第33話

「行っては駄目!」

 強い力で引き戻され、つかんでいた手が離れた。よろめいてひざを付くと、誰かに強く抱き締められた。

「麻美さん?」

 抱きすくめられて身動きが取れない。この人の何処どこにこんな力があるのかと思う程に、その腕は強く真咲を抱きしめて離さなかった。

──あれ?

 この感じ。柔らかくて、暖かな胸の感触。何だろう。これは……。

 真咲は目を閉じ、脱力した。安心する。守られているように思えた。このまま眠ってしまいそうだ。遠くで、吹雪の音……。


 どれだけ時間がすぎただろう。ふと我に返り真咲は顔を上げた。辛うじて首を動かし、後ろを見る。母が微笑んだような気がした。写真と同じ、悲し気な眼差しで。

 降りしきる雪の中、その人は静かに背を向けた。白い霧がその姿を隠し、真咲の眼は母の姿をとらえられなくなる。

──さようなら。

 そう言われた気がした。



「麻美さん」

 祖母の声がした。ようやく緩められた腕からい出すと、座り込んで顔を伏せた麻美の向こうに、寝間着姿の祖父母の姿が見えた。

「すまんかった。こんな事になるとは思わんかった」

 祖父が呟くのが聞こえた。

「……お母さんは?」

 庭を見ても、母の姿はどこにもない。霧は晴れ、降り積もった白い雪が、明けきらぬかすかな光を集めようとしていた。

「あれは雪絵じゃねえ、従妹いとこの華絵じゃ。……いや、もう華絵でも、ないのかも知れん」

 雪が降りた庭に目をやった祖父は、それからゆっくり顔を上げて、夜と朝の境目の色をした空を見やった。その後、視線は真咲へと移る。険しい表情に見えた。

 側に来て座り直し、祖父は幼い子供にするように真咲の頭を撫でた。

「怖い思いをさせて、すまなんだ」

 近くで見た祖父の眼は優しくて、そして悲しそうだった。

「あれはもう、この世のものじゃねえ」

 何かを打ち明けるように静かに、祖父は言った。

「聞きとうないかも知れんがの」

 吐き出された溜息ためいきはとても深くて、これから聞く内容がつらいものであることを告げていた。

 誰も、何もしゃべらなかった。しんとした空気の中、祖父が話し始めた。枯れた声だった。

「華絵は、あそこに見える神社の巫女じゃった」

 正面に見える紅い鳥居を指して、祖父は言った。

「雪絵の一つ年下の従妹でな。雪絵と華絵は本当に仲が良かった。そして双子のように、よう似とった」

 鳥居を見詰めたまま、祖父は言葉を継ぐ。

「華絵は小さい時から、人には見えん物を見る力があってな。七歳を過ぎた頃からは、死者の声を聞くことも出来た。華絵は、巫女になるために生まれてきたような娘じゃった」

 その特異な能力により、本来選ばれる筈であった雪絵に代わって、華絵は十七歳の時に巫女になった。いや、理由はそれだけではなかった。華絵の家は貧しく、巫女を出した家という事で村からの援助を得ることが出来た。大人の中での、暗黙の了解とも言えた。

 時を同じくして雪絵は村を出て、都会の大学へと進学した。それからしばらく、雪絵の結婚式を除いては、二人の交流はなかったという。

 そして、雪絵は死んだ。

「邦彦くんから連絡を貰ってわしらが駆け付けた時には、あの子は、もう冷たくなっとった」

 祖父が呟くように言った。

 雪絵の両親と共にやって来た華絵は、赤ん坊を抱いて愛おし気に頬ずりしていたという。

「邦彦くん一人では大変だろうから、わしらが引き取って育てることも考えた。じゃが麻美さんは、自分が責任を持って育てるからと、そう言いんさった」

 しかし、華絵は赤ん坊を連れて帰ると言って聞かなかった。

──ゆきちゃんが淋しがるから。

 そう言って。

「雪絵が死んだとき、華絵は雪絵の声を聞いたんじゃと。赤子と離れるのが辛いと泣いたんじゃと、そう言うとった」

──ゆきちゃんは、この子と離れるのが辛いって泣いてる。だから連れて行ってあげなきゃ。

「その言葉に、どこか空恐ろしいもんを感じて、わしらは真咲を引き取るのをあきらめたんじゃ」

 祖父はまた大きく息を吐いて、顔を伏せた。

「儂は口下手じゃけえ、ちょっとだけ待っておくれ」

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