって血色の良い#生きた人間の顔をしていた。__・__#
「いつまで寝ぼけた事言ってんの?トムさんは相変わらず能天気だなあ」
「トムぅ、何か勘違いしてねえかあ?」
詠人も源さんも、随分と満ち足りた顔をしている。それはきっと…。
「いや、だって、俺は取り込まれたんだろ、みんなに」
病室のベッドで死にかけだった俺は、今正式に彼らと同じ死者となった…はずだ。
「あらあら、まだ気づいてないのねえ」
「ああ…。何とも難しいものだ、自分というものは。私のように大切なものを忘れて、その上精神は宙を泳ぐ。その状態で何を以って自分を自分たらしめているのか」
安樂夫妻の話がよく理解できない。ただ一つ確かなのは、死にかけたせいで幽霊の存在が身をもって証明された事だけだ。そもそも俺は心と体が別々に分かれて夜染に来たけれど、一体あの時はどっちが本当の俺だったんだろう。
「結局、これもまた俺の後遺症が見せる夢?」
「もー、違うよおじさん」
ササキ息子が口を尖らせながら飛び跳ねる。
「トムさん、俺たちはトムさんが本当に好きなんだよ」
「いや、だから、好きだからこそ俺を仲間に…」
詠人は口に人差し指を当てて俺の言葉を制した。
「俺たちの時間は止まってるんだ」
そう言って詠人は卑屈な笑みを浮かべた。
「鈴さんは絵本を読み続けるし、俺は小説を書き続ける。…本当は嫌なんだ」
「嫌って、あんなに頑張ってたじゃないか毎日。最終選考にも残ったって…」
そう言い掛けて俺は思い出す。さっきエレベーターの中で見た詠人の凄惨な過去の映像を。
「その顔…。トムさんも見たんだろ?俺の過去をさ」
「それは…ごめん」
「あはは。なんでトムさんが謝るのさ」
「そうですよ!死者は語りたがりなんです!話したくて話したくてもう何もかもダダ漏れですよ。其処彼処に思念が渦巻いていたんじゃないですか?いいなあ。この村の由緒ある悲しくも壮大な歴史が今!トムさんのもとに!」
ササキ母が勢いよく会話に割り込んできて、止まる気配のない彼女を堪らず詠人が傍に追いやった。
「まったくあんたは…。ああ、そうそう。俺は大学も辞めてアルバイトもしないで一日中小説を書き続けても、選考に落ちてばかりだった。俺はただ、親に褒めてもらいたかっただけなのに、最後には親からも見放されて…。だから自殺した。それなのに、ここでは何度も書き続けなきゃいけない。何度も何度も何度も。永遠に」
よく見ると、ロビーにある詠人のパソコンの電源は入っていない。時間が止まっているって事は、新しい作品は永遠に生み出されない。それじゃあ意味のない作業の繰り返しだ。
「そんなの辛すぎる…。でも、どうして書かないといけないんだ?嫌なら別に止めたって…」
詠人が諦めたように首を振る。
「強い未練を残して死ぬとさ、人間それしか残らないんだ。だからこそ俺たちはここにいれるんだけどね」
「そうだ。結局我々はブリキの操り人形と同じ。
色んなものが抜け落ちて、トラウマに執着して辛うじてここに留まっているに過ぎない」
そう話す巌さんの首元にはどす黒い指の跡がはっきりと浮かんでいる。
「脳みそのないカカシさんと心のないブリキの木こりさんは悪い魔女の魔法で合わさってしまいました」
笑顔の鈴さんの手から、白紙の絵本が零れ落ちた。
みんなが好きでやっていると思っていた事は、実は死のきっかけになる程のトラウマだったのか。そんな事と知らずに俺はみんなと毎日毎日呑気にお喋りを…。
「俺たちの物語は何も進まない。酒で奥さんも子どもも失って、挙句体を壊して四畳一間でのたれ死んで、誰からも気づかれずに1人蛆にまみれた源さんは、飲みたくもないお酒を毎日毎日飲み続ける」
「あれは辛かったなあ。体が痒いの何のって」
無意識に源さんが身体をかきむしった。一瞬視界が歪み、大量の蛆に喰い荒らされた骨ばかりの姿が浮かび上がった。
「俺は飲むのが大好きだあ。なんてな」
逆さまにした酒瓶からは、お酒は一滴も落ちてこなかった。
「ごめん…俺、無責任に源さんに説教なんかして…」
「なあに、気にすんな。俺たちはよお」
「ええ、私たちはね」
「そう、誤解しないでよ。トムさんもトンネルの中に入ったならわかるでしょ?あんな暗闇の中を永遠に彷徨うより余程いいのさ」
みんなが詠人に同意するようにしみじみと頷いた。
「あの中は嫌だよなあ」
「オオカミさんのお腹の中は暗くてじめじめ」
「怖いよお。もう2度と行きたくない!」
確かにあのトンネルの中に長くいるのはどんなに強い人間でも耐えられないだろう。暗くてあらゆる感覚が失われて、もがいてももがいてもどうしようもなくて…。僅かな時間入っていただけで気が狂ってしまいそうな程だった。
「あれ?でも俺、何であそこから出られたんだろ」
よくよく思い返してみると、トンネルに入ってからの記憶が酷く曖昧だ。沈み行く俺を引き上げてくれたものがいるとでもいうのか?
「そんなのカンタンだよ!」
「トムさんトムさん、アレですよアレ!地獄にたらされ垂らされた蜘蛛の糸の如く私たちを引き上げてくれる史上の神なるもの!そうした非科学的な存在は普通の環境では信じられないで」
「ああ。幾層にも折り重なった怨嗟の闇の中で、我々にはそれに呑み込まれない大切な光があるのだ」
「ええそうね、だからこそ私たちは夜染にこられたのよ」
安樂夫妻とササキ親子がお互いを強く抱きしめ合った。
それは暖かくも不思議な光景だった。ササキ母は息子を、博子さんは夫の巌さんを手にかけた筈だ。病気、環境、D V、ストレス…。そこにやむにやまれぬ事情があったとしても、その事実は変わらない。それでもこうして何事もなかったかのようにお互いがお互いを思い寄り添っている事が、俺には理解できないと同時にある種美しくも見えるのだった。
死の果てにあるものは何なんだろう。愛?絆?家族?いつか俺にも分かる日が来るんだろうか。
「でも、俺にそんな人なんて…」
一瞬慈実と名乗る女の顔が浮かんだが、俺はすぐにその考えを否定する。あの女と俺にそれ程の絆があるのなら、やっぱり何も思い出せないし何も感じないのはおかしい気がするからだ。
「全く、こんな所まで来てまだぼーっとしてるなんて、相変わらず呑気だなあ」
みんなの笑い声で俺はハッと我に帰る。みんなの色彩が少し薄くなっているように見えて、俺は慌てて目を擦った。
「ま、だからこそトムさんにはみんな惹かれるんだけどね。トムさんが来てからの毎日は呆れるほど普通で」
「毎日が日曜日!」
「穏やかな日常!変化に富んだ日々!何て魅力的で素晴らしい響きなんでしょう!」
「怠け者の寝太郎はその時が来て動き出しました」
「大いなる意志の名の下になあ」
「ああ…今日も夕陽が綺麗だ」
「一体みんなは何の話を…うっ」
ここにきて、一際激しい頭痛が俺を襲う。何だよ、結局死んでも治らないのか、俺の頭痛は…。
俺は頭を抱えると、堪らず膝から崩れ落ちた。
「トムさん、それは頭痛なんかじゃないよ」
詠人が嬉しそうにそう言った。詠人のパソコン、源さんの一升瓶のように、俺のトラウマの引き金は頭痛だとでもいうのか?
「良かったわねえ」
「おおおい」
「おめでとう。どんな事があっても私のように自分を見失わないことだ」
俺の頭痛の事など気にも止めず、安樂夫妻がホテルを優雅に去って行く。もう夕暮れ時だ。きっと2人で夕陽を眺めに行ったのだろう。
痛みは治まるどころか一層激しさを増し、俺はその場に仰向けになって寝転んだ。
「ばいばーい!」
「聞こえますかああ」
「おお、遂に遂にですね!刺激的な日々に感謝感激雨霰です!」
次いでササキ親子が元気に手を振りながら走り去る。この後惑いの道を駆け降りて、親子2人仲良くアスレチックで遊ぶに違いない。
「さようなら、白馬の王子様。私も楽しかったですよ、トムさんとのお話」
悪戯っぽい笑みを浮かべた鈴さんが、寝転ぶ俺にそっと耳打ちしてエレベーターに消えていった。
途端に痛みは幸福感に成り変わり、俺の脳裏には鈴さんと暖炉で談笑する風景が浮かび上がる。
「寂しくなるけど元気でなあ。トムう、お前のこと忘れないぜ」
源さんが空の酒瓶を片手に豪快に去って行く。きっと冷蔵庫の側にある酒に合うつまみを取りに行って、これからロビーで晩酌を楽しむんだろうな。何となく、そこにもう俺はいない気がした。
視界の端を元気にリスがうろちょろし始めて、ますます俺の意識は曖昧になっていく。
何故かみんな、俺の頭痛を自分の事のように喜んでいた。
「じゃあね、トムさん。トムさんと過ごす日々、悪くなかったよ」
最後まで残っていた詠人が席に戻ってパソコンを立ち上げる。きっと文学賞に応募する為に小説を執筆するに違いない。一度くらい読んでみたかったな。
「聞こえますかああああああ」
目が掠れ、辺りの景色が段々とぼやけて溶けていく。いつの間にか、周囲から音が消えている。
「本当に…本当に羨ましいよ」
全てが消える直前、詠人がこっちをみて呟いた。その顔は初めて見る優しさに満ちていた。
光が、俺を包んでいた。
「おかえり」
すぐ側で誰かの声が聞こえた気がした。
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