第8話 忘れ物
「じゃあ、これで帰ります」
紗和さんが落ち着いたので、私は帰ることにした。今日のこともあり、紗和さんの提案で互いの連絡先を交換することにもなった。
「うん。気をつけて帰ってね。変質者とか春先多いから」
「紗和さん以上の人に会うとは思えませんけどね」
「もう。……フフフ」
「えへへ」
ちょっと意地悪く言ってみた。それはこれからすることの伏線。
ローファーを履き、玄関のドアノブに手をかけた。紗和さんがすぐ後ろに居ることも確認済み。
「紗和さん」
「ん?」
紗和さんは多分なあに?とか後に続く台詞があったかもしれない。でもその台詞を紗和さんが口にすることはなかった。
ドアノブから離した手を紗和さんの背中にまわしてちょっと背伸びしたから。紗和さんの口に私の口をすぐに重ねることができた。
うん。嫉妬。
ローターの件は置いといて、こんなにも素敵で明るくて大好きな紗和さんが他の人と寝ていることに嫉妬。でも私には経験がないから、キスだけでも紗和さんにしてみたかった。
少し固まっていた紗和さんも、すぐに私の背中に手を回してくれた。左右のどちらの手かわからないけど、うなじを撫で、肩甲骨を押さえ、どちらもキュンとする手のまわし方。さすが変質者。
踵を下ろしたら、唇と唇が離れていって、私の顎が紗和さんの胸に当たった。紗和さんの鎖骨の位置に、ちょうど私の顔が来る。紗和さんのいい匂いがする。
「ファーストキスですからね。責任とってくださいね」
また意地悪く言ってみた。
「ええ……どうしましょう。フフフ」
「えへへ」
今度こそ本当に帰らなきゃ。五月下旬の夜道は空気が生ぬるく、私の心をなかなか冷ましてくれなかった。制服も自分の汗と紗和さんの涙と鼻水でグチャグチャだ。お風呂だけじゃなく制服も洗わなきゃ。自転車をゆっくり漕ぐと、川向こうの月も一緒についてきた。
……変質者ねえ。私も一歩踏み入れたのかな。その変質者とやらに。勢いでファーストキスを女の人にあげちゃうんだもん。少なくとも百パーセントの正常な女の子じゃないわね。汗をたっぷりかいたから、シャワーでも借りたかった気持ちもあったけど、そんなことしたらこの後どうなっていたかわからない。今日は舌を入れてこなかったのは、紗和さんなりのモラルか何かなのだろうか。
そんな自分でも呆れるようなあれこれに思案を巡らせながら自転車のペダルを回していると、スマホから軽快な音が鳴る。RIMEだ。この時間、このタイミングなら、送信してきたのはもう一人しか居ないだろう。そうだと思って画面を開くと、やっぱり送ってきたのは変質者だった。
「ヒナちゃん、忘れ物してたからカバンに入れておいたわ。気をつけて帰ってね。特に変質者に」
忘れ物? 何も忘れてないと思いながらカバンを探ってみた。
「ああ!」
深夜に近い時間帯なのに、河原で大声を出してしまった。でも大声を出すのは仕方がない。あの変質者、私にピンク色を持たせることが本当は好きだったんじゃないのだろか。
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