第9話 白い少女 ー 4

 ようやく声を出せるようになった幸介は、彼女に尋ねた。


「追わないのか?」


「追えば、あなたを一人にすることになりますが、それでも構いませんか?」


「……」


 また言葉が出なくなった。今度は返す言葉を失ってしまったのだ。さっきの今でこの状況である。森の中で再び一人にされてしまうことは、幸介にとって可能ならば避けたいところだった。


 諦めにも似た溜息が出る。降参とばかりに両手を挙げてみせると、少女はそれで納得したのか、よろしい、と告げて幸介の側に腰を下ろした。そして土に塗れた幸介のシャツに手をかけ、それを脱が―――


「―――って、ちょっと待て!」


「はい?」


「なんで服を脱がせる」


「外傷の確認です。問題ないと思いますが、一応、念のため。はい脱いで」


 脱げるか!


「いや、大丈夫だから。ちょっと転んだだけだし」


「それを判断するのはあなたではありません。人間、自分ではたいしたことはないと思い込んでいても、後々重症が発覚することはよくあります。それに、もしもあなたの怪我を見過ごしたとあれば、それは私の責任になってしまいますので」


 どうかご協力を。少女は淡々と言葉を継いだ。音を紡ぎながら、幸介のシャツを捲り上げた。


 待ったをかけたのは幸介だった。わかった、わかったから。そう繰り返して彼女を制した。せめて自分で脱がせてくれ。懇願しつつ少女を避けるように身を反らし、自らシャツを脱いだ。


 春とはいえ、まだまだ冷たい夜風の下に肌が曝される。それは恥ずかしいを通り越して、ちょっとした屈辱のようにすら思えた。しかし少女は幸介の感情など我関せずといった様子で、食い入るようにその体を見つめ、時には指でなぞり、押し、やがて納得したように首を縦に振った。


 震える声で、幸介は言った。


「これで満足?」


「はい。見たところ問題はなさそうです。では次、下半身もお願いします」


「え」


「下半身を見せてください」


 聞き間違いであることを願った。だからこそ、幸介は間抜けな声を発してまで少女の言葉に反応した。


 しかし聞き間違いではなかった。少女は二度目の言葉を紡いだ。下半身を見せろと、氷のような美声で堂々と言ってのけたのだ。


「……拒否したら?」


 念のため尋ねてみた。すると少女は無言のまま、幸介のズボンに手を伸ばしてきた。


 途端、幸介の口からは声にならない声が出た。体を引き摺るように後退り、少女から更に距離を取る。


 念には念を押して、再度訊いてみることにした。それって必要? 少女からはなんの躊躇いもなく答えが返ってきた。必要です。


 頭の中で音がした。しかしそれは警鐘と呼べるほど緊迫したものではなかった。チーン、と、あまりにも情けない音が、意識の奥底で尊厳の終焉を告げたのだ。


「……せめてズボンだけで許してください……」


 肩を落として発した言葉はせめてもの抵抗だった。いや、抵抗と呼ぶには虚しすぎるほどの妥協案であった。


 少女が息を吐く。困ったような視線を投げて、言葉を紡ぐ。仕方ないですね。その言葉をありがたいと思ってしまったことが更に虚しく感じられて、幸介はガクリと頭を垂れた。もういっそ殺してくれ。死の淵に瀕した後としてはあまりにも不謹慎な言葉を、それでも口にしてしまいたい衝動に駆られていた。


 早く。少女に急かされ、ズボンに手をかける。割と盛大に転んだはずだったのに、膝を立てて立ち上がった際も、手近な岩場に腰掛けた際も、不思議と体に痛みを感じることはなかった。打ち所がよかったとか、上手く受け身を取れたとか、そういうことかもしれない。


 しかしおかげで、パンツ一丁の間抜けな格好ではあったものの、緊張と焦燥感に満ちていた心に僅かばかりの余裕が生まれた。太ももの状態を診ていた少女を見やり、幸介は問いかけた。


【次回:白い少女 - 5】

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