第18話

「う~ん。つまり、夢──幻覚の中に出て来たお母さんは、白い着物と赤い袴を身に着けていた訳ね」

「うん。写真で見たときは、ピンクのワンピースを着てたんだけど」

 写真の中の母は洋装だった。なのに何故着物だったのだろう。鏡で見た自分の姿だろうか。いや違う。真咲が着たのは真っ白な単衣だった。打掛も帯も純白の。

 あの夜に見た母は赤い袴を穿いていた。真咲の目の前で揺れていた、血のような赤。

「その写真も消えてしまった──と。実のお母さんに関するものは家に何もないんだよな」

「そう。いつの間にか」

「お母さんのご実家の、樋口くんのお祖父さんとお祖母さんは、どこに住んでおられるのかしら」

「聞いたことない」

 未優と丞玖の質問に答えるうちに、幾つかの疑問が湧いた。両親──父の邦彦も麻美も、真咲に実の母についての話をしたことがあっただろうか。真咲が知っているのは、父方の祖母が口を滑らせた「雪絵」という名前と、父が話してくれた「亡くなった」という事実だけ。

 思い出話を聞くこともなかった。何故そんなに隠すのだろう。隠す必要があったのだろう。

──これは、だれ?

──これは、お母さん。

 悲しそうな麻美の表情が思い出される。探ってはいけないような気がした。解き明かしてはいけないような気がした。

「本当に、会った事はないの?」

 母は真咲が生まれてすぐに亡くなったと聞いた。世の中には、出生前の記憶を持つ赤ん坊がいるという。それなのだろうか。けれど何か違うような気がする。

 チャイムが聞こえた。昼休みだ。結局授業には戻らなかったなと、丞玖と顔を見合わせる。未優も悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべ、小さく肩をすくめた。が、すぐに真面目な顔に戻る。

「もう一度確認するね。祭りの夜に見たのは、長い黒髪と白い肌の、日本人形みたいな女の人。真っ白な冷たい霧が立ち込めていた」

 細かい氷の粒が作り出す霧を氷霧ひょうむというのだと、未優は教えてくれた。珍しい現象なのだという。真咲はいつ、それを見たのだろう。これすら脳が作り出した幻覚なのだろうか。

 ふと、あることに気付いて、真咲はハッとした。

「そう言えば、幼い頃に雪山で事故に遭ったって聞いたことがある」

 自分の事なのだが、全く憶えていない。けれど時折り耳によみがえる吹雪の音。暖かな胸の感触……。

「樋口、しっかりしろ!」

 何がだよ? と思いながら顔を上げる。心配そうな丞玖の顔が目に入った。

「大丈夫か?」

「少し横になる?」

 二人から言われて、怪訝けげんな気持ちであたりを見回す。壁の時計が目に入った。

「え?」

 長針が、かなりの角度で動いていた。

「ごめん。もしかして寝てた?」

 座ったまま寝てしまったのだろうか。恥ずかしくて顔が熱くなる。「寝不足気味だから」と慌てて言い訳しようとした真咲を、丞玖がさえぎった。

「目を開けたままボーっとしてるから心配した。もう帰った方がいいよ。送ってってやるから」

 本当に心配そうに、丞玖が真咲の背に手を当てる。

「いや、だったら少し休んでからにする。先生に言っといて」

 今から帰ったら、また麻美に心配をかける。

「未優先生、いいよね」

 未優は心配げに頷いた後、丞玖に何事か耳打ちした。


 丞玖は午後の授業に戻り、未優は会議があるとかで出て行った。保健室には真咲ひとり。後は水槽のフグだけだ。コポコポと泡の音がしている。

 脳が作り出した幻覚。けれど、それは架空のものではあり得ない。真咲は母に会った事があるのだ。幼い頃、その腕に抱かれて雪山にいた。遠くに聞こえる吹雪の音。柔らかく、暖かい胸の感触。

 母は死んではいない。母は真咲を置いて家を出たのだ。父と母は離婚したのだろうか。いや、そうではない。

 麻美が正式に邦彦と結婚したのは一昨年。失踪宣告しっそうせんこくの受付は失踪後七年経過後。社会科の先生に聞いた話だ。

 つまりは……、そういう事だ。

 悲し気な微笑が目に浮かぶ。抱きしめられた記憶。

 涙が出そうになって、真咲は歯を食いしばった。


 保健室の扉が開き、誰かが入って来る足音がした。

「樋口くん。具合はどう?」

 カーテンを開けてのぞき込んだ未優は、真咲の顔を見てハッとしたように動きを止めた。今、自分はどんな顔をしているのだろう。未優の前で醜態しゅうたいさらしたくなくて、真咲は寝返りを打つ振りをして顔を背けた。

「未優先生」

 声が震えた。

「お母さんは、……失踪したんだと思う」

 未優は何も言わず、カーテンを閉めてくれた。

 深呼吸をして動揺を抑えた。目を閉じて、また目を開ける。気持ちを落ち着かせる為に、もう一度深く息を吐いて、真咲は身体を起こした。

「もうすぐ及川くんが迎えに来るわ」

 カーテンの向こうから、未優が声を掛ける。

「……うん」

 でも、あいつ部活じゃ……。

 言いかけた途端、扉が開く音がした。カーテンの隙間すきまから覗くと、制服を着て二つの鞄を抱えた丞玖の姿があった。

「樋口、帰るぞ」

 当たり前のように、丞玖はそう声を掛ける。

「ちゃんと家まで送り届けてね」

「お任せあれ!」

 未優の言葉に、敬礼けいれいして丞玖が答えた。またもや至上命令ってやつか。

 小さく笑って真咲はベッドから降りた。頭がくらくらした。

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