脳を食らう
入峰宗慶
脳を食らう
ザーザーとした音が耳の奥で鳴り続けている。
外に出るとチリチリとした浮遊物が目に触る。
気がついた時には常にそれが纏わりつき、不快感が皮膚を這い回り、脳を蝕む。
虫唾が走るという言葉の通り、体内にいる何かが毒を吐いているかのようだ。
この不快感を伝える術を、私は知らない。
幼い頃は、辛いこと、悲しいこと、嬉しいこと――私に起こったあらゆる感情を伝える努力をしてきたと思う。
しかしそれは、親であれ兄弟であれ、知人であれ教師であれ、誰にも理解も共感もされることはなかった。
私の伝え方が悪いのか、それとも人間という存在がそのような感情を許容する能力を持っていないのか、それはわからない。
たとえば、皆が楽しく笑い合っているグループがあるとする。
そこに入り込めない人間がいる。
輪の中に入れず、居心地が悪く、不快感がある――。
多かれ少なかれ、そんな経験を持つ人はいるだろう。
理由は単純だ。
笑いのある輪の中には、必ずと言っていいほど悪意が孕んでいるからだ。
楽しい空間とは、結局、集団の中の弱者や同化されなかった者を侮蔑し、嘲笑うことで自身の立ち位置を確認する行為である。
これも一種の生存競争と言えよう。
嫌悪感を感じられる人間は、その輪の中の歪みや悪意を感じ取れる人間であり、そのため笑いの集団に嫌悪感を抱くのだ。
「この世は地獄である」と言えば、そのとおりだ。
地獄には笑いが満ちている。
もし天国があるとするならば、そこには笑いはなく、ただ無味無臭で漂白された空間が広がっているだけだ。
正しい大人に見守られた少年が、必ずしも正しい大人になるわけではない。
しかし、少なくとも社会で生きる上で「正しさ」を認知する可能性は高いだろう。
しかし、正しい大人のいない環境で育った少年が大人になったとき、彼は「正しさ」を知らず、社会にどう接して良いかも知らず、それでも大人としての役割を要求される。
そんなとき、彼はどのように生きていくのだろうか。
人間を知らずに育つ人間は多い。
何かを知らずに年齢だけ重ね、要求だけは肥大化していく。
そんな彼が、求められた役割に応えられるのか――。
ぼんやりとテレビを見ている。
ニュース番組では、1歳の赤ん坊が両親に虐待されて死んだという話題をコメンテーターが語っている。
こんなニュースは、もはや当たり前のものになってしまった。
怒りや不条理を感じることすら、今では愚かな感情となっている。
当たり前になってしまったのだ。
かつての世代にも同じように無常を感じた人々はいただろうが、私は今この時代を生きているだけの人間である。
過去の事例や情勢、環境を比較する経験は持ち合わせていない。
知っているのは情報としての事実であり、所詮それは情報でしかない。
経験ではないのだ。
うんざりする気持ちを抱えながら、テーブルにある冷めきったコーヒーを飲み干す。
私は駅に向かい、代わり映えのない日常を過ごすしかできない。
同じ時間に電車に乗り、同じ時間に出社し、日々違う退勤時間で疲れ果てる。
体に悪いと分かっていても、コンビニの食事で胃を満たし、何も考えずに布団に潜り込む。
また明日も同じことを繰り返すのだ。
以前、休日をいつ取ったかすら覚えていない。
恐らく取ったのだろうが、それすらも思い出せない。
そんな疲弊した状況でも私は思ってしまうのだ――。
殺された赤ん坊は、それでも親を信じていたのだと。
その痛みは、自分の行いが招いた結果だと、そう思っていたのではないか。
自分がそうだったように。
私は自分が虐待を受けていたとは思っていない。
しかし、幼少期、母と寝ていた夜、父が突然帰宅し、襖を蹴破って母を殴りつけた。
散らばっていた超合金のロボットを投げつけられ、頭から血を流したが、そのとき、父が怒鳴り暴れていたのは、私が玩具を片付けなかったからだと自責の念に駆られていた。
子供とはそういうものだ。
本来愛情を注ぐべき相手が怒るのは、自分の責任だと感じてしまう。
しかし、年齢を重ね、知性を持つようになると、歪んでいたのは父の方だったと理解する。
だが、その理解は状況に対してのものであり、心情を理解することはできない。
父の最後は、糖尿病で目も見えなくなり、暗い車庫で排気ガスを引き込み自死した。
彼は一人で、静かに消えていった。
その一人の最期を、虐待をしていた親という言葉で侮辱されたくない。
年齢だけを重ね、過去に何度も自分を殺したいと思ったこともあるが、私は死ねずにいる。
父のように、一人で黙って消える強さを持ち合わせていない。
私は、自分の醜さに溺れきっているのだ。
ただ一人になり、一人で死ぬ。
そのとき、脳は食い尽くされ、自我は社会に飲み込まれるだろう。
記憶すら残らず、やがて処分されるのだ。
脳を食らう 入峰宗慶 @knayui
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます