第3話 闇より出でる悪意
深夜一時。
昼間は学生や買い物客、会社員といった多種多様な人で賑わう通りだが、さすがにこの時間は静まり返り、街灯の明かりが照らすのみの寂しい通りとなっていた。
「だいぶ遅くなっちまったな」
人気(ひとけ)の全くなくなった通りを一人、レオは歩いていた。
ユウトたちとのいざこざで教室を出たレオはそのまま学校をサボり、最近始めたバイトの時間が来るまで街中をぶらぶらして時間を潰していた。
途中、他校のヤンキーに絡まれたレオだがあえなく返り討ちに。
その後、バイトを順調にこなし、終わったのが夜の十時。
バイトを終え、真っすぐ家に帰ろうとしたレオだったが、帰路についてすぐ昼間のヤンキーが昼間のお礼をするため大勢の仲間を引き連れ再びレオに絡んできた。
多勢に無勢と思われる人数差だったが、彼らは知らなかった。レオは今まで一度もケンカで負けたことがないというたった一つの事実を。昔、徒党を組んだ上級生三十人に囲まれたこともあったが、それでもレオがただのケンカで負けることはなかった…………
仕返しに来たヤンキーたちをレオはまたもあっけなく返り討ちにし、今に至る。
「こりゃ莉奈(リナ)にどやされるの確定だな、はぁ」
遅くなる時は先に寝てろといつも言っているが、意地でも起きて兄の帰りを待っている強情な我が妹――夢見莉奈(ゆめみりな)の事を思い、急激に足が重くなるレオ。
それでもレオがその足を止めることはない。
帰りを待ってくれる人がいるということは幸せなことだ。
特にレオのような境遇の者にとっては……
そのことはレオも身に染みて理解している。
「あ、あれ……」
と思っていた矢先、レオの足が止まった――止められた。
「どこだ、ここ」
気づくとレオはいつの間にか見たことのないサイケデリックな空間に迷い込んでいた。
「この辺りにこんな薄気味の悪い場所あったか」
物心付いてからレオはずっとこの街で過ごしてきた。有名な表通りから入り組んだ裏路地までこの街の地理は大体全部頭の中に入っているレオだが、辺り一帯全て底なし沼の中にいるようなダークブラウン色の空間にはさすがのレオも覚えがなかった。
「いつの間にか変な道に迷いこんじちまったのかな」
辺りを見回してみると見覚えのある看板や特徴的な建物、一度見たらしばらく夢に出てきそうな気持ちの悪いおじさんのキャラクターを模したオブジェを発見したが、レオの記憶にあるソレと色合いがあまりにも違いすぎる。
(心なしか空間全体が歪んでるように見えるぜ)
とてもレオが普段バイトの帰りに通っている道と今いる場所が同じだとは思えなかった。
ムシャムシャ
「っ、何だ」
突然の咀嚼音ASMR。
「何だこの薄気味わりぃ音は」
ムシャムシャムシャムシャ
恐怖心と好奇心の狭間でレオの心は揺れ動き、しばらく決断できずその場で立ちすくむレオだったが、大玉のスイカを皮ごと丸かじりしているような気色の悪い音に誘われ、やがて音の発生源へとゆっくり向かった。
「音は、確かここらへんから……」
初めてのはずだがなぜか既視感のある入り組んだ裏路地を慣れた様子ですいすいと通り抜け、レオは奇妙な音の発生源へと辿り着いた――
地獄の一丁目へ、ようこそ。
「シャ…………」
トンボのような姿をしているが現実のトンボには決してない獰猛な輪っか状の牙を突き立てながら使役獣――トンボの怪物は見知らぬ誰かの頭部にかぶりついていた。
「うっ――」
その見知らぬ誰かはすでに怪物に喰われ首から上が消失、首無し人間となっていた。
食事に夢中だった怪物だが、突然目の前のに現れた来訪者に心底虫の居所が悪そうな視線を寄越した
「「………………………………」」
レオと怪物の目がばっちり合い、正面衝突した。
「うわああああああああああああああああああああああああああああ」
vs人では一度もケンカで負けたことがないさしものレオも、さすがに人の頭をムシャムシャかじるトンボの化け物が相手では一目散に逃げだす他なかった。そもそも戦うという選択肢自体がトンボの化物と目が合った時点でレオの頭からすぽっと抜け落ちていた。
(いや無理、マジ無理、あれは、さすがに無理)
元々虫はそれほど好きではないレオだが――特にG、今回の一件でレオは完全に虫が嫌いになった。
目の前のコレが夢か幻であったとしても、レオの心が変わることはない。虫など二度と顔も見たくない。レオは自身の心の中でそう強く念じた。だから――
「頼むから俺の前から消えてくれぇええええええええええええ」
「シャアアアアアアア」
残念なことに目の前のコレもレオが今置かれている状況もすべて現実であり夢幻(ゆめまぼろし)ではない。
「だ、誰か、誰かいないのか」
他のものには一切目もくれず、ただ目の前の現実、人間を頭から丸かじりするトンボの怪物から逃れるため複雑なコンクリート迷路を全力疾走するレオ。
日頃からチンピラだのヤンキーだのによく絡まれるレオにとって追っ手から逃れるという行為自体は日常茶飯事である。
地形を利用して、なるべく相手の視界から外れるようにしながら、人の多い場所へ逃げる。
逃走のノウハウがレオの骨の髄奥深くまで自然と刻み込まれていた。
(大丈夫だ、俺ならできる、俺ならきっと、トンボの化け物相手でも逃げられる)
人類が食物連鎖の頂点に立ってはや何年。通常、死ぬまで味わう事のない捕食される恐怖。
肉食動物に追われる草食動物のような状況下に置かれたレオだが、決して恐怖のみにだけ突き動かされて、ただ逃げ回っているわけではない。むしろレオには勝算があった。
物心ついてからずっと息づいて慣れ親しんだこの街でなら、なりふり構わず逃げるレオを捕まえられる者は誰いない。たとえ相手が見たことない、そもそも遺伝子レベルで違うトンボの化物であったとしても…………
誰が相手でも自分一人だけなら逃げ切れる自信がレオにはあった。
「うおっ」
レオの今までの人生、不良によく絡まれる日常、それに裏付けされた確信に限りなく近い絶対的な自信をトンボの怪物はいともあっさりと粉微塵に粉砕した。
「シャアアアアアア」
相手は地を離れ、空中を自由自在に動けるトンボ型の使役獣――カゲロウヤンマ。
いくらレオの運動神経が良かろうが、この辺りの地理に精通していようが宙を高速移動できるカゲロウヤンマが相手では自身の有利――地の利を活かすこともできない。
「く、くそぉ」
空中を移動してあっさり進行方向に先回りされたレオはカゲロウヤンマに背を向け、枝分かれが多い細道へ。
「何がどうなってんだよ」
右へ、左へ、と分かれ道の多い狭き路地を駆け回りながら、それでもレオは必死にこの状況を切り抜ける術はないか考えた。
今レオがいる底なし沼の中のような澱んだ空間は紛れもなく、カゲロウヤンマが生成、展開した虚ろで不安定な狭間の世界、虚狭空間。その内部。空間である以上、虚狭空間にも果てがあり、普段レオたちのいる現実との境(さかい)がある。
レオは自分でも知らないうちに現実と虚狭空間の境界線を踏み超えてしまったのだ。
入ることが出来るなら当然この空間から出ることも可能。虚狭空間から出てしまえば使役獣に襲われることはまずない。彼らが実像を得て顕現できるのは虚狭空間の中のみだからだ。
これはテイマーなら誰しも知っているいわゆる常識の話なのだが、テイマーのテの字も知らないレオはこの常識を知らない。
徐々に音量の増していくカゲロウヤンマのけたたましく動く羽の音に急き立てられながらも必死に活路を見出そうと走るレオだったが、やがて――――
「まずい、この道はっ」
袋小路の道に追い込まれてしまった。
「シャアアアアアア」
道を戻ろうにもすでにカゲロウヤンマが立ち塞がり、とおせんぼしている。
「絶体絶命ってやつだな」
この道が行き止まりであることは当然レオも知っていた。それでも行かざるを得なかった。
上空から獲物であるレオを追いかけながらカゲロウヤンマは路地一帯の地形を俯瞰で見つめ、気づいた。この道に誘い込めばこいつは終わりだということを。そしてどのように追い込めば獲物がこの道に誘導されるか、カゲロウヤンマは内に秘めた野生の本能でそれを悟った。
レオにはもう逃げ道がない。
(ちくしょお、どうして俺がこんな目に)
どれだけレオが強かろうが、それは人間尺度の話。
使役獣相手に生身の人間が敵うわけがない。
それは実際にカゲロウヤンマと相対しているレオ自身が身をもって理解している。
それでも――――
(わかってる、わかっちゃあいるんだけどよ)
レオの脳裏に、この世で唯一のレオの帰りを瞼こすりながら待ってくれている世界一生意気でかわいいい妹の姿が浮かび上がった。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
(俺はこんなところで死ぬわけにはいかねえんだよおおおおおおおおお)
「シャシャシャシャシャ」
レオの決死の突撃をあざ笑うように、カゲロウヤンマは獰猛な牙を擦り合わせながら迎え撃った。
「このクソ虫野郎おおおおおおおおおおおお」
忘れているかもしれないが、虚狭空間というものは本来現実に実態を持たないはずの使役獣たちが己の存在をこの世に顕現するために創り出した現実と精神世界の狭間にある虚ろでとても不安定な世界のことである。
普通の人間がこの不安定な世界を認知、干渉することはできない……………そう、普通の人間にはできないのだ。
生まれたばかりの使役獣が展開していた虚狭空間にたまたま道を歩いていたらその空間の中に迷い込んでしまったなど、絶対、百パーセント、あり得ない話なのだ。
迷い込んだ人間がテイマーの素質を持つ稀有な才の持ち主でない限りは――――
「うおおおおおおおおおおおおおお」
「シャッ」
レオの振りかぶった拳が顔面に直撃する直前、カゲロウヤンマはレオの背後に並々ならぬオーラを纏った人形(ひとがた)の化身の姿を見た。
グシャァァァァン
ただならぬ気配を感じ取りカゲロウヤンマは自身に迫るレオの拳を回避しようとしたのだが、時すでに遅かった。
避けることができないと悟ったカゲロウヤンマは咄嗟に体を丸め防御姿勢を取ることに成功した。ダンゴムシのように体を丸め防御姿勢を取るカゲロウヤンマのド頭をレオの拳は文字通り、撃ち抜くことに成功した。
「………………やった、のか」
頭を砕かれ、カゲロウヤンマの実態は茶色い粒子となって自身の創造した虚狭空間中に溶けて消えていった。
後には宙に浮かぶ茶色い火の玉、カゲロウヤンマの根源だけが残されていた。
「な、なんだったんだ一体」
事態が呑み込めずにその場で呆然とするレオ。
「てか、俺いつまでこの変な場所にいなきゃいけないんだ」
空間を創り出した使役獣が倒されれば、その使役獣の展開した虚狭空間は存在を維持できなくなり、たちまち崩壊する。
「どうやって出ればいいんだよ」
カゲロウヤンマが倒された今、後数分もすればこの泥沼のような虚狭空間も自然に消滅する。そうすれば晴れてレオはいつもの、妹の待つ日常に戻れる――はずだった。
「な、なんだ、これ」
いつの間にかレオの足元には不穏な香りがプンプンとする怪しげな霧が立ち込めていた。
「ふふふふふふふふふ」
「だ、誰だ」
聞いてる者に恐怖を感じさせる不自然なほどに落ち着いた冷えた笑い声が突然、謎の霧に包まれた虚狭空間内全体に響き渡った。
レオは気づいていないがカゲロウヤンマが創り出していた虚狭空間が消え去る直前、新たに灰色の虚狭空間がカゲロウヤンマの虚狭空間を上からさらに覆うような形で展開されていた。
レオはまだ、虚狭空間に閉じ込められたままだった。
「またハズレかと思ったけど、どうやら今日の僕はツイてるらしい。今までハズレくじばっかり引いてきた甲斐があったよ」
「誰だてめえは正々堂々と姿を現しやがれ」
直感的に霧の中は危険と感じ取ったレオは不意を突かれないよう、緊張の糸を張り巡らせながら大声で叫んだ。
「………………………」
全身にまとわりつく恐怖心を振り払うように腹の底から叫んだレオの声は、辺りを満たす霧の中に吸い込まれ中で霧散した。
「ふふふ、いいザマだね。いいよ、今の僕は機嫌がいいから特別に僕の正体を見せてあげるよ。せめてもの冥土の土産にね」
叫ぶことしかできない無力な実験ネズミのようなレオの姿に気をよく謎の人物は、霧の中より悠然とした足取りで、その足音を徐々に上げながら近づいてきた。やがて人型の影が霧の中に現れると、その色が少しづつ濃くなっていった。
「て、てめえは」
霧の中より現れた人物の正体を知った瞬間、レオの意識は途絶した。
レオは気づいていなかった。
すでに霧の中の人物が操る使役獣が背後から音も立てず迫ってきていたことに………………………………………………………………………
★★★
「いててててて、何だ、体中が全身めちゃくちゃにいてぇ」
気付くと、レオは路地裏の袋小路になっている場所で大の字になって寝転がっていた。
(何で、俺こんなところで寝てんだ)
何度思い返してみてもレオの頭の中にあるのはバイト帰りに絡んできたチンピラを返り討ちにしたところまでで、レオにはそれ以降の記憶が全くなかった。
「財布もあるし、携帯も、ちゃんとあるな。怪我も特にしてねえみたいだし、疲かれて寝ちまっただけか」
盗られたものは何もなく、目立ったケガもしていないことを確認して、レオは人通りの多い表通りに出た。
(それにしても何かモヤモヤするな。気分がスッキリしねぇってか、こうなんか喉の奥になんか引っかかてるみたいな)
表通りに出た後も考え事をしながら歩いていると、前から歩いてきたスマホの画面に見入る若いサラリーマンとレオは肩をぶつけた。
「おい、てめぇ」
「はい、なんでし――ぶふぉっ」
瞬間、レオはそのサラリーマンの顔面を思いっきり殴り飛ばしていた。
「…………あれ、俺、なんで」
肩をぶつけられイラッとしたのは確かだが、レオにサラリーマンを殴る気は毛頭ほどもなかった。しかし、気づくとレオはサラリーマンの顔を思いっきり殴り飛ばしていた。
殴った本人も、殴られたサラリーマンも、それを目撃した通行人たちも、何が起こったのか理解するのにそれなりの時間を要した。
「ひ、ひぃぃぃぃ、すみませんでしたぁぁぁぁぁぁぁ」
最初に理解したのはレオに突然顔を殴られた若いサラリーマンだった。彼は地面に散乱した自分の私物を慌てて拾い集めると鼻からアスファルトの上にたらたら垂れる血に目もくれずすぐにその場から立ち去った。
「え、何あれ、やばくない」
「見るからに柄の悪い生徒さんだな」
「あれ、どこの制服」
「警察呼ぼうか」
次に、周りにいた通行人たちが目の前で起こった事の重大性に気づき、ざわつき始めた。やがて、騒ぎを聞きつけた近くの交番の警察官が出動する事態にまで発展することになった。
「どうしちまったんだ、俺」
最後に殴った本人、レオだけが自分が何をしたのか未だ理解できずその場で呆然としていた。
この日の出来事はすぐにレオの通う高校へと伝わり、その日の内にレオの停学が決まった。同時にレオの良くない噂がいくつも加速度的に街に広がっていくようになったのだが、噂を聞いた誰もレオの身に起きた変化に気づけるものはいなかった。
たった一人を除いては…………
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