第8話 白い少女 ー 3

「―――っ⁉」


 促されるままに、頭を下げる。直後、幸介の頭のあった場所を少女の右脚が一閃した。ギャッ、と声にならない声が聞こえたのはその瞬間の出来事で、視線を動かすと、吹っ飛ばされた狼が盛り土に体を打ち付けて体をビクンビクンと震わせていた。


 先ほどまで少女が交戦していたものとは別の個体だ。


「……死んだ?」


 恐る恐る尋ねる。


「いえ、まだ生きてますよ」


 アッサリと、少女は言い放った。しかし生きているということはあれではないか。先ほどの狼のように、再び立ち上がって襲ってくるということではないのだろうか。


 大丈夫です。不安げな幸介の表情を見て、少女は呑気に言葉を継いだ。


「コアを破壊しないように蹴りましたが、背骨を砕いたので、しばらくは動けないはずです。それに一頭は生け捕りにと言われましたから、ちょうどいいです」


 いったいなにがちょうどいいのだろうと思った。しかし少女の言葉の意味は、すぐに幸介たちの眼前に群れを成して現れた。


 森と夜が生み出した闇一面を埋め尽くすほどの目、目、目。


 殺気を纏った低い唸り声は、風と木擦れの音をかき消すように幸介と少女の周囲一帯を囲っている。


 ふと思い出したのは、少女の通信相手の言葉だった。声は、複数体同じ規模のマジュウがそっちに向かってる、と言っていた。しかし闇の中に満ちた殺気の数は、複数体などという言葉で語り切れるほどの数ではない。


 頭の中で誰かが警鐘を鳴らした。今度こそヤバい。本気でヤバい。しかし一縷の希望を胸に視線を投げた少女は、変わらず呑気な口調で言葉を紡いだ。


「一つお願い、いいですか?」


「な……なに……?」


「後で千明ちあきが事情聴取したがると思うんです。なので、この場は死なない程度に、そこでじっとしていてください」


「え―――」


 言うが早いか、少女が駆け出す。目にもとまらぬ速さとは、まさにこのことであった。


 一瞬にして狼の集団に接近した少女は、最初の狼を倒したのと同じ要領で相手の首を折り、行動不能にしたところでその体内に細い腕を突き刺す。最初の狼と異なっていたのは、水晶を取り出さなかったことであった。代わりに、腕を引き抜かれた狼の体内から、光り輝く砂のような物体が噴出した。彼女に襲われた狼が息絶えたところを見るに、その体内であの水晶を握り潰したということだろうか。


 しかし少女は倒した狼には目もくれず、防衛本能からか襲い来る他の狼たちを次々と薙ぎ倒しては、体内に腕を突っ込み、光り輝く砂を噴出させていく。


 武器も、道具も、その一切を使用せず。素手で。


 まさに圧倒的であった。


 同時に、人間業でもなかった。


 多勢に無勢という言葉がある。単純に、多人数の相手に対して少人数では勝ち目がないという意味だ。しかし少人数どころか、少女は一人であった。たった一人の、しかも腕っ節一つで、多勢という言葉以上に多勢な狼たちを千切っては投げていく。


 途中、狼の一部が動きを変えた。少女ではなく、幸介に目標を再度変更したのだ。しかし幸介は、自分が狙われていることに気付くことすらできなかった。倒した狼を踏み台に加速した少女が一瞬のうちに幸介の元へと舞い戻り、接近する狼を返り討ちにしてのけたことで、ようやく自らの身に及んだ危険を認識することができたのだ。


 獣の血に塗れた少女の腕が、眼前で揺れている。


 幸介は言葉が出なかった。礼の一つでも言うべきなのだろうとは思ったのだが、それ以前にあまりにも突然すぎる出来事故に、思考が現実に追いついていなかったのだ。


 浅い呼吸を携えながら、幸介の瞳は、ただ眼前の少女の腕を見つめていた。拳の先から滴り落ちる獣の血を見つめていた。


 ポタ、ポタ。血が滴る。ドクン、ドクン。緊張と興奮に苛まれた心臓が、重い音を立てる。


 狼たちの動きが鈍ったのはそのときだった。先ほどまでの噎せ返るような殺気が消え失せ、低い唸り声も止んでいた。


 風の音にじりじりと警戒心を撒き散らしながら後退したかと思えば、雲の子を散らすように逃げていく。野生の本能というやつだろうか。いかに化け物じみた狼たちであっても、敵わない相手に無理矢理突っ込んでいくほど無謀ではなく、どうしたところで自分の命は惜しいらしい。


 少女はその場を動かなかった。ただ黙ったまま、じっと去っていく狼たちの後姿を見つめていた。


【次回:白い少女 - 4】

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