Chapter 2

「退院早まって良かったですね、美緒先輩」

「つくしちゃんがリハビリに協力してくれたから」

 ありがとう、と頭を下げると、彼女は「まあ、これに限っちゃ先輩だから」とうそぶいた。あながち間違いでもなかったし、私も調子を合わせて、

「これからも頼りにしてますよ、先輩」

「うわ、そういうとこ嫌だな」

 つくしちゃんは顔を歪めて、嫌そうな表情をしてみせた。かと思うと、何かを考えついたような顔になり、

「じゃあ、先輩としての提案なんですけど」

「うん」

「これから毎朝、ランニングしませんか」

 今度は私が嫌そうな顔をする番だった。

 歩いたり、走ったりできるようになったのは嬉しいけど、それだけでインドア志向が根底から覆される訳じゃない。自分で望んだはずのリハビリですら、苦しかったし面倒だった。これからも毎日体を動かし続けることを想像すると、

「嫌だなあ……」

「マジで嫌そうだ」

「マジで嫌なんだよ。まだ暑いし」

 うだるような暑さの中を、私達は歩いていた。日も傾きかけているのに、むっとした熱気が引く気配はない。背中に汗が滲んでいく。手にしたラムネの瓶が、からからと鳴った。

「朝早くなら涼しいですよ」

「早起き苦手だし」

「早く寝れば起きれます」

「面倒じゃない?」

「習慣化すれば大丈夫です」

 やんわりと退路が断たれていくのを感じる。

 もっとも、あれこれとやらない理由を並べ立ててはみたものの、運動した方が良いのは私だって分かっていた。折角体が慣れてきたのに、それを鈍らせるのが惜しい気持ちだってある。

「大丈夫、付き合いますよ」

 そう言って笑いかけられると、だったらやってみようかな、という気にさせられる。頷きかけて私は、

「あれ、待って。ずっと私んちに居座るつもり?」

「いやあ。ちょくちょくサークルあるし、大学に用事もあるし」

「なんだ、そっちが本命か」

 つくしちゃんは、ぺろっと舌を出した。

 実家の遠い彼女は、半年前まで何かにつけて、私のアパートに泊まっていた。私が入院している間も、見舞いやリハビリの手伝いにやって来ると、毎度のように「便利な避難所がなくなって大変ですよ」なんてぼやいていた。そうして、それが目的で仲良くしてたんだ、と返すと、彼女は決まって今のような仕草をする。

「たまには帰りなね」

「泊まって良いってことですか」

「まあ」

「じゃあ、明日起きたら起こしますね」

 私は諦めて頷いた。彼女には色々とお世話になってるし、お返しとして日課につき合うくらいの気持ちで始めてみるのも、悪くない。私のためでもある訳だし。

「それなら、これからも頑張る美緒先輩に、私からプレゼントです」

 そう言って彼女は、いつも使っているトートバッグから紙袋を取り出した。

「ちょっとシワ、できてるけど。退院祝いと応援を兼ねて、どうぞ」

 私はゆっくりと手を伸ばして、紙袋を受け取る。隙間から覗いただけでは、良くわからない。天下の往来で開封を始める訳にもいかず、再びつくしちゃんの顔を見やる。

「スマートウォッチとグラスですよ。記録取れた方が、やる気でません?」

「え、貰えないよ」

「大丈夫、やっすい奴なんで。機能も精度もそんなにです、申し訳なく思うことじゃありません。何より、これだけやれば先輩もあとに引けないでしょ」

「……あれ、ひょっとして嵌められたのか。さっき思いついた、みたいな顔してたのに。演技派だなあ」

 つくしちゃんは得意げだったし、事実彼女の言う通りだった。驚かされて、戸惑って、申し訳なくなって。それでも一番はやっぱり嬉しさで、素直な気持ちと「ありがとう」を口にする。

 八月頭、青々と茂った街路樹の下を歩く。半年振りに通る道の途中で、つくしちゃんは事も無げに口を開いた。

「ねえ先輩、何したい。今まで諦めてきたこと、全部できるよ」

 装い切れず、言葉尻が弾んでいた。

 誰の手も煩わせることなく、どこまでも行ける。そう思うと、次から次にやりたいことが去来する。でもそういう、これからいつだってできることは、ひとまず脇に置いておこう。だって、対等な目線で人付き合いができるというのは、大きな変化だ。これまで随分遊んで来た人とだって、感じ方が変わるはず。だからまずは、

「映画、観に行きたいな」

「良いじゃないですか」

「一緒にさ。付き合ってくれる?」

 返される頷きを見て、嬉しくなった。足取りは軽く、高らかに音が鳴る。

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