湿気た煙草と雨の匂い
平山芙蓉
Pray
あの人の横顔を見て、私は怖気付いてしまった。
近くへ寄ろうとしても、足は出たり引っ込んだりするだけで、一向に前へ出てくれない。
先輩の退職が決まった時から、ずっと頭の中でお別れの練習をしてきた。失敗しないよう、上手く言えるように、と。なのに、いざ現実に訪れると、喉は穴の開いた風船みたいに、空気をわざとらしく抜いて、努力を無駄にしようとした。先輩にとって、私は平等という規範に収まった一人なのだ。だから、今更特別になんかなれない。そんな言い訳の針を突き刺して、惨めな想いに自分から浸っていた。
駄目だ。
こんな風になるために、ここへ来たのではない。
何度目かの勇気を奮わせてようやく、足は彼女の方へと動く。
「遼子先輩」
私の声に気付いた先輩が振り返る。靡いた黒い髪からは、甘い香水の香が匂った。いつもとは違う、知らない香。それだけで動揺を覚え、呼吸が止まりそうになる。そんな胸中など知らない大きな目がこちらを捉え、薄い唇が三日月のような笑みを浮かべた。
「あら、蓮」そう言って、先輩はワインの入ったグラスを手にしたまま立ち上がる。「どうしたの?」
「その……、長い間、お仕事お疲れ様でした」私は彼女の胸の辺りを見ながら、張りのない声で言った。
「ありがとう、嬉しいわ」彼女のハスキィな声が、鼓膜を震わせる。お酒が入って騒がしい店の中でも、その声はよく聞こえた。「こんな素敵な送別会を提案してくれて、最後に言い思い出ができて良かった」
何の気もなしに、彼女は続ける。私の想像にはなかったそんな言葉のせいで、その後に続けたかった言葉を飲み込んだ。飲み込むしか、なかった。
「就職先でも、頑張ってください、ね」と、その場しのぎの台詞を口にする。自然に繋がるはずの言葉は、不自然な心の挙動に邪魔されて、しどろもどろになった。そんな失態を晒したことが恥ずかしくて、視線は夏の終わりの向日葵みたいに、どんどんと下がってしまう。その先には、先輩の持つグラスがあって、赤黒い液体の表面に、私の顔がぼんやりと映っていた。
ああ、なんて顔をしているのだろう。
華やかなお別れにしようと決めていたのに、いつもこうやって、自分から空気を壊していくんだ。
本当に、馬鹿な人。
「じゃあ、送別会、楽しんでくださいね」私は顔を上げて、笑みを浮かべる。
「ええ、蓮もね……」
先輩は私の顔を見ると、不安気な表情でそう返した。私はすぐに会釈をしてから、逃げるようにしてその場を離れる。
背後では、誰かとまた談笑を始める彼女の声が聞こえてきた。
良かった。ちゃんと明るい声で笑ってくれている。
そんな安心は、眩暈となって牙を剥き、視界をぐるぐると歪ませた。足取りが覚束ない。息が苦しくて、胃の中は嵐の海みたいに荒れている。歩くのも辛かったけれど、あの人の声が届かないところへ行きたい一心だった。
ようやく辿り着いた壁に凭れかかり、足元へと目を落とす。
大理石風の床の模様が、徐に動いているように見えた。相変わらず気持ち悪かったけれど、楽な姿勢も取れたお陰で、マシにはなった。
このまま、何も起こらずに終わってほしい。
半ば朦朧とした意識の中、私はそう願った。
あの人の顔を、もう見ないまま。
あの人に顔を、もう見られないまま。
それでも私の五感は、
大好きなあの人の気配を、
壊れたラジオみたいに、
ずっと拾い続けていた。
遼子先輩は私のバイト先の、二つ上の先輩だ。分かっていることは少ない。今年卒業の大学院生で、就職先が決まって、よくお酒を飲んで、煙草を吸う。たったこれだけ。どこの大学院に通っているのかも、就職先とその職種も、何のお酒が好きで、一日にどのくらい煙草を吸うのかも知らない。
流石に店長はある程度知っているのだろうけれど、プライベートなことを彼女以外から聞く勇気はなかった。本人に聞いても、ほとんどのらりくらりと躱されてしまう。それか、次の日には発覚するくらい杜撰な嘘ばかり。
そうやって私生活が謎に包まれているから、同僚たちはみんな『実は大学院生のフリをしている、ただのフリーターじゃないか』なんて噂をしていた。でも、彼女の嘘交じりの話には、学生らしい内容もあったから、大学院生ということも、恐らくは真実なのだろう。
とても不思議な人だ。
最初はそんな、どこにでもいるような印象だった。職場にはそんな謎めいた人なんて、いくらでもいる。
けれど、気付けば私の身体はあの人のことを、あの人のことだけを、追うようになっていた。
例えば、ペンを持つ指先の動きを。例えば、名前を呼ばれた時の、明るい返事を。
休憩中、煙草の煙を見つめる視線を。困った時に髪を掻き上げる仕草を。勤務終わりが近付くと臆面もなく欠伸をする様子を。それを指摘した後に、わざとらしく舌を出す態度を。
ちょっとした所作の意味を考えてしまったり、彼女の目に自分がどう映っているのか気にしてしまったり。そうやって知らない間に私は、あの人の心をもっと知りたいと欲して、自分の心を捧げたいと祈るようになっていて。その感情に名前を付けることが怖くて、私はずっと知らないフリをして過ごしてきた。
でも、どんなモノも永遠に形を保てないように、
先輩と過ごす時間にも、名無しの気持ちを抱え続けるのにも、リミットは目の前まで迫っていたのだ。
会場から外へ出て、裏に置かれた喫煙所へ向かう。人はいない。会場とは違って、死んでるみたいに静かだ。送別会ももう終盤に近いから、みんな酔った勢いで騒いでいた。正直、私は五月蠅いのが苦手だったから、この静けさはちょうど良い。そもそも、先輩の送別会じゃなければ、参加なんてしなかった。
煙草に火を点けて、煙を吐き出す。仄かに甘い味が、唇に乗った。アルコールで熱を持つ身体が、どんどんと引き締まっていくような錯覚。おまけに風も冷たくて、心地良い気分に浸れた。
オレンジの火種から、煙は夜空へと上っていく。星は分厚い雲に覆われて見えない。暗い藤色の雲に、煙はどんどんと吸われていった。煙をぼうっと眺める癖も、多分先輩のことを知らず知らずのうちに真似た結果だろう。
『煙草は昔、祈祷のために使われていたらしくてね。だからわたしも、この一本を吸う時に、祈りを込めているの』
煙を見つめていると、先輩が言っていたことを思い出した。彼女に影響されて、煙草を吸い始めた頃、喫煙所で聞いた話だ。先輩のことだから、真偽は分からない。
ただ、もしも本当に祈りを込めているのだとしたら、
先輩はどんなことを祈っていたのだろう?
誰に向かって、祈っていたのだろう?
やっぱり私は、何も知らないし、知れないままだった。そこまで踏み込むと、その程度の人間だったのか、なんてそっぽを向かれそうな気がしたから。でも、振り返ってみれば、もっと沢山、聞いておいた方が良かったかもしれない、なんてどうしようもない後悔はあった。
煙草を咥え、深く吸い込む。
紙と葉っぱの焦げる音が、じりじりと辺りの空気を脅す。
肺が苦しくなったところで息を吐き出し、
空へと解れていく煙の束を、目で追った。
教えてくださいよ、遼子先輩。
あなたの心を。
あなたの幸せを。
それを知れるのなら、
この別れを、私は受け入れられますから。
そんな叶いもしない願いと、
守れもしない代償を、
雲を越えた先にいるはずの誰かに託して、
煙草の火を消した。
◆
最後に遼子先輩に職場のみんなでカンパした花束を渡して、送別会はお開きになった。二次会の話も持ち上がったが、先輩が行かないとのことで、騒ぎ足りない人たちだけが集まって、会場へと繰り出した。私も誘われたけれど断って、駅へと足を向ける。
まだ早い時間だから、街に人は多い。見ず知らずの他人の吐く息や、都市特有の排気ガスなんかが雲に閉じ込められて、息苦しい。雨が降ってくれたら、この汚れを全て濯いでくれるだろうか。それとも、ただ濁った水となり、街に染みつくだろうか。どちらにしても、冷たい水を頭から浴びたい気分だ。
結局、今日は行かない方が良かった。もう会えないというのに、碌な会話もできなかったし、挨拶だって不格好になった。こんなことなら、家で独り寂しく、惨めな想いをしていた方が、マシだっただろう。
酔いが醒めかけた頭に、嫌な思考が巡る。
こんな弱さがあるから、きっとあの人に想いを告げられなかったのだ。
雑踏に揉まれながら歩いていると、いつの間にか駅まで辿り着いてた。構内にも多くの人が行き交っていて、すれ違う度に、アルコールの臭いが鼻を掠める。
早く帰りたい。
悪心を抑え、列のできた券売機に並んだ時、ポケットに入れていた携帯が鳴った。
誰だろう。
そんな風に思いながら携帯を取り出すと、画面には『遼子先輩』と表示されていた。
『電話に出なければ』という焦りと、『何故?』という困惑が拮抗し、携帯に視線を落としたまま固まってしまう。そのうち、着信を報せるバイブレーションが止まり、何事もなかったかのようにロック画面へと戻る。
並んでいた列から慌てて抜けて、すぐに履歴を辿って折り返す。意地悪な呼び出し音は何度か続いて、電話が繋がる。
『もしもし、蓮? ごめんね、今大丈夫?』
「いえ、全然問題ないです」私は周りの雑音に負けないよう、声を張り上げて答える。
『良かったー。あっ、もう電車乗っちゃった?』
「これから乗ろうとしたところです」
『そうなんだ……』電話越しに聞こえてくる遼子先輩の声が、少し曇った。
「どうかしましたか?」
『いや、ね。二次会には行かないって言ったんだけどさ、良ければこれから飲み直さないかな、って』
「……二人で、ですか?」私は薄氷を踏むような思いで問う。
『そう思ってたけど、嫌?』
「行きます」思いの外、大きな声が出てしまい、通行人から妙な目を向けられた。でも、そんなことも気にせずに、「行かせてください」と、携帯に続けた。
『分かった。じゃあ、場所は……』
そうして、待ち合わせ場所を決めると、電話は切れた。
携帯の画面を見て、通話履歴を開く。いくつか並んだ発信履歴の中に、あの人の名前が確かに並んでいた。もしかしたら今の一分ほどの遣り取りが、全て哀れな妄想だったのではないか、と疑ってしまったからだ。
夢じゃない。
夢じゃないからこそ、怖い。
電話中の浮遊したような喜びに代わって、そんな不安がやってくる。
どうして、私に声をかけたのだろう。
どうして、相手を私に選んだのだろう。
ぐるぐると回る感情を抱きながら、私は待ち合わせの場所へと向かった。
◇
待ち合わせ場所は駅の路地裏に建つビルで、私の方が先に着いた。大通りから少し離れただけで、人も音も、別の国へ入ったかのように変わる。とても場違いな場所に佇んでいる気がして、落ち着かない。
本当は、私を揶揄っているのではないか。
いや、先輩に限って、それはないだろう。
でも、最後だから色んな人に電話をかけて、適当に騙して楽しんでいるのかも……。
違う、あの人はそんな悪質なことをするような人じゃない。
だけど……。
想像が膨らんだり萎んだりして、胸が苦しい。職場以外では、初めて二人でいられる喜びと不安が、重く圧し掛かる。それでも、携帯で時刻を何度も確かめては息を吐いて、先輩を待つ。
「蓮、お待たせ」
しばらくして、ようやく先輩が姿を現した。服装が送別会の時とは違う。渡された花束も持っていない。
「先輩、着替えてきたんですか?」
「まあね。家近いし、荷物もあったからさ」
軽く答えると、先輩に案内されながらビルへと入る。エレベーターで三階まで上ると、フロアごとバーになっている空間が広がった。
店内は薄暗く、ローテンポのジャズが静かに唸っている。客は何人かがテーブル席に座っているだけだ。誰も会話はしていない。
テーブル席に座ると、バーテンダーが注文をやってきた。先輩はジントニックを頼んだので、私も同じものを注文する。バーテンダーが引っ込むと、先輩は煙草に火を点けた。天井から伸びる裸電球の明かりに、ねっとりと煙が纏わりつく。
会話はなかった。周りを囲んだ沈黙は、嵐の前触れのように脈を乱す緊迫感となって、身体を覆う。先輩はいつものように煙草の煙を見上げている。私はじっと下を向くフリをして、その様子を窺っていた。
しばらくして、飲み物が運ばれてくると、細やかな乾杯をした。グラスに口を付けたけれど、味はあまり分からない。それでも、渇いた喉を潤すにはちょうど良かった。
「あの……」私はぼうっとする先輩に声をかける。「どうして、私を誘ったんですか?」
「知りたいの?」こちらを見ずに悪戯な笑みを浮かべ、先輩は聞き返した。瞳には照明の光が落ちている。私は視線をテーブルへと落とし、はい、と頷く。
「大した理由じゃないよ。ただ、今日はあんまり話せなかったでしょ?」
「そう、ですね……」その答えが送別会の会場での失態を詰られているように思えて、肩が強張ってしまう。
「だから、なんか、悩んでることでもあるのかな、って思って」先輩は腕を伸ばし、煙草の灰を灰皿に落とす。
「悩みは、あります。個人的なことですけど」
「悩みなんて、なんでも個人的なものでしょ」くすくすと、遼子先輩は笑う。恐る恐る顔を上げると、彼女はこちらを見ていた。
「わたしで良ければ、聞くわよ」煙草を消して、彼女はジントニックをまた一口飲んだ。
「いえ、そういうわけにはいきません」
「良いわよ、最後なんだから」断ったというのに、先輩は興味津々と言った顔で食い下がってくる。「それに、大事な後輩にそんな顔で見送られるのなんて、ちょっと寂しいじゃない?」
そう言われて、私は余計に困惑した。嬉しさはもちろんある。大事な後輩だと、言葉にしてくれたから。その言葉を無碍にする真似はしたくない。
でも、ずっと抱いてきたこの気持ちがもしも、伝わってしまえば……。
大切に重ねてきた今までの時間が、壊れてしまうのではないか、という不安を、どうしても拭いきれなかった。
「どうしたの?」
「いえ、その……」考えが表情に出ていたのか、心配そうに顔を覗いてくる。
「そんなに深刻な悩みなら、無理に言う必要もないけど……」
そう言われて、私は違います、と否定した。時間は待ってくれない。
「笑わないで聞いてほしいんですけど」私は前置きをして、調子の悪い呼吸を整える。「好きな人がいるんです」暈した言い方をしたけれど、視線はしっかりと彼女の瞳に据えられていた。
「へえ、そうなの」先輩はいつの間にか、二本目の煙草を取り出していて、火を点けた。
「でも、多分、その人とは一緒になれないんです」
「あら、相手に彼女がいるとか?」
「……いいえ」私は目を逸らして首を横に振った。先輩は真っ直ぐな眼差しをくれているのに、何だかその気持ちを裏切っているみたいで、胸が痛んだ。だけど、さっきの問に綺麗な瞳を覗きながら答える方が、私の中ではもっと辛かった。
「じゃあ、どうしたって言うのよ?」
「それは……」息を呑んで、私は口籠る。「その人、しばらくしたら遠くに行ってしまうんです」
「あら、わたしみたいね」
「えっ……?」言葉に反応して、つい先輩へと目を遣ってしまう。
「ああ、ごめんごめん。わたし、就職先が遠方だからさ」
「そう、だったんですか」
「うん、言ってなかったけどね」
自分の口から出た嘘が、当たっているなんて思わず、動揺を隠すのに必死だった。少しだけできた会話の空白に、湿っぽい空気が割って入ってくる。それを誤魔化すように、テーブルのジントニックを手に取って、一口飲んだ。氷が融けたせいで、味が薄い。もしくは、私の感覚が、何もかも拒絶したいという、幼稚な情に満たされているだけなのかもしれないけれど。
「って、わたしの話は良いのよ」
先輩も同じようにグラスに口を付けてから、話を戻した。
「蓮はさ、その人とどうなりたいの?」
「どうなりたいか、ですか?」
そう聞き返すと、先輩は頷いた。
「一緒に過ごしたいとか、振り向いてほしいとか」
「私は」
私は、どうしたいのだろう?
遼子先輩のことを、私はずっと想っている。一緒に過ごせる未来があるのなら、そうしたい。でも、叶わない願いだと理解している自分も、確かに存在する。さっきの言葉が、まさにその決定打だった。その二つの間にある埋まらない溝の中に、今の私は揺蕩っているも同然だ。どうしようもできなくて、諦めようとするクセに、針の穴ほどの可能性に縋ってみたくもなる。そんな滑稽な矛盾に縛られているから、私は弱いのだろう。
「ねえ、蓮」
私が言い澱んでいると、先輩は煙を吐いて声をかけてきた。
「気持ちは口にしなきゃ、何も始まらないわよ。自分の中で思い止まっているのはね、初めから存在していないのと同じ」彼女は二本目の煙草を灰皿に押し付ける。「だから、その人に言うだけ言ってごらん? 振られたらまあ、メールでもしてよ。そのくらいの責任は持つわ」
そう続けて、先輩は無邪気な微笑を浮かべ、
それを見た私はただ、ありがとうございます、なんて礼を、
か細い声で伝えることしかできなかった。
◆
店でしばらくの間、私たちは色々な話をした。内容はほとんど、先輩に今まで訊けなかったことばかりだ。大学院では特殊な硝子を開発する研究をしていて、就職先は大手の研究職らしく、話の半分も理解できたどうか分からない。それでも、少しずつ遼子先輩を覆っていた霧が晴れていくみたいで嬉しくもあり、知ったところでどうにもならないと分かっていたから複雑でもあった。
結局、私の終電が迫る時間まで話し込んでから、店を出ることにした。会計は先輩が持ってくれた。最後だから払う必要なんてない、と言ったけれど彼女の方が最後だから奢らせて、なんて引き下がってくれなかったのだ。
「あれ、雨降ってる?」
エレベーターで下まで降りて、ビルから出ると、地面を叩く激しい雨音が聞こえてきた。どうやら、あの分厚い雲は最後まで待ってくれなかったらしい。通りでは黄色い声を上げながら走る女の人や、諦めて雨を浴びる人々が過ぎ去っていく。
「蓮、傘持ってる?」
「はい、折り畳みが……」そう言いつつ鞄を探ってみたけれど、求めていたモノは見付からない。「すみません、こんな日に限って忘れちゃったみたいです」先輩に向き直って、正直に謝る。先輩は小さなポシェットをかけているだけで、そこに傘なんて入っていないことは明らかだった。
「どうする? タクシーでも呼ぶ?」と、遼子先輩は携帯を取り出しながら聞いてきた。
「いえ、駅まで近いのでお構いなく」
そう答えると、雨脚は私たちを閉じ込めるみたいに強くなる。アスファルトの道路は黒い川のようにうねり、向かいのビルの姿さえ、すぐに見えなくなった。
「うわ、人身事故で電車止まってるんだって」
携帯を弄っていた遼子先輩は、画面を私の前に差し出す。雨による人身事故の影響で、遅延している旨が記載されていた。
「これじゃ、タクシーも混んでるだろうね」
「そうですよね……。どうしよう」私は目の前の惨状に対して、そう呟くしかなかった。
「一つ提案なんだけどさ」うんうんと唸っているところに、先輩が声をかけてくる。
「何です?」
「わたしの家、近いから泊まっていく?」
「……」
一瞬、思考が停止して、雨の音に耳の奥を支配される。今、何と言ったのだろう。
「おーい、聞いてる?」
「あ、はい。すみません」声に呼び戻され、私は謝罪する。「ちょっといきなりすぎて、ぼうっとしてました」そう続けると、先輩は可笑しそうに笑った。
「明日はわたしも休みだし、泊まっていってよ。何もないところだけど」
「いえ、そんな。悪いですよ」
「良いの良いの。女同士だし、気にしないで。それに、お泊り会みたいなのもしたかったからさ」
――さあ、行くよ。
先輩は止める暇も与えずに、土砂降りの雨の中へと突っ込んだ。迷って置いて行かれるわけにもいかない。私も彼女に倣って、雨の降る町へ足を踏み出す。どうしてこうなったのか。背中を見失わないように気を付けながら、私は必死に走った。
◇
遼子先輩の自宅は、先ほどのビルから二、三分の距離にある五階建てのマンションの一室だった。エントランスはオートロック式で、それなりに家賃の高そうな外観をしている。設備もしっかりしていて、ずぶ濡れのまま入ることを躊躇ってしまうくらいには綺麗だ。
「あの、やっぱり迷惑だと思うので、帰ります」ドアを目の前にして、私はそんなことを口走った。
「何言ってるのよ」先輩はドアを開けて笑う。「そのままだと、風邪引くわよ? ほら、入って」
尻込みする私の背中を押されて、先輩に部屋へ入れられる。
玄関は靴箱と姿見が置かれているだけで、飾り気はなかった。間取りは1DKらしく、奥の部屋に続く廊下のキッチンも整っている。扉の向こうに見える室内も物が少ない。掃除をやりやすそうな家だ。
「ちょっと待っててね。タオル持ってくるから」
先輩は床を濡らさないよう、バレエダンサーみたいな足取りで、浴室へと向かい、タオルを取ってきてくれた。
「ありがとうございます」
タオルを受け取った私は、その場で濡れた頭や足を拭いて、部屋に上がる。
その後、シャワーを借りてから用意してもらった寝間着に着替え、奥の洋室へ通された。濡れた服はわざわざ洗濯までしてもらえた。明日の朝には乾くと言われてこれから先輩の家に泊まるという実感を、犇々と感じた。
「じゃあ、わたしもお風呂入って来るね」
一人取り残された私は、小さく聞こえてくる水の音に耳を澄ましながら、小さく縮こまり、視線をあちこちに遣っていた。居間は想像通り、埃の一つも落ちていない。脱ぎっぱなしの衣服もなければ、ゴミ箱にはゴミだって入っていない。本当に、生活に必要な物以外、目につかなくて、その様子はまるで、彼女の心の中を覗いているような気がして、何故か少し、寂しかった。
風呂から上がった先輩は、煙草を何本か吸うと、すぐ眠ってしまった。しかも、私にベッドを使えと勧めてから。ここまでしてもらえただけでもありがたいのに、そんな無神経さは流石に持ち合わせていない。
タオルケットを彼女の身体にかけて、ぼんやりと寝顔を眺めていると、色々な考えが浮かんでくる。
それは、これからのことと、これまでのこと。
「遼子先輩」
考えても仕方がない。だから、閉じてしまおう。自分の抱いている、先輩に対しての感情を。叶わない願いを、心に留め置かないように。
「遼子先輩は、何を願いますか?」
そう言い聞かせても、その名前を呼ぶだけで、その顔を見つめるだけで、知らなかった彼女の世界を感じるだけで、思考は新しい色を放ち、私を振り返らせる。
「私は、あなたに会えて良かったです」
意識しないうちに、私は先輩の頬の近くまで、顔を寄せていた。暗闇に沈んだ白い肌を見て、私は駄目だと思いながらも手を伸ばす。
「だけど、あなたを留めることなんて、できません」
彼女の髪を撫でる。冷たくて、仄かに煙草の匂いの香る髪を。
「ありがとうございました」
立ち上がり、干されている自分の服に着替える。まだ数時間も経っていないから、服はじっとりと濡れていた。でも、そうするしかなかった。
何度も床で眠る先輩を気にしながらも、私は部屋を出る。
これで良かったんだ。
最後に、こんなに素敵な思い出をくれたのだから。
忘れたくても、忘れられないほど、素敵で残酷な思い出を。
雨は周りの音を掻き消すほど降っていて、まだまだ弱まる気配がない。
駄目だと分かっているけれど、私は煙草に火を点ける。
湿気ていて、美味しくなかった。
でも、吸えないことはない。
だから、私は祈りを込めて、煙を吐き出す。
どうか今日までの全てを、
私たちの間から消してください、と。
湿気た煙草と雨の匂い 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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