第34話

 冷たい風が吹き込む座敷の、開け放たれた障子が微かな音を立てた。

「真咲がさらわれた日から何度か、あの部屋で華絵の気配を感じた。儂だけじゃねえ。婆さんは姿も見とる。巫女の姿じゃったと」

 だが、それは決して、人の気配ではなかったという。

「邦彦くんから付き合いを遠慮したい言われたとき、儂らは承知した。その方がええと思うたからの」

 黙っていて悪かった、と祖父は頭を下げた。怖がらせたくなかった。けれど何よりも、それを告げることで呪いが本物になるのを恐れたのだと。

「華絵は淋しくて来とるんじゃと。……いつか諦めてくれると、そう思うとった」

 祖母が掠れた声を発した。

「今日みたいな事は初めてじゃ。動けんかったんじゃ」

 いつもとは違う、感じたことのない異様な気配だったという。麻美の声が聞こえ、廊下を走る音を聞いた。けれど。

金縛かなしばりにうたみたいに、指先すら動かすことが出来なんだ。麻美さんだけが、襖を開けて中に飛び込んだんじゃ」

 あと少し遅ければ間に合わなかったのだと、祖母は言った。

「あれは死霊じゃ。真咲は……もう少しで、取り殺されるところじゃった」

 祖母は畳に手をつき、声を震わせた。

 まるで石になってしまったかのようだった麻美が顔を上げた。祖母を見やり、慰めるようにその背を撫でる。憔悴しょうすいした顔に、微かに感情が見えた。

「雪絵と約束したの。……真咲くんを守るって」

 麻美は、ポツリとそう言った。


 すべてを聞き終えた時には、すっかり夜は明け、庭の新雪は陽の光を弾いてキラキラと輝いていた。

 真咲は茫然ぼうぜんと、その場に座り込んでいた。頭の中で少しずつ、言葉が意味を持ち始める。真咲がしたい、恋がれた女性は母ではなかった。幼い真咲をさらい、あまつさえ殺そうとした女だった。そして、守ってくれたのは。

 吹雪の中、真咲を温めてくれたのは、麻美だった。暖かな胸に抱きしめられた記憶。真咲は安心して眠ったのだ。

 壁の向こうに、吹雪の音を聞きながら……。

 何故だか急に悲しくなった。涙が出そうになって、真咲は自分のひざに顔を埋めた。

 誰も声を掛けないでいてくれたから、ただ黙って、長い時間そうしていた。



 背を向ける直前、空洞であった瞳は光を取り戻し、母は笑みを浮かべていたように思う。あの写真と同じ、優しくて悲しい微笑を。

──雪絵と約束したの。

──ゆきちゃんが淋しがるから。

 意図するものではなかったとしても、母は二人の女性に呪いを残したのかもしれない。母の望みは何だったのだろう。どちらが本当の願いだったのだろう。真咲には分からなかった。

 あの写真で初めて母に出会ったとき、真咲は彼女に恋した。それだけが、真咲に言える確かなことだった。

 眩暈めまいは起きなくなり、数か月が過ぎた。

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