第10話 白い少女 ー 5

「なあ、さっき通信してたあんたの仲間、ここに来るのか?」


「その予定です。位置情報は常に共有してありますので、合流にそう時間はかからないかと」


「だったら、他に一人、保護を頼みたい人がいるんだ」


「保護?」


 少女が顔を上げ、幸介を見る。


「一緒に森に入った女の子がいるんだ。といっても、向こうは見晴台みはらしだい……あー、多分この辺よりもっと海寄りの展望台に向かったんだけど。さっきの化け物は逃げたわけだし、万が一遭遇したらって思う……と―――」


 話の途中で、幸介の言葉は途切れた。しかし、幸介自身が意図して言葉を切ったわけではない。少女を見下ろしていたその視界の先に、蠢くものの姿を認めてしまったのだ。


 瞬間、脳裏を過ったのは、まさか、という思考だった。


 背筋が凍るような殺気に震えながら視線を上げると、盛り土の上に転がっていたはずの狼が、少女の後方から猛スピードでこちらへ向け突進してくるところであった。


 危ない。そう叫びたい気持ちはあったが、言葉は咄嗟に口をついて出てはくれなかった。


 代わりに、少女の体を思い切り引き寄せて身を倒した。倒れた先にあるものが土か岩かなどと、そういうことは考えられなかった。


 思考を満たしていたのは、ただ少女を守らなければならないという、至極単純な衝動であった。


 そして運がよかったのか、脅威が頭上を過ぎ去った直後、幸介が倒れ込んだのは柔らかな草場であった。


 しかし運の悪いことに、そこはちょっとした斜面にもなっていた。勢い余った幸介の体は、少女を抱えたままゴロゴロと斜面を下り始めていく。


 頭が揺れる。世界が回る。胃酸が腹の辺りで掻き混ぜられて、饐えた匂いが口腔内にせり上がってくる。


 腕と、背中と、脚と。とにかく体中が痛かった。パンツ一丁で地面の上を転がっているのだから当たり前だ。


 しかし残念なことに、転がっている当の本人にはそういうことを冷静に分析できるだけの余裕もない。故に幸介が意識できたのは、少女を抱きしめた腕を決して離さないということと、見開いた瞳の先に写るものを、ただ見続けるということだけであった。


 海色。


 目にしたそれを、幸介は無意識のうちにそう認識した。白い月の光を纏い、星の輝きを散りばめた水面のようなそれは、丸く見開かれた少女の瞳であった。


 幸介は少女を見ていた。そしてそれは少女も同様であった。光を蓄えた海色の中に、幸介の姿を映していた。


 二人の瞳が見開かれていたのは、予想だにしていなかった狼の襲撃に驚いたわけでもなく、ましてや互いが互いの瞳に魅入られていたというわけでもない。


 転がるうちに意図せず重なってしまった唇の、その暖かな感触に動揺していたのだった。


 硬い地面に体が打ち付けられる衝撃と同時に、それはやってきた。


 意識がふわりと宙に浮かび、自分を含めた世界の全てが溶けていくような感覚。端的に表現すれば眩暈にも似たそれは、しかし幸介にとって、本質的にもっと別のもののように思えてならなかった。


 頭はもう揺れていなかった。いつの間にか、背中は地面の土のひんやりとした冷たさを肌で感じていた。薄れゆく意識の中、視界に満ちていたのは白だった。


 白と。


 黒と。


 鎌。


 ああ、こんな光景を自分はどこかで見たことがある。確かそいつは闇より真っ黒なローブに身を包み、武器にしては大柄すぎる鎌を携えてやってくるのだ。場所はそう、病院とか廃墟とか、とにかく人の死にそうなところ。


 そうだ、思い出した。アニメで見たんだ。良い子にしてないとそいつがやってくるぞ、と父親が言ったのだ。まだ子供だった幸介にとって、その言葉は言葉の意味以上に怖いものだった。悪いことをすればそいつがやってくると信じていたのだ。


 けれどもそいつはやってこなかった。当時クラスの誰よりも、いや、大人たちよりも悪いことをしたはずの自分のところに。


 だからそれ以降、幸介はその存在を空想の産物として認識するようになった。アニメの世界はあくまでアニメであり、現実には存在しないものだと自分で自分に言い聞かせて生きてきた。


 しかしだからこそ、眼前の少女の姿は津山幸介にとって、マリョクやマジュウといった言葉以上にあまりにも信じがたい代物であった。


 死神。


 意識が途切れるその間際、存在の名称が脳裏を過り、そして泡のように消えていった。


【次回:拘束 - 1】

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