第5話 オカルト研究会の二人 - 4

 最初はイノシシでも出たのかと思った。


 大きな影が視界の端を過ったので、その方向にライトを向けて確認しようとしたのだ。


 しかし影の正体はイノシシではなかった。イノシシどころか、パッと見で体長二メートル弱はあろうかという巨大な狼だった。正確には狼のように見える黒い生き物だが、とにかくそいつらは群れを成すようにして、集団でなにかを貪り食うように蠢いていた。


 後出しじゃんけんのような考え方だが、この時点でもしも逃げ出すことができていたのだとしたら、その後の状況は多少なれども好転していたのかもしれない。


 しかしながら、幸介はすぐにその場を動くことができなかった。狼のような黒い生き物が群がっている場所。その中心にあるものの正体が気になってしまったのだ。


 こういう感情を、俗に好奇心と呼ぶのだろうか。そのときの幸介には、はーちゃんがオカルトに抱く感情も、自身が眼前の黒い生き物に抱く感情も、似たようなものに思えてならなかった。その行動を、人として当たり前に抱く衝動と解釈することで、自らを無理矢理納得させようとしたのだ。


 今になって思う。なんと愚かな行為だろうかと。


 そして一歩を踏み出した瞬間、幸介は後悔するだけの時間を失うことになった。


 最初にパキっと音が鳴った。踏み出した足が、地面に落ちていた太い木の枝を踏み抜いたのだ。お決まりのような展開に肝を冷やしながら視線を上げると、ライトを向けていた先で、黒い生き物たちの顔が一様にこちらを向いていた。


 気付かれた。好奇心に満ちた脳が危険信号を発するのに、そう時間は必要なかった。しかしその段階に至ってもなお、幸介の足はその場を動くことができずにいた。いや、動かないのではない。動けなかったのだ。身を起こした黒い生き者たちの足元に、それが見えた。


 引き裂かれた服の破片。だらんと力なく地に伏した腕。吹き出した血液と臓物に塗れた苦悶の表情を確認するまでもなく、そこに転がっていたのは人間だった。


 冗談かと思った。


 ドッキリかと思った。


 大成功のプラカードを持ったはーちゃんが、カメラを携えてその辺から現れてくれることを期待している自分が確かにそこにいた。


 しかし現実は、想像以上にリアルな緊迫感を纏って眼前に聳え立っている。


 黒い生き物の瞳は、確かに幸介の姿を捉えていた。それもライトを向けた際に見えた数頭ではない。十頭、いや二十頭もしくはそれ以上。腕が震える度に動く懐中電灯の光の先で、連中は闇を埋め尽くすように佇んでいた。そしてその中の一頭が、口になにかを咥えていた。ぼんやりとしたシルエットの中で、それは僅かに拍動しているように見えた。


 グルルル、と黒い生き物の中から唸り声が上がる。それを合図にするように、幸介の脳裏にようやく『逃げる』という選択肢が過った。


 はーちゃんはいない。

 たぶんドッキリでもない。

 これはヤバい。


 思考がそれらの状況を受け入れることで、幸介は初めてその身に及ぶ危険を危険として認識することができたのだった。


 心臓が痛いほどに高鳴っている。呼吸は浅く、喉の奥がべったりとした粘液に纏わりつかれたような感覚に満ちている。

 

 ヤバい。思考で理解しているはずのことを、改めて脳内で誰かが言ったような気がした。ヤバいヤバいヤバい。声は脳内で増幅し、やがて体中に満ちていった。膝が震えている。腕も震えている。しかしそれでも、脚は思うように動き出してはくれなかった。恐怖と焦燥感に満ちた心理状態がそうさせたのかはわからない。だが結果として、スタートの号令を切ったのは低い音で吠えた黒い生き物の声であった。


 それは、『逃げる』という表現を使用するには、状況がやや異なる。


 『追われる』という立場に幸介は陥ったのであった。


【次回:白い少女 - 1】

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