第55話 リアナ・セレンディル

 リアナ・セレンディルは稀有けうな女性だった。

 40歳を過ぎてからようやく得られた一人娘を喜ぶマーカスは、妻が呆れるのも構わずに甘やかせるだけ甘やかした。

 しかし彼女は、いわゆる世間の感覚を手放さず、その上で天真爛漫に成長した。


 取り立てて勉学に秀でるわけでもなく、運動や芸事に才能を開花させもしなかったが、周囲にいる者を安心させる明るい性格と、他人を思い遣り気遣う優しさを持っていた。

 生まれ持った美しい顔立ちを、その滲み出る内面が際立たせていた。

 本人の意志で学んだ一般の学校ではもちろん、社交界においても、その美しさと人柄の良さは評判だった。


 それを妃に望んだのが、前妻を病で亡くした現デラムロ王だった。

 父親である自分よりも年齢が上の王との縁談に、マーカスは難色を示したが、驚く事にリアナはそれを受けた。


「なぜだ。今はもう政略結婚という時代ではない。私は誰であれ、例え市井しせいの者であってもお前が好いた男と幸せになって欲しいと思っているのだぞ」


 セレンディル家の営む重工業グループは、確かに資源国であるデラムロ王国との関係が深い、というよりは、それ無くしては成り立たない。

 しかし事はビジネスであって、縁談を断れば腹いせをするような了見の狭さは、デラムロ王には無いはずだった。


「ごめんね父様、こんな事を言ったら気分を悪くするかもだけど……」


 自分は別に、セレンディルの家のためを思って縁談を受けるわけではないと、普段家にいる時の砕けた口調でリアナは言う。


 豊富な鉱物資源の力で、長く大国であり続けたデラムロ王国が、その資源の枯渇と共に凋落ちょうらくするのを良しとするはずが無い。

 生き残りだけでなく、更なる繁栄を目指して新たな技術や産業を生み出そうとするだろう。そしてそれは、経済的にも文化的にも周辺国に影響を与えずにはいない。

 そうすれば世界が変わる。きっと、必ずそうなる。


「その現場を、特等席で見られるのよ。それにもしかしたら、私にも何かできる事があるかもだし!」


 そう瞳を輝かせる娘を引き留める言葉を、マーカスは持たなかった。


 王妃となったリアナは、デラムロ王宮に入ってからも変わらず美しく、聡明で優しかった。

 表立って政治に口出しをするような素振りは一切見せず、王族に求められるパフォーマンスにも関心が薄く、つまりは好きな事をして遊んで暮らしているように見えた。


 王族や貴族には高貴な務めがあると信じる者たちは、それを指して苦労知らずの道楽女と揶揄する事もあった。しかしそれを耳にしても、本人はけろりとして歯牙にも掛けなかった。


―――何かできる事があるかもだし!


 リナアがマーカスに語った言葉は本心からのものだったが、しかし全てを伝えてはいなかった。

「何か」どころか、そのビジョンは明確で「かも」どころか、その胸に熱く誓っていた。


 デラムロ王国の王妃ともなれば、各国の貴賓との接点には事欠かない。ファーストレディ外交と呼ばれる物を始めとして、様々の団体や組織にいる女性たちとの交流もある。彼女の求めるものはそこにあった。


 いまだ男本位の社会にあって、女性の社会進出などは、体の良いスタイルという側面を脱し切れずにいる。

 男のサポート役に甘んじて信頼を得るか、もしくは男と鍔迫りあって組み敷くか。そう意識をした時点で、女性は肩肘を張らずにはいられなくなる。それが問題だった。


 その点で、リアナは多くの女性たちの心を惹き付けて止まなかった。

 社会で最も大きな権威と権力の至近にいながら、王妃の務めなど気にもせず、貴族としての自覚などどこ吹く風。男のやり様を横目にも見ない振る舞いは、本当の自由を体現していた。


 公務として出会っても、別れる時には無二の友人になっている。社交辞令というものが無く「また会いましょう」と握手をすれば次の機会を待たず、自分から出向いて約束を果たす。


 そのようは、責務や立場に押し潰されていた女性たちに活力を与えた。

 息子を出産してもその魅力はいささかも損なわれず、どころか母親となった事で一層の輝きを放つようになった。

 年齢国籍に関わらず、立場の有無にもよらず、やがてリアナはすべての女性の憧れの対象となっていった。


「あれは世の中を変える女だった。そうなるはずだった……」


 マーカスの独白に、ただクルカルニは頷く。


「それをあの小僧が……あのいけ好かない秀才面の青二才が……!」


 イルール・クラムにはそのリアナが目障りだった。


 世俗の事には口出しをしないリアナだったが、クラムが計画したマドレグ山地への進駐に関しては、明確に反対の意を表明してはばからなかった。

 資源に頼らない、少なくとも破壊的な採掘に利益を求める従来のシステムからの脱却を指向していたリアナにとって、武力を背景にして手つかずの自然を蹂躙じゅうりんする企みは、退行以外の何物でも無かった。


 リアナが単なる第二王妃であったなら、クラムも黙っていたかも知れない。

 王国内にもマドレグ進駐反対を唱える者がいるという事実そのものは、事態の落とし所を模索する上でもプラスになると考える事は可能だ。


 しかし、リアナの持つ影響力は大き過ぎた。

 各国の首脳やその妻たち、または社会的地位を持つ女性たちとのコネクションを持ち、その関係性はシンパシーを超えて信仰の域にまで達していた。


 その能力の高さとカリスマ性で側近たちはおろか父王までもを操るクラムにとって、目の上のこぶとなりうる唯一の存在。それがリアナだった。

 政治に口出しをせず、また王国の広告塔としては有為だと考えて放置をしてきたが、それが公然と反対に回るのであれば看過はできない。


 そしてデラムロ王国の第二王妃の乗った王室専用機は、海の上で消息を絶つ。明らさま過ぎる暗殺は、明らさまであるだけに何の証拠も存在しない。墜落した機体は、その破片のひとつすら発見されなかった。


 空前の規模で国葬が営まれた。

 世界中からの参列者たちは心からリアナの死をいたんで涙を流したが、それと同時に確信に近い疑惑をクラムへ向けた。


 しかしクラムは、その視線を平然と弾き返した。疑惑は疑惑にしか過ぎず、それに公然と非を鳴らせる者はいない。

 死んだ人間のために、国益をおびやかしてまで何かを言い、また行動をする愚か者など、この世に存在するはずが無い。

 その傲慢ごうまんこそ、イルール・クラムという男の本質だった。



◆ ◆ ◆



「決して許さぬ。その思い上がりを正してやる!」


 干乾びた拳が、重く硬い樫の一枚板を打ち据えた。

 愛する娘を無惨に殺された。その哀しみの中で妻をも失った。怒りに見開かれたマーカスの目には狂気じみた光が宿っている。

 そのマーカスに対して王国への軍事行動を指嗾しそうした者もまた、まともではない。狂気の力を借りずともそれをできるのが、クルカルニという男だった。


 利害のみをはかりとして事を成すイルール・クラムの理解の外に、このふたりはいる。

 損も得もない。善も忠も義も孝も、そこには如何なる倫理も道徳もない。ただ触れてはならないものに手を掛け、壊してはならないものを壊した者に、相応の罰を受けさせる。それだけが願いだった。


 国家を巻き込んだ個人的な復讐。たった一人の娘の命をたった一人の男にあがなわせるために、数千数万の兵士たちの命を消費するという罪を罪とも思わないのは、それもまた傲慢に他ならない。


 マーカスはその事に思いもよらず、クルカルニはそうと承知の上で、この戦争を引き起こした。

 祖父と孫としてではなく、娘と母親を失った男として共犯者となったこのふたりは、傲慢をもって傲慢に相対している。


「恐らく次が、最後の作戦になります」

「ヘイスティングの小倅こせがれには儂から話を通した。存分にやれ」


 小倅呼ばわりされた大統領は、その父祖の代からセレンディルの後援無しには活動できない政治家一族の出身だった。2期目を目指す彼にとって、マーカスの言葉は、そしてセレンディルの持つ票田ひょうでんは、何よりも重い。


 王国への軍事行動に大きな成果がないまま、売った喧嘩で負けませんでしたという程度では国民の納得は得られず、また自分も納得はしない。

 忠告の姿を借りたその恫喝どうかつに、人民によって選出されたはずの国家元首の首は、いとも容易く縦に振られた。

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