3話 死人、いる

 こんな忙しいときに何故、この板は私を馬鹿にしてくるんでしょうか。

 痛みで右も左も上も下も何もかもがわからない、こんな状況で、どうして私の心労をとことん増やしていくのでしょうか。


「————」


 荒い息を吐きながら痛みにのたうち回っている現在。

 服についた返り血の臭いで吐き気を催すのは当たり前のことですが、それは全く持って些細なことで気になりません。


 ですが、それは痛みで気にならないという、単純な物ではありません。

 むしろ歓喜に近いもののおかげです。


 アレの存在を思い出したのですから。


 薬です。


 アスピリンと言う軽めの鎮痛剤ですが、焼け石に水程度でも今は欲しいということです。


 痛みと臭さ、どちらを優先するかなんて決まっています。

 それに靴を脱ぐ行為すら面倒なのですから、服なんて脱いでいられません。


 あぁ、どうしてでしょう。さっきの包帯を取り出すときに飲んでおけばよかったと思います。

 小鹿のような赤黒い手で薬を取り出そうとファスナーをいじくるのですが、なかなか空いてくれません。

 赤い十字架が掲げられている袋の中から、何とか取り出して、これまた無駄に赤色のそれを唾で飲めたのですが……何かを叩き壊したくてたまりません。

 

 今まで痛みとは無縁の関係を気づいてきたのは正解だったと、しみじみ思いました。

 痛いことは痛いのです。


 やっとの思いで服と靴を脱ぎ捨て、自室の床に倒れこみました。


 「……そういえば」


 視界の端の黒い何かに意識を向けました。


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 レベルが上がりました。

 スキルを選んでください。


 ・痛覚耐性【Ⅰ】

 ・病気耐性【Ⅰ】

 ・棒術【Ⅰ】

 ・薙刀術【Ⅲ】

 ・格闘術【Ⅰ】

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 痛覚耐性【Ⅰ】を取得しますか?


 yes / no


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 多分そういう事でしょう。

 私は迷わず痛覚耐性を選び「yes」に触れました。

 安易な行動かもしれませんが、この痛みが少しでもなくなるなら良いと思います。

 理性の方は得体のしれない物に触れるなと叫んでいますが、そんな物知りません。


 今、理性なんてものは所詮、役に立たないどす黒い、それこそ私に痛みを与えてきたあの化け物のようなものですから。


 足先に毛糸が触れるような感覚が走ります。


 「す、すごいです」


 さっきまでの痛みが嘘みたいに引いていきました。

 といってもまだ多少は傷むのですが、それでも先生に殴られた時ぐらいの痛みで、大したことはありません。


 という事は……


 先ほどの楕円形の板「ぷわぷわ」と浮いていたアレを探します。

 右端を見て、左端を見て、上を見て下を見て、自身の体の中に意識を向けて、どこにもありません。

 何故なのでしょう。


 痛みと同じく、どこかに消え去っていきました。

 不思議で仕方がありません。


 カーテンは閉め切られ「シーン」とした薄暗い部屋です。


 痛みが消えた今、ようやく私が置かれている状況がどのような物なのか、はっきりと自覚できます。


 床ではなくカーペットに倒れこんだこと、下半身に至っては包帯以外の部分、ちょっとあれなのですが、ほとんど裸のような、それも「美しい曲線である」などではなくて、赤黒いペンキのようなものがそこらかしこに付着しているという物です。

 他には壁に私の手形が出来ていたりとか、とてもバイオレンスな光景です。


 ひとまずは安心して良いでしょう。

 傷口にばい菌が入って感染症にならないよう、亡くなった先生に祈るという行為は忘れずに行います。


 やっと一息付けました。

 心に余裕が出来ると、次に人間は何をするのでしょうか。

 前々から気になっていたこの問いなのですが、私はどうやら回答を得たようです。


「ふっ……ふふ……あは!」


 なんだか笑いが止まりません。

 ガラスに映った私はとても顔を歪めて頬を赤色に染めています。

 緑と赤のカーペットを右手で「わしゃわしゃ」と揉みしだきながら「あはは! すごい! すごいです! どうしてこんなに気持ちが良いんですか! そんなの意味が分かりませんよ!!」と叫びます。


 それを今言葉にしなければならない、そんな不思議な感覚がしましたので。


 別に何かが面白いとかではないのですが、なんだか全てが幸せで、素晴らしくて、なんでしょうか、絶頂するほど気持ちが良いです。

 今なら何でもやれそうな気がしてきます。


 ダメです。

 気持ち良すぎます。


 …………


 絶句しました。

 あ……その……知らず知らずのうちに、少しだけ、膀胱が緩んでいたらしく、ご、誤差でしょう。


 それに見せる相手なんていませんし。

 とりあえず体の洗浄を入念にしなければなりません。



 脱衣所の方で下着を脱ぎ捨てると、茶色の不愛想な顔が映ったバスタオルを手に取ります。

「もこもこ」とはしておらず、ほとんど布と言っていいくらいのものです。

 例えるなら大きくなった弁当布でしょうか。




 目の前が霞んできました。

 すごく眠いです。

 布団に入りたいです。

 理性は「寝るな」と金切り声を上げているのですが、どうしようもありません。

 だってねむいんです。


 床下収納に置いてあった非常食の乾パンと(パンケーキやパンなどはあの酸味が大好きで食べてしまうので、保存食が保存食していないのですが、こうなるなら少しぐらい用意しておけばよかったです)牛乳の粉を植物油「むしゃむしゃ」「ごくごく」飲んでいます。


 もちろん粉には水を、乾パンには砂糖を、植物油は少しだけ、としています。

 今までにない精神的な疲労感は、気持ちが良いというよりも、不快でしかありません。


 ストレスにより食べたものを吐いてしまうかもしれない。

 そんなことを危惧して今寝るのはいけないと思いました。


 それにぼーっとする頭で今後のことを考えなければいけませんから。


 私は私の頬を全力でひっぱたきました。

 あまり痛くないです。

 私はその場で立ち上がりました。



 まず初めに、俗世に疎い私でも先ほどの死体が何なのか知っています。

 たぶんゾンビです。

 俗物的な娯楽に出てくるらしい?ですが。


 「噛まれた人間は……」と言う話があるため何かしらの対策を立てなければなりません。

 不幸中の幸いで抗生物質などはきっとドラッグストアの方にあると思うので、この件はいったん保留します。


 では次の問題は食料・水です。

 これも先ほどと同様に保留で良いでしょう。


 他に何かあるのでしょうか。

 ……今できました。


 外の方から足音が聞こえてきました。

 ほんのかすかな草がこすれる音ですが、私の耳はかなり敏感です。

 数は一つです。

 そうですね、これも保留にしましょう。

 

 他には……身を守るための道具が欲しいです。

 無難なところで包丁ですね。


 さっそくキッチンから包丁を取ってきました。

 全く使われていない(語弊があります。ペーパーナイフとして何回か使ったことがあります。)光をよく反射しそうな薄灰色のものです。

 取っ手が黒いです。


 押し入れの方から竹刀しない(といっても薙刀ですが)を引っ張り出してきます。

 手汗の付いた使い込まれたものです。

 母の形見はやはり近くに置いておきたいですから。

 というのは上辺だけで、母のように人に教える先生になりたかった思いがあるからです。

 これを見ると少し恥ずかしい気分になります。


 ここ一週間練習していませんでしたが、それ以前は毎日のように「ぶんぶん」振っていました。

 真剣の付いた薙刀は振り回していて気持ちが良いです。

 この竹刀の先に薄灰色のそれを。


―――――――――――――


 片足を庇うように体重を移動させて、どろどろと融解した右肩をぼーっと眺めます。

 無理に気を張るより、こうした方が良いときもあります。

 それは恐怖を抱いている時です。

 先生が教えてくれました。

 何時ものように、練習のように、遊んでいる時のように、バランスの悪い槍を構えます。

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