第66話 米谷幸介 ー 3


「米谷幸介」


 呟くように、清水さんはその名を口にした。


「それが君の本当の名前だということも、僕たちは知っていたんだ。知っていて、敢えてそれを口にしなかった。それが、君にとってのパンドラの箱であることを、重々承知していたんだ」


 幸介は笑った。


「パンドラの箱……ですか」


 嘲笑だった。言葉の間に思考したのは、敏明さんとの会話の中で浮かび上がったもう一つの疑問のことだった。


 下げられた頭を見て、思った。きっとこの人は、いや、この人たちは、その疑問に対する回答を持っているのだと。


 尋ねることを心に決めるまで、そう時間はかからなかった。


「本当にそう思ってますか?」


「……どういう意味かな」


「おかしなことは、最初から僕の近くにあったんです。まずは森の魔獣。彼らが命じられたのは、被害者の殺害と心臓の運搬。ならばなぜ、彼らは僕を襲ったのか。敏明さんは僕があの現場にいたことを知りませんでした。つまり、仮に敏明さんが魔獣の有効範囲内にいたとしても、彼らはそもそも僕を襲うよう命じられていないんですよ」


 間髪入れず、幸介は言葉を継ぐ。


「それから入学式の日、はーちゃんがどうして僕を見つけられたのか。新入生は二百人以上いました。上級生に新入生名簿が配られているわけでもなし、いくら親しかったとはいえ、六年も会っていなかった人間を、その中からピンポイントに見つけ出せるとは思えません。だから思ったんです。目印があったんじゃないか、って」


「……」


 清水さんはなにも言わなかった。故に、幸介からそのワードを告げた。


「魔力ですよ。はーちゃんが魔獣であることを前提に成り立つ、それが唯一の仮説です。混濁状態に陥った魔獣が本能的に魔力を求めるのなら、魔獣には本来、付近の魔力をある程度察知する能力が備わっていても不思議じゃない。森の魔獣も、はーちゃんも、行動の原理は同じだったと考えれば説明がつきます」


「……彼らが、君の魔力に惹かれて行動を起こしたと。そう言いたいわけだ」


「根拠はもう一つ。でもこっちは、僕よりあなたたちの方が詳しいんじゃないですかね」


「ほう」


 反応と共に、清水さんの瞳が据わった。


「十年前の事件です。僕の元の名前を知ってるぐらいですから、無理心中が世間向きの情報だってことぐらい、当然掴んでますよね。いや、あなたたちは掴んでいなければおかしいんだ。なぜならあれは、ただの事件じゃない。魔術による事件なんだから」


 助手席から、長い息を吐く音が聞こえた。


「気付いてたのか」


「思い出したと言った方が正しいですね。敏明さんの使った魔術式。あれと似たようなものに、見覚えがあったんです。それが、十年前の現場だった。あの人……父の恋人は、魔術式と僕を使って、なにかの魔術をしようとしていた。でもそれに失敗して、命を落とした」


 脳裏を過ったのは、光の中で風船のように膨れ上がり、やがて爆発四散した女性の姿だった。


 その光景を、幸介は霞みゆく意識の中で見ていた。薬を盛られていたのだろうか。故に記憶は曖昧だった。しかし、原因と結果が明確に結びついた今、これだけは自信を持って断言できた。


「僕はあの人を殺してない。つまりあの事件は、心中事件じゃない。でも、それを今更世間的には証明できない。だったらせめて知りたいんです。僕の魔力にあるもの、それはなんですか? あなたたちが本当に掴んでいるもの、それはなんですか?」


 語気を強めた言葉は、甲高い音となって狭い車内に響き渡った。


 清水さんは視線を伏せた。薄闇の中で、その表情ははっきりと確認することができない。やがて彼は顔を上げた。天井を見つめ、大きく息を吐き、告げるように言った。


「わかった。教えよう」


 そして、懐から取り出した拳銃の銃口を、幸介の額に突き付けた。


「だがその前に、こちらの質問にも答えてもらおうかな」


【次回:米谷幸介 - 4】

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