第19話

「真咲くん」

 丞玖に送ってもらって帰宅した真咲を見て、麻美は静かに溜息をいた。身体を気遣うというより何故か痛ましげに、物憂げに。真咲を見ている筈の麻美は、真咲を通してもっと遠くを見ているように思えた。

 麻美は祭りの夜のことを詳しく聞こうとしない。何が起きたか分かっているかのようだった。何が原因で眩暈が起きるのか、その理由を麻美は知っているのだろうか。

 聞いてみようか。ふと、そう思った。祭りの夜に見た事を話して、母の事をちゃんと訊ねたら、麻美は答えてくれるだろうか。それとも、上手にはぐらかされるのだろうか。

 怖かった。言葉にすることで何かが壊れてしまいそうで。戻れない深いふちに足を踏み入れてしまいそうで。

「真咲くん、あのね……」

「もう寝る。夕飯いらないから」

 つい口調がきつくなってしまい、真咲は後悔した。麻美の顔を見て、後ろめたいような居たたまれないような、そんな気持ちに囚われる。

「……ごめん。反抗期だから」

 言い訳のように呟いた真咲に、麻美は笑って見せた。

「嘘ばっかり」


 階段を上がり、部屋のドアを閉める。着替えてベッドに横になっても、眠りなど訪れなかった。

 母は何故いなくなったのだろう。幼い真咲を置いて、どこへ行ってしまったのだろう。

 この家では母の話はタブーだ。母の実家とは交流がなく、両親も父方の祖父母も、実母に関係する言葉が出た途端に話を逸らす。聞いてはいけないのだと思っていた。それが当たり前になっていた。

 今になって、あらためて違和感を覚える。何故そんなに忌避きひするのだろう。父も麻美も、何故話してくれないのだろう。母が死んだなんて、何故そんな嘘をくのだろう。幼い頃はともかく、このままずっと嘘をつき通すつもりなのだろうか。小学校卒業、父と麻美の結婚、タイミングは幾らでもあった筈だ。何故打ち明けてくれないのだろう。

 ふと、今朝たまたま見たネットニュースが思い出された。もしかしたら父が麻美を不倫をしたから、だから母は出て行ったのだろうか。そう思いかけて、即座に否定する。あり得ない。そんな事がある筈がない。さもしい考えが浮かんだこと自体に腹が立ち、感情が制御できなくなる。投げつけた枕が壁に当たって落ち、チェストの上の鏡が倒れて顔を伏せた。

 失踪という言葉は重かった。母に何が起きたのだろう。真咲を置いて、身を隠さねばならない程の、何かがあったという事だろうか。

 気持ちは千々に乱れた。置いて行かれた悲しさ。身勝手な大人に対する怒り。そして、抑えきれない、思慕しぼ

「……お母さん」

 声を出して呼んでみる。誰もいない、一人だけの部屋で。

 写真の中の悲し気な微笑。暖かい胸に抱かれた記憶。

「お母さん」

 呼びかけても応えはない。

 

 いいんだ。僕は、このままで幸せなのだから。

 今のままでいい。何も変わらなくていい。

 でも、それでも。もし生きているのなら。

──会いたい。

 一目でいい。母に会いたかった。



 暗闇の中、うなされて目を覚ました。枕元の時計は午前二時。

 掛布団が生き物のようにまとわりつく。それをベッドの下に叩き落し、すがるものが無くなった真咲はひざを抱き、小さく丸くなった。

 ぐっしょりと寝汗をかいていた。夢を見ていたように思うが、内容は憶えていない。ただ、とても恐ろしい夢だったような気がする。まだ寝ぼけているのか、頭がぼんやりした。丸まった姿勢のまま記憶を辿たどろうとして、突然、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 理由のない怖気おぞけ。自分は何に怯えているのだろう。不安と絶望と恐怖に似た何か。小さく丸まっていないと、い寄ったそれが手足の先に触れるような気がした。

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