第5話

 私の五感は人のそれより数倍優れる。

 だから、突如世界に現れたその気配に思わず背筋が凍った。


「な、なんなの。あんな生き物が本当に存在していいの?」


 私は高い木に駆けあがった。

 まだ距離はある。でも、そこからはっきりと姿が見えた。


「あ、あぶないですよ」


 娘は私が落ちないか心配している。

 次の瞬間、空が震えた。思わず耳をふさぎ木の天辺から落ちてしまった。

 木から落ちた程度で怪我などしないが、娘に見られてしまった。

 慌てるも、娘はがくがくと震え蹲っていた。


「い、今のは一体? 何か鳴き声のように聞こえました」


 娘は泣きそうな顔で私を見上げる。

 まだ距離はあるとはいえ隠しておくわけにもいかない。


「少し目をつぶって。そして、落ち着いて『あれ』を見て」


 私は娘を横抱きにすると、一息に木の天辺へ飛び乗った。

 を確認させるためだ。


「な、なんですか。あれ……」


 素直に私に従った娘は目の前の光景に口をパクパクとさせ、恐怖に顔を歪めている。

 娘が怯えるのは、木の上にいたからではない。


「なんで、龍があんなところに」


 生物の頂点がそこにいた。それを目に収めたからに他ならない。

 遥か遠くに見えるその巨体。宙を我が物顔で飛び回る空想の怪物。


「ああ、落ち物がすべて喰われている」


 私の目にははっきりと見える。

 龍は空を自在に駆け回り、落ちてくる獲物を次から次にその口に運んでいる。

 

「あ、あの。ここにいたら見つかりませんか? 降りたほうが……」


 震える声で娘が言う。そして、龍と目が合い、悟る。

 化け物の格が違いすぎる。あの口に一飲みされれば、私でも命はない。

 

 私は木から飛び降りた。二人で慌てて集落に戻る。

 住民たちが私たちの様子に驚き事情を聴いてくる。

 娘がぽつりぽつりと言葉を発し、住人に説明をした。

 全員が青ざめている。


 集落は捨てる外ない。龍が餌を求めやってくるのは時間の問題だ。

 全員が森の中に少ない荷物だけで四方へ逃げ始める。

 娘と私は二人で逃げた。そのまま数日間、震えながら森の中で過ごした。


 龍の目を盗んで落ち物を探すが、ほとんどない。

 落ち物はすぐに龍の餌食になり、降ってくるのは野菜や木の実程度。

 幸い私に食事の必要はない。娘の分だけなら何とかなった。

 血の渇きもこの恐怖に比べたら大したものでもない。


「あなたも、食べてください」


 二人で逃げ回る生活。何日も飲まず食わずの私に娘は心配を始めた。

 優しい娘だ。その瞳は純粋に私を心配している。


「ありがとう。でも、大丈夫。特別な訓練をしてるから」


 そうですか、という娘の顔色がよくない。


「近く、人食いの鬼が出ます」

 

 ぼそりと娘がつぶやいた。私はその言葉にぎょっとする。

 次いで娘は深々と頭を下げると私に告げた。


「無理を承知でお願いします。貴女がすごい力を持ってるのは知ってます。のも、最初から知ってました。だから、どうか、力を貸してください」


 娘はそう懇願した。その言葉に私は娘を押し倒し馬乗りになる。


「それを、今この状況で言う理由は何? ただで済むと、思った?」


 娘は私の本性を見ても恐れるそぶりは見せない。

 

「他の方たちはもう何日も食事ができていないはず。龍を追い出す、力を貸してください」

 

 真っ直ぐに私を見つめている。


「落ち物のない状況。もう食べられるのは一つだけ。何か、わかりますか?」

 

 娘は訊ねてくる。ああ、そう言うことかと私にもわかった。


「ヒト、ね? そう、鬼とは人を喰らう人のことだったの……」


「はい、私は鬼が嫌いです。私がここに来た、原因ですから」


 娘は鬼が嫌いだった。そのことは出会ってからの会話で知っていた。

 

「私も鬼なの。人の血を啜る、悪い鬼」


 私の正体に気づいているのは知っていた。だから、隠しているふりをした。


「あなたはそういう、です。怖いけど、優しい私の友人」


 その顔は初めてその瞳を見た時と変わらない。私を恐れない。

 人のためその力すら利用してやるという強かしたたかで美しい少女の物だった。


「ああ、敵わない。私は化け物。でも、もっと怖い物はいるのね。貴女は、龍なんかより、もっと怖い」


 この娘を守りたい。

 そう思った。することはわかっている。


 龍を倒し、この世界から帰ろう。この少女と共に。

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