第6話 白い少女 ー 1


 走って、走って、それからとにかく走った。右も左もわからない闇の中を、木々の間から僅かに射し込む月の光を頼りに駆け回った。


 最初の一歩を踏み出した際、勢い余って懐中電灯を落としてしまったことが痛恨のミスであった。強い光を手放したことで、一時的に方向感覚を見失ってしまったのだ。


 人家のあるところまで出て助けを求めよう。咄嗟に方針を固めた思考回路は、しかし闇に慣れていない視界の中で、曖昧な方向へ足を踏み出す結果となってしまった。


 来る際は数分程度にしか感じなかった獣道の距離が、どうしてか嫌に長く感じられた。だが実際、幸介はそれだけの距離を走り回っていたのだ。自分ではまるで意識しないうちに、森の奥へ、奥へと足を踏み入れていく。


 月の光は遠く、スマホを見るだけの余裕もない幸介には、どこをどう走っているのかもわからない。わかることがあるとするならば、黒い生き物は確実に自身の背後に迫っており、アレに追いつかれたらまず命はないということぐらいだろうか。


 恐怖と涙でぐしゃぐしゃになった顔を携え、幸介は走った。


 必死の形相とはまさにこのことである。


 と同時に、高台に陣取ったはーちゃんのことが脳裏を過った。


 まさか彼女も自分と同じ状況に陥ってはいないだろうか。そんな一抹の不安が蠟燭の火のように心の片隅に灯り、いくら水をかけても消えない火種のように燻り続けた。


 仮にはーちゃんがアレに遭遇してしまったとして、きっと彼女は逃げ出すことすら叶わないだろう。いくら以前に比べて多少元気な体になっていたとして、それだけの無理ができる状態ではないことぐらい、再会してからの日々で幸介にもなんとなしに察しがついていた。


 だからこそ悔やんでしまう。なぜ、無理矢理にでも彼女を引き留めなかったのかと。


 願ってしまう。せめて彼女だけはアレに遭遇しませんように、と。


 それは、まるで今わの際の願い事だった。しかし現実として、幸介にはもう走り回れるほどの体力も残っていないこともまた、事実であった。


 当然だ。人間の体は、よほどのトレーニングでも積んでいない限り、長時間全力疾走を続けられるほど便利にはできていない。しかもそれが足場の悪い森の中ともなれば、条件は更に悪化する。必死の形相はあくまで形相でしかなく、極限を超えた身体能力を引き出すドーピング剤ではないのだ。


 突然、視界が回った。


 右足の脛に鈍痛を感じたあたり、なにかに躓いたのだろうということだけはわかった。それが木の根っこなのか、はたまた別の誰かの死体だったのかはわからなかったけれど。


 とにかく、ついに体力の限界を迎えた幸介は、もつれるようにして地面に倒れ込んだ。息をしてみれば、咥内中に充満した血の匂いに加えて土と草の匂いが濃くなった。もはや、伏した体を回して空を仰ぐだけの気力も残ってはいない。


 僅かな期待として、直前で連中が自分の追跡を諦めてくれたことを願ったが、期待はどこまでいっても期待にしかならず、直後に色濃い獣の臭いと共に背中に衝撃が走った。


 振り返って見やるまでもないが、敢えて幸介は視線を向けた。そこにあるものの存在を、せめて瞳に焼き付けたかったのだ。


 これから自分を食い殺すであろう存在。それはやはり、真っ黒な姿をした狼のような生き物だった。しかしただ毛が黒いというわけではない。闇の中でその姿は朧気であったが、黒い靄のようなものが狼を包み込んでいると表現した方が正しいように思えた。


 半開きの口から滴り落ちる血液は、その個体が先程まであの死体を食していたことの証明でもあった。血と、草と、土と、獣と。様々なものが幸介の周囲に満ちていた。


 死ぬなんて、こんなものか。


 幸介は思った。


 それは自分でも恐ろしくなるほどに、達観した感情であった。


 狼が口を開ける。月明りに照らされて牙が光る。自らの命を奪うその切っ先は、確実に首元を狙っているように思えた。しかし死を覚悟したその瞬間、幸介の脳裏を過ったのは走馬灯ではなく、ましてやはーちゃんのことでもなかった。


 苦い記憶。組み伏せられ腹這いになった自分と、それに手をかけようとするあの人の顔。まったく、嫌なものだと思う。死の淵に瀕してまで、狼の姿に重なったものがそれだったのだから。


 もはや恐怖ではない。しかし諦めといった感情とも異なる。単純に思い出したくもない記憶を前にして、幸介は瞳を閉じた。


 完全な闇が、視界を覆う。


 眠りにつくように、闇の中で、全てが終わることを願った。


 だからこそ、背中の存在が失われたことに気付くまで、数秒の時間を要してしまった。


「―――え?」


 ドン、と音がして、幸介は瞳を開けた。相変わらず、血と草と土の匂いはそこにある。しかしその一方で、獣の臭いだけがどこかに消え失せていた。首を回したのは条件反射だった。音のした方向へ、視線を投げた。


 大木の幹の根元に、狼が倒れている。


 そして狼と幸介の間を遮るように、銀色の光が舞っていた。


【次回:白い少女 - 2】

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