もうすぐ優しい朝がくる
誰かの泣き声がした。泣きながら戻ってきて、いなくならないでと、懸命に叫ぶ。誰に言っているんだろう。こんなに必死な声なのに、何で届かないんだろう。かわいそうに。知らない筈の誰かの声を頭の片隅で聞きながら、俺はその声に同情した。なんて理不尽なんだろうと。身体はとても軽かった。軽すぎて、忘れてしまいそうだ。あるいは、もう忘れているのかもしれない。自分のこと。大切なもののこと。心を形作る全てを。
だけど、それでもたった一つだけ、覚えている。守らなければならないということを。何を?誰を?おかしな話だ。そんなことも思い出せないのに、俺は一体何を守ろうというのだろう。病的なまでに、守れ、守らなければならない、守り通せと警鐘を鳴らす。うるさい、うるさい。うるさい!
「……ゆ……が、は……なたが、守るから、ね」
曖昧な意識に途切れ途切れに聞こえてくる、慈しむような声。穏やかな声音のそれに、俺は何故か、危機感を覚えた。駄目だ。やめてくれ。何で、自分から傷つく道を選んでしまえるんだ。
頭の中を、女の子の影が過る。やがてそれは鮮明な輪郭を描いていく。穏やかな笑顔。掻き消えてしまいそうで。思わず叫んでしまいそうになる。だめだ、俺なんかを庇わなくていい!
こんな場所に閉じ籠っている場合じゃない。早く目を開けないと、早く駆けつけないと、守れない!
「彼方!!!」
「……ゆうが……?」
目が覚めて最初に見つけたのはやっぱり彼方で、長い睫毛に縁取られた白藍の瞳は潤み、赤く腫れていた。不甲斐なさから逃げる様、目を逸らした先で見えた景色は、瓦礫の下敷きなんかじゃなくーーー暁の空の中。……空の中?
「う、わああああっ!?!?」
思わず後退りしようとして、足を着く地面も寄りかかる壁もないのだと気付く。奇妙な浮遊感。そこで漸く自分と彼方が浮いてるらしいことを理解した。
「な、んだ……これ……?」
茫然と立ち竦んでいる……実際には浮いている……俺と同じ様に呆けていた彼方は、どうやら理由は違っていたらしく、数秒俺を見てから、ぱっと明るい顔になって、いつもみたいに飛びついてきた。
「あのね、お願いしたら、彼方たち空に浮かんじゃったんだよ」
「お願い……?」
誰に?そう問いかけ様とした時、ふと頭にの隅に何かが過る。目を覚ます前、何かと会話をした気がする。だというのに、幾ら思考を巡らせても思い出すことは叶わなかった。そう言えば、あれ程痛くて、沢山血を流したはずなのに、目に付く所に傷は一つもなかった。というか、傷が塞がっていた。服には鉄筋に貫かれた穴と血痕が確かに残っていた。
「……!そうだ、彼方、怪我は!?」
「んん……どこも痛くない、よ?」
言葉と同時に頭からつま先まで見渡して、はっとする。彼方はどこも痛くないという。嘘をついている風でもない。だけど胸元……心臓の辺りに、傷自体は跡形もないが、鮮やかな色の血痕が残っていた。焦って彼方の手に触れる。不思議なことに、手は暖かいままだった。困惑して顔を見ると、丸い目を一層丸くして、きょとんと首を傾げた。
普通なら、死んでる。だって、心臓を撃ち抜かれている。つまり、俺は。本当に守ってやらなきゃいけない時に彼方を守ってやれなかったということだ。
沢山の何故、が俺の中で渦巻いて、不甲斐なさとそれ以上の不安と安堵が生まれる。まるで二律背反だ。彼方の生を素直に喜べないだけの確かな疑念がそこにはあった。
「ねえ、雄鎧!これ、楽しいよ!」
彼方が暁の空を、鳥よりも自由に翔ける。翼なんかないのに。状況も忘れて彼方の近くに行こうと水掻きの要領で空中を掻くけど、彼方みたいに飛べないどころか……上下左右、どこにも進めなくて、俺は独楽みたいにその場でくるくると回転するだけだった。だけど、まあ。彼方が楽しそうならそれでいいのかな。それで……
ふ、と瓦礫の山になってしまった故郷を思い出す。俺の家族は、彼方の家族は、近所の人たちは、街のみんなは、どうしているのだろう。ここはどこなんだろう。
何より、故郷を襲ったあの軍人たちは……どこに?
「……」
たくさんのことを考え込んでいると、遠くで飛んでいたはずの彼方が顔の間近で、心配するように俺の顔を覗き込んでいた。それと同時に明け方の空は真っ暗な夜空に覆われる。瞬く星も見えないくらい静まり返った空。まるで、この空間には心があるみたいだ。慌てて大丈夫だから、心配しなくていいから、と声を掛けると和やかな表情と共に空は再び明け方のそれに変わる。そうして、嫌が応にも気づいてしまう。この場所は、彼方の心がそのまま現われる世界なのだと。
(そんなの、魔法でもなきゃできるわけ……)
魔法。おとぎ話によく登場する言葉。悪い魔女が操る未知の……異能の、力。おおよそ彼方とは結びつかないはずのおぞましいもの。だったら、この世界は一体何なんだ?彼方の致命傷と言ってもおかしくない傷痕はなんだ?……違う、そんなことはどうだっていい。俺は仮に彼方が呪われていても、異能者だとしても、彼方のそばにいる。それはこの先も変わらないんだ。だから、俺は考えなくてはいけない。彼方を守るために俺がしなくちゃいけないこと。するべきこと。してはいけないこと。避けるべきこと。
それらを考えながら、俺は頭の片隅で思い出していた。俺と彼方が本当に小さな頃出遭った、雷の異能者のことを。あの人は確かに一度死に、そして生き返って化け物となった。生きたいと嘆きながら死に絶え、世界を呪う力を与えられた。多分、あの時ただ一人、あの人の元に駆け寄ろうとした彼方と、彼方を止めようとしていた俺のことなんて気づいてもいなかったのだろう。
呪いをかけられていた、というならあの瞬間だ。そしてそれは、あの人のせいではない。救いを求める人を救ってやろうともしなかった人々の臆病さのせいだ。だとしたら、なぜ……彼方なんだろう。なんで、あの人に手を差し伸べようとした彼方なんだろう。なんで、臆病からあの人から彼方を遠ざけた……俺じゃないんだろう。
そんなのあんまりじゃないか。そう唇を噛み締めた時、何かが違うと、感じた。本当に、あの時呪いを掛けられたのは、彼方だけだったのか?自分の腕に残る血痕を見る。俺は……あの瓦礫の下で、死んでいたはずだ。彼方の傷のことをいうなら、俺自身も死んでいておかしくないくらい、血を失いすぎた。それに、誰かと話した気がする。
──化け物になれ。
遠い日の、あの人を思い出す。ここではないどこかで聞いた声と、苦しみながら死んでいったあの人の姿が、重なる。ああ、そうか。あれは、あの人だったのか。世界に裏切られたなら、世界を裏切ってしまえばいい。そんな憎しみを抱いたまま、あの人は誰に救われることもないまま死んでしまったのか。ああ、なんて。あの時俺が彼方を止めることなく彼方があの人を救っていたなら……あの人はあんな風に世界を呪わずに済んだのか。
だけど、きっと俺はそうと分かっていても彼方をあの人に近づけさせることはできなかったと思う。多分、この後悔は意味がないんだろう。俺は多分理解していても同じ選択をする。救えたかもしれない人を救わないことがどんなに罪深いことなのかは分からないけれど、自ら争いや危険の渦中に身を投じてしまう彼方だから、他の誰かが守ってやらなきゃいけない。それだけが、俺の生きる意味だから。
「彼方。俺、化け物になっちゃったみたいだ」
「……ゆう、が?」
化け物になったとしても、彼方を守ると誓った思いに揺るぎはない。誰にも彼方を傷つけさせない。だから、ここからは、離れなくちゃいけない。理由を告げたら、きっと彼方は悲しむだろう。だから、俺には、それを告げることができないけど。それでも、何に変えてもお前だけは、守るから。
「……ごめん。お願いだ。俺と、一緒に来てくれるか?」
言えば、彼方は断れないことを知っていた。だからこそ、卑怯だと知っていてもそう言わずにはいられなかった。彼方を失うわけにはいけないのだ。それは、彼方のためではなかった。他ならぬ俺が、彼方を失っては生きていけないと、情けなく怯えている為だった。その臆病に気づいてなのかは分からない。だけど俺の言葉を聞き終えて、彼方は静かに、頷いた。
Yuuga02
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