第7話 ハンカ湖の南に春が来る
アラーン
太陽の光は狩人の矢よりも早い。時の速さは虎が駆けるよりも早い。
イマハは十三の歳になった。
スモル・マファとイマハはウスリー川沿いの村を訪れて回ったが、人々は川の西へ渡ることを禁じられ、東の山へ行くために鉄の道を越えることを禁じられ、せき止められた水が干上がるようにだんだんと消えていった。
春分を過ぎたある日、イマハはスモル・マファと共にハンカ湖の南を進んでいた。湖は凍結していたが、昼間緩んでひび割れた氷が夜の間に凍るので、透明な岩場のように盛り上がっていた。
ふと、遥か遠くの氷上に小さな村が見えた。氷上に宿営する村は珍しくないが、春分を過ぎると危なくなる。珍しいものだとイマハは思った。
しばらくしてスモル・マファの神鷹が高い天から降りてきて歌い始めた。
アラーン
私の夫、スモル・マファ。
あの村には近づくな。すぐに湖を越えて西に向かって立ち去れ。
湖の東から、ミミズクの旗を掲げたツァーリの兵がやってくる。
彼らに見られる前に、速やかに湖の西へ行かなければならない。
ハリララ ハリラ ハレララ レイ
スモル・マファは少しだけ嫌な顔をしたが、神鷹の言葉を聞かず、村の方を目指した。そしてイマハを見て言った。
「私はあの村へ行く。イマハ・マファ、お前は四不像に乗って湖を越えなさい」
「私はうまく四不像を走らせることができない」
イマハは答えた。
「それでは犬橇に乗って湖を越えなさい」
「犬たちはスモル・マファを愛しているので私の言うことを聞かない」
スモル・マファが叱ろうとすると、イマハは言葉を継いだ。
「あなたがあなたの師匠にして神鷹マリンカ・ダドの言葉に背くなら、私があなたの言葉に背くことを咎めることはできない」
それを聞いてスモル・マファは黙ってしまった。二人はそのまま村を目指した。
アラーン
村の近くにはいくつかの
近づいてみれば、とても粗末な仮小屋がいくつか並んでいた。近くの仮小屋を見ると、ひどい痘病にうなされている人たちがいた。全身が疱瘡で爛れ、息も絶え絶えだった。死にそうな人と、既に死んでいる人の見分けがつかないほどだった。
そのとき、赤いカフタンを着た女が帰ってきた。彼女ひとり痘病ではなかったので、スモル・マファは訳を尋ねた。女は歌うような美しい声で答えた。
アラーン
この村は元々ハンカ湖の東にあった。
あるとき村に毛皮の衣と毛皮の帽子をかぶったツァーリの兵がやってきた。
兵はたくさんの酒を持ってきて、村人に振舞った。村人は喜んで酒を飲んだ。
兵は酔った村人に毛皮を出すよう言った。村人はみんな毛皮を差し出した。
アラーン
兵は何度もやってきて、毛皮をもっと出すように言った。もう毛皮は残っていないと言ったら、今度は食べ物を奪った。
アラーン
冬になって寒くなったので、毛皮を返してほしいと言ったら、ツァーリの兵は毛皮の代わりに毛布を差し出した。村人はそれに包まって眠った。
毛布には痘病がとりついていた。果たして村人に痘病がとりついた。
アラーン
私たちは逃げることにした。ツァーリの兵は、私たちが川や湖に近づくととても怒る。なぜなら彼らは水を越えることができない。だから私たちは西を目指すことにした。
しかし痘病にとりつかれた村人は、みなここで倒れてしまった。
ハリララ ハリリ ハレイ
「あなたには痘病はとりつかなかったのか」とスモル・マファは尋ねた。女は眉間を寄せて、顔にかかる髪を掻き揚げた。目の隣に大きな傷があった。
アラーン
私はもっと東の村に住んでいた。
あるときミミズクの旗を翻したツァーリの兵がやってきて、みんな殺された。
若い娘はツァーリの兵を世話するためにかどわかされた。
娘たちはツァーリの兵に疫神の祝福を与えられた。私も祝福を受けた。
そしてツァーリの兵の世話をした。
アラーン
私はたくさんたくさんツァーリの兵を世話して、もう嫌になった。
何人かで逃げ出したが、ここまで来ることができたのは他にいなかった。
逃げてきた私を匿ってくれたのはこの村の人だけだった。
だから置いていくことはできない。
ハリララ ハリリ ハレイ
スモル・マファは頷いて、まず仮小屋を丁寧に建て直すと、病人の看病を始めた。赤いカフタンの女が近くで獲ったリスやウサギや木の芽を持っていたが、村の人に食べさせるには少なかった。そこでイマハは考えて、四不像に積んでいた荷物の中から食べ物を取り出して、人々に食べさせた。
何日か経った。赤いカフタンの女は毎日獲物を獲ってきたが、だんだん足りるようになり、遂には余るようになった。病の重い人が次々と死んで、はじめは軽く見えた病人でも重篤になってすぐに死んだ。
この頃になってイマハは、スモル・マファの顔色がおかしいことに気づいた。触るとひどい熱があった。小さな発疹が出て、痘病がとりついたとイマハは理解した。
マリンカ・ダドの授けた祝福は十年間続く。その十年はずっと前に過ぎていた。
アラーン
犬がけたたましく吼え始め、すぐに銃声と犬の悲鳴が響いた。
赤いカフタンの女はすぐに弓を手に取り飛び出した。そして素早くつがえると、やってくるツァーリの兵に次々と射掛けた。ツァーリの兵は次々と倒され、或いは伏せ弩に仕留められていった。
女は誇らしげに言った。
「私の調合する毒は強い。ヒグマでも一時間で倒せるから、ツァーリの兵ならすぐに死ぬ」
「それでもツァーリの兵は数が多い」
スモル・マファは静かに言った。神鷹が銃弾を交わしながら戻ってきて、その肩に舞い降りた。
「伏せ弩はもうじき全部尽きてしまう。ツァーリの兵はまだたくさんいる」
「毒矢が尽きれば火矢を射る。火矢が尽きれば刀を振るう。一人でも多く殺してやる」
「もしあなたが生き延びたいなら、多く殺すことは意味がない。もしあなたが復讐したいなら、殺し尽くさないと意味がない」
そしてスモル・マファは疱瘡の出た手でイマハを手招くと、その頭を撫でた。
「イマハ・マファに尋ねよう。私は
「私はスモル・マファの弟子なので、あなたに従わなければならない」
「それならばお前は、湖を越えて生き延びなければならない」
イマハはうろたえた。それは嫌だと首を振ると、スモル・マファに窘められた。
「師の言いつけには従うもの。
そして口笛を吹いて四不像を呼び寄せると、イマハを抱き上げて、その上に座らせた。それから赤いカフタンの女を、イマハの膝に座らせた。女はたちまち白い神鷹に姿を変えた。
アラーン
顔に鱗のあるチョウザメの息子、イマハ・モルゲン。
全ての
お前が生き延びた足取りが、語り継がれる
ハリララ ハリリ ハリリ ハリララ ハリリ ハレイ
神鷹は大きく羽ばたくと、くるりと空中を旋回した。彼らを狙って放たれた銃弾が振り切られ、どこか遠くに飛んでいった。
次に神鷹は小さな油壺を拾い上げ、空の上からツァーリの兵の上にいくつも落とした。油壺は銃の火口で弾け、火の手を巻き上げて彼らを舐めた。それから火薬の入った箱を投げ落とし、黒い火薬が空中に舞い散って、稲妻のように辺りを吹き飛ばした。
四不像が走り出したので、イマハは夢中で角を掴んだ。飛ぶように走る四不像の隣を、神鷹が風を切って飛んだ。見るとその目の隣に、黒い花びらのような斑があったので、イマハは思わず声を上げた。
「ラウカ・ダド」
アラーン
ご覧。眩しい太陽が、雲の間から姿を見せた。
ご覧。氷の軋む音が、とても心地よく響くよ。
春が来たよ春が来たよ春がこの湖に来たんだよ。
ハリラ ハリ ハリ ハレイ
火の手を逃れたツァーリの兵が、イマハに気づいてこちらに駆け出した。その瞬間、湖の表面が真っ二つに裂けた。ツァーリの兵が氷の隙間に次々と飲み込まれ、亀裂はついにイマハたちの方にも迫ってきた。四不像は氷の隙間に足を取られて大きく傾き、イマハの身体は空中に飛んで、そのまま氷の隙間に落ちた。
イマハは湖に落ちたと思ったが、そこは柔らかい浮島のようだった。驚いて足元を見ると、そこには巨大なチョウザメがゆったりと泳いでおり、見渡す限り無数のチョウザメが氷の隙間を埋め尽くしていた。
アラーン
チョウザメの息子、イマハ・モルゲン。
ハンカ湖を統べる
私はあなたを待っていた。
ハリララ ハリリ ハレイ
「わたしのことを、どこかへ連れて行ってくれるのでしょう?」
神鷹は歌うようにそう言って、彼の肩に舞い降りた。
イマハはチョウザメの背を渡り、ハンカ湖の向こう岸まで歩いて渡っていった。
アラーン
イマハ・モルゲンの
顔に鱗を持つ彼の数奇な物語は、やがて世界を駆けてゆく。ブラゴヴェシチェンスク、旅順、東ガルツィア、ニコラエフスク、スターリングラード、あなたはどの物語を望むだろうか。
イマハ・モルゲン、理不尽に抗い死の国を退ける彼の物語は終焉を知らない。あなたの望む結末に辿り着くまで、この物語は終わりを迎えることがない。
さあ、語ろう。夜が暮れるまで、世が明けるまで。
ハリラ ハリララ ハリラ ハリラ ハリララ ハレイ
ハリラ ハリララ ハリラ ハリラ ハリララ ハレイ
ゲイゲン
イマハ・イマカン かとりせんこ。 @nizigaro
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