第65話 米谷幸介 ー 2



 十年前、一件の事件が起きた。


 舞台は、宮城県北部の小さな地方都市。登場人物となったのは、そこに住む一組の父子と同居人の女性。女性は父親の恋人であり、幼くして生みの親を亡くした子供にとっては、母親代わりのような存在だった。


 三人は傍目から見てもわかるほど仲睦まじく、父親と女性の結婚は秒読みと近所でも評判の家族だった。


 事件が起きたのは、からっ風が冬の到来を告げた十一月のことである。


 同居人の女性が子供を部屋に監禁し、無理心中を図ったのだ。


 動機については、様々語られることがあった。父親の浮気説、家庭内の不仲説。女性が怪しい宗教にのめり込んでいたという話も出回った。


 しかしそういった憶測的な情報よりも、世間を賑わせたのはもっと確定的な情報であった。


 女性が殺されたのである。


 監禁し、殺害する直前まで至ったはずの、子供の手によって。


 警察の判断は、無理心中の末の正当防衛ということになった。見解を裏付けるための証拠も見つかったと発表されている。


 そうして遺体は回収され、捜査員が引き上げ、事件は解決した。否、解決したことにされたのだ。


 事件による本当の苦しみを、世間は残された父子の元に置き去りにして。


 昨日まで普通に接していたはずの友人が、言葉を交わさなくなった。怖がるようなよそよそしい瞳が、子供を見た。声をかけても、気付かないフリをして避けられるようになった。


 そして忌避の感情は、子供の友人だけに留まらなかった。むしろ大人の方が顕著であった。


 関わらない方がいい。目を合わせるな。町を歩くだけで、そんな言葉が耳をついて聞こえるようになった。


 やがて、父親は仕事を辞めた。違う町に引っ越すのだと、子供に言った。


 しかし引っ越した先でも、同じような世間の目が彼らをつけて回った。


 また父親が仕事を辞めた。引っ越した。今度は名字が変わることになった。


 そこまでくると、子供にも理解できることがあった。父親は仕事を辞めたのではない。辞めさせられたのだ。自分のせいで。


 自分があの女性を殺してしまったせいで。


 自殺を考えたこともあった。刃物は怖かったから、飛び降りることを選んだ。


 深夜、大きな橋の欄干に登って、眼下の水面を見据えた。しかし不思議なことに、それ以上先に足は進まなかった。無理やり体を動かそうとしても、見えない力に押し戻されるようにして、小さな体はコンクリートの上に転がった。


 やがて父親がやってきた。馬鹿野郎、と、大きな声を上げて子供を抱きしめた。父親は泣いていた。思えば、彼の涙を見たのは、それが最初で最後だったような気がする。


 それから小田原に引っ越した。ようやく一人、友達ができた。今度は少しだけ長く同じ土地にいられた。けれどもまた引っ越すことになった。ただ一人の友達に挨拶もできず、交わした約束さえ置き去りにして、別の土地へ移った。


 それからも引っ越して、引っ越して、引っ越して。


 子供は高校進学を機に、初めて過去に住んだ土地へと帰ってきたのである。


 たった一つ。たった一人の友達との、ほんの些細な約束を叶えるために。


【次回:米谷幸介 - 3】

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