第30話 ドライビング・キャンディ
「おかしいわ、杖がない。たしかにここにしまっておいたのに」
出社してすぐキャビネットをあらためた私は、中にあるはずの杖がないことに激しい動揺を覚えた。
――鍵だってかけたはずなのに……まさかあのタコみたいな『キメラ』が引き出しの隙間から中に入った?
もしそうなら警戒を怠った私の落ち度だ。キャビネットの開け方は職員しか知らないし、事務所荒らしにでも遭わない限り大丈夫だと思ったのだ。
「どうしよう石さん、杖が無くなってる」
私がメールチェックのために早く来ていた石亀に呼びかけると、意外なことに石亀は「やはりそうでしたか」と意味ありげな言葉と共に席を立った。
「やはりって……どういうこと?」
やってきた石亀は空のキャビネットとその周囲を交互に見ると、「ぴかぴかですな」とまたしても意味不明の言葉を口にした。
「ぴかぴか?」
「我々より早く出社して、オフィスを入念に清掃していった人間がいるということです」
「えっ……それってまさか」
「先ほど届いたメールの差出人とたぶん、同一人物でしょう」
「メールって……どこからのメール?」
「見てみますか?」
石亀に促されるままパソコンの前に移動した私は、ほんの一時間ほど前に届いたあるメールの文面に釘づけになった。
〈急で申し訳ありませんが、私用のため欠勤させて頂きます 島津〉
「――久里子さん! ……それじゃあの杖は」
「一足早く事務所に来て丹念に清掃していったのは、せめてもの罪滅ぼしでしょうな」
なんてこと、まさか久里子さんが杖を持ちだした犯人だなんて……
そしてその次に私が連想したことは、杖が無いという事実以上に恐ろしい推測だった。
――まさかライルさんを助けに行ったの?
いてもたってもいられなくなった私は石亀に「石さん、久里子さんは一人で敵と交渉するつもりだわ!急いで止めないと」と訴えかけた。
「本来なら他の調査員が来るのを待って協議してから……というのがセオリーですが、この場合、そう言った余裕はないと見るのが正しいでしょう」
「石さん、私相手にそんな固っ苦しい言い回ししなくてもいいの。結局どうするのがベストなの?」
「私とボスが先発隊として現場に向かうのがベストかと。しかし公用車は後から来る者のことを考えると残して置くべきでしょう」
「じゃあタクシーか何かで?」
私の問いに、石亀は黙って頭を振った。
「私の愛車を使いましょう。……少々、乗り心地に難がありますが」
「石さんの愛車って……まさか」
「ボス、駐車場で待っていて下さい。準備がありますので」
石亀はそう言うと、会議ブースの中へと入っていった。やがてパーティション越しに石亀の「ふんぬうううっ」と気張る声が聞こえてきた。
――まずい、始まってしまった。
私はパーティションに背を向けると、石亀に言われた通りオフィスを出て駐車場へと向かった。
※
「お待たせえっ、正義の探偵少女、キャンディちゃんですっ」
駐車場で待っていた私の前に現れたのは、眼鏡の中年男性ではなくピンクのエプロンドレスにウェーブのかかった髪を高く結った少女だった。
「久しぶりね、キャンディ。「愛車」はどこにあるの?」
「すぐそこにあるよ。ほら」
キャンディが押して運んできたのは赤い小さな五十CCバイクだった。
「また、これに二人乗りするの?そろそろ捕まるわよ」
「だーいじょうぶっ!キャンディちゃんにまかせなさいっ」
一体何を根拠に言っているのだろう。慎重すぎるほど慎重な「石亀」とは正反対の性格に、私は日ごろよほど鬱憤をため込んでいるのに違いないと思った。
謎の少女キャンディ――さすがにこれについては説明しておいた方がいいだろう。
我が探偵社の調査員はそれぞれ普通の人にはない、特殊な能力を持っている。もちろん石亀の場合も例外ではなく、二種類の特殊能力を状況に応じて使い分けている。
そのひとつが『可逆性変態人格』だ。
石亀は全身の細胞を変化させ。一定の時間だけ謎の少女『キャンディ』へと変身することができるのだ。
一見、無邪気な普通の女の子にしか見えない石亀の変身後だが、実は極めて有能で私たちはこの変身少女の高い戦闘能力に何度となくピンチを救われてきたのだ。
「さあ、乗ってお姉さん。「ほこら」がある崖のふもとまで一気に行くよっ! 振り落とされないよう、しっかりしがみついててねっ」
キャンディ――石亀は私に小型バイクの後ろに乗るよう促すと、ふわふわしたスカートのままバイクにまたがった。
「では、しゅっぱーつ!」
キャンディの小型バイクはミサイルのようなジェットスタートで発進すると、交通量の多い幹線道路にためらうことなく飛び込んでいった。
凄まじい速さで車両の隙間をすり抜けるキャンディの運転は、しがみついている私から見てもあり得ない危なっかしさだった。
――お願い、有能なのはわかるけど、目的地に着いたら元の姿に戻って。
私は振り落とされそうになるのをこらえながら、小さな背中に向かってそう呼びかけた。
石亀のこの姿は一定時間が経過すると元に戻るのだが、『キャンディ』は体力の限界まで遊んでいたいようで私はいつも体力の限界まで付き合わされるのだ。
――やっぱりタクシーを使った方が、よかったかもしれない。
トラックやバスにクラクションを鳴らされながら疾走する少女の後ろで、私はキャンディが一分でも早く「疲れたから、もうお家に帰る」と言ってくれることを願った。
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