Chapter 3

 間もなくコースを一周する。海浜公園に設けられたランニングコースから出発し、海辺の遊歩道を抜けて、また公園に戻り、コースに沿ってスタート地点まで。それが、つくしちゃんの考えたルートだった。一周三十分程度のランニング。最近は、もう少し早く走れるようになったけれど。

 習慣とは面白いもので、結局私は、つくしちゃんの言葉通りになっている。朝はアラームの鳴る前に目が覚めるし、そのあと体を動かさないと、居心地の悪さを感じるようにまでなってしまった。

 今は既に海へ背を向け、再び海浜公園の中を走っている。ここまでくれば、ゴールまであと僅か。

 八月頭、私達がここでランニングを始めたときと比べると、十月末の海浜公園は人影がまばらで、少し物寂しい感じがした。

 お陰で、追いかける背中がよく見える。私と同じ、白いランニングウェアを身につけ、先行する人影。

 海辺で一旦引き離された距離は、結局ゼロになることはなかった。相手は一足先に設定したゴールに辿り着くと、くるりと振り返り、ガッツポーズをしてその場に待機する。

 その様子を遠くから眺めながら、それでも不必要にペースを早めたりせず、走り続けた。やがて、ゴールが近づいて来る。駆け抜ける間際、私は競争相手を盗み見た。

 私と同じランニングウェア、同じ背格好、同じ顔立ち。ただ、最後に関しては、私の顔を元に生成されたはずなのに、少しのっぺりとした印象が拭えない。値段相応の、ちょっと粗雑なモデリングで可視化された、過去の記録ゴースト。その脇をすり抜けて、私はそのままクールダウンへ移行した。

 手首のスマートウォッチに目をやると、記録されたベストタイムからはまだ、一分余りの開きがあった。大きく息をつき、ゆっくりと歩く。呼吸を整える傍ら、かけていたグラスを外して、汗を拭った。

 振り返ると、ゴーストの姿はもう、見えなかった。


 ぼんやりと、努めて何も考えないようにしながら、帰路につく。

 公園を出て、信号を渡り、コンビニの前を通過する。緩やかな坂を登り、住宅街へ。すっかり通い慣れた道のりを歩いていく。

 がちゃん、と背後で玄関の戸が閉まる音で、束の間我に返った。染みついた動作に体を任せ、習慣の中に意識を沈める。洗濯かごに服が脱ぎ捨てられた。火照った体の表面から、熱が奪われ始める。寒い。指先がコックを捻り、頭から体を伝って、お湯が足元へ流れてゆく。温かい。

 耳元に温風が吹きつけて、うるさい。髪が乾いてく。

 エアコンをつけて、ベッドに倒れ込んだ。瞼が降りる。


 気づくと、時計の針は九時半を指していた。講義はもう始まっている。

 今日こそ出席しなくちゃ。そう思ったけれど、準備を急かす頭に、心と体は従わない。とりあえず、一歩ずつでも踏み出さなくちゃ。

 私はなんとか、のそのそとベッドから這い出し、ローテーブルへと向かった。嫌がる気持ちを宥めすかして、重い瞼をこじ開ける。

 ――いつも、そこから先へ進めない。

 沢山のつくしちゃんの欠片が、まだここには残されている。

 誰かと一緒に暮らす、ということは、互いの在り方を擦り合わせながら、二つの生活が一つに溶け合ってゆくことだと、私は思う。溶け合った彼女の生活は、今でもこの部屋と私の中に居座っていた。

 使い差しのファンデも、途中から揃えられたコミックスも。コップに並んだ二本の歯ブラシ、一人じゃ飲まないコーヒーの粉。日曜の朝にフレンチトーストが食べたくなるのも、オレンジ色の豆球を残して電気を消すのも、そして、毎朝ランニングへ出かけることも。

 物だけじゃない。習慣の部分部分が、私に残された彼女の欠片だった。明日でもう、七週間が経つ。

 薄暗い部屋の中、テーブルに置かれた小さな鏡の向こう側を、じっと見つめ返す。いつしか、再び眠気が忍び寄って来ていた。

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