第2話 主様

 

 ―――目を開けて、飛鳥。


 どこかなつかしくて、優しい声が聞えてきた。

 どこで聞いたんだっけ、と考えながらわたしはゆっくりと目を開けた。

 そして目に入った光景に息をのみ、目を見開いた。

「‥‥‥えッ!? なに‥‥‥! どこなの、ここ‼」

 そこは不思議な空間だった。

 地面は黒と白の市松模様になっていて、まわりには何もない。

 何もないと思ってふり返ると、少し離れた場所に門のようなものが建っていた。しかし、それ以外は本当に何もない。

 空を見上げれば、雲一つな黒色の空がどこまでも広がっている。

『アーア、モウ少シダッタノニ』

 ‥‥‥頭の中ではなくうしろから、どこまでも無邪気で、しかし全く抑揚のない声が聞えてきた瞬間、一陣の風がわたしの頬をなでつけた。

『ネェ、コッチ向イテ』

 風が通り過ぎると、わたしのすぐ耳元で声がした。

 その瞬間、ゾクッと背筋に寒気が走る。

 見ていはいけない、そう思いながらもわたしは恐る恐る視線を動かした。

「ヒッ‥‥‥!」

 わたしは目に入ったモノを見て、思わず小さく悲鳴を上げる。

 そして慌てて距離を取ろうとするも、『ソレ』がわたしの肩を押さえていて一歩も動けない。

 わたしの肩を押さえていた『ソレ』は―――蝶柄の青い着物を着た見知らぬ少女だった。少女のどろんとした感情のない真っ赤な瞳がしっかりとわたしをとらえている。

 少女はニヤリと微笑んだ。

わらわノ贄。御前ノ魂、ヨコセ』

 そう言った少女はわたしの頬に右手を近づける。


「‥‥‥厄介な使い魔に目をつけられたな」


 その時、不意に背後から声が聞えた。

 え? と思いふり向くと、そこにはわたしに向かって冷ややかな目を向ける、一人の少年がいた。

 目の前には得体のしれない少女がいて、絶体絶命の状況だというのにわたしは少年から目が離せない。

 さらさらと風になびく黒髪、闇を溶かしたような瞳は黒曜石のように鋭く光っている。

 少年に目を奪われていたわたしの肩に、さらに重圧がかかる。少女を見れば、体全体が黒い霧に包まれ、瞳孔はカッと見開かれ食い入るように少年を見つめている。

わらわノ、邪魔ヲスルナ!」

 少女のまわりに黒い霧に包まれた刃が三つ、姿を現す。

 刃は音もなく、少年に向かって一直線に飛んでいく。

 何をしてるの? 危ないから、今すぐ逃げて。

 しかし、それが言葉になる前に、刃は突然消滅した。

 うそ、なんで。

 そう思い、もう一度よく見れば、先ほどまでは何もなかった右手に、少年の身長を優に超えるであろう木でできた杖が握られていた。


「—――我が魔術は炎。人事の役を清める杜―――!」


 その刹那、少年のまわりに巨大な炎が五つ、姿を現す。

 炎が現れた、と認識すると同時にわたしと少女を囲むようにして炎の火力が上がる。

 ‥‥‥あれ、熱くない?

 そう思った次の瞬間に、鼓膜を裂くような悲鳴があたりに響き渡った。炎に包まれた真っ赤な瞳と、わたしの瞳が合う。

『魂‥‥‥サエ、アレバ……』

 弱々しい声が聞えると、炎の中から黒焦げになった手が現れてわたしの頬に触れた。死人のような冷たい皮膚の感触が、ざわざわと全身を駆け巡った。

「—―――滅」

 わたしの頬をかすめて、杖が少女の心臓を貫く。少女の顔が苦痛で歪み、耳障りな断末魔の叫び声を残して、霧散していった。

 黒い空がゆらり、とわだかまり消えていった。地面は白黒の市松模様ではなくアスファルト、右側には無人の公園、左側には住宅地。わたしがさっきまでいた通学路だ。

 か、帰ってこられた……? 

 恐怖の原因がなくなり力の抜けたわたしは、ペタンと道路に座り込んだ。

「美山家の、お嬢様ですよね」

 背後から呼びかけられ、ふり向くと少年はうやうやしく片膝を折った。

「—――杉本、和樹。京都の杉本家から参りました、魔術師でございます」

 えっと、その杉本君という少年はわたしを見つめて‥‥‥。

「お会いしとうございました、我が――主様」

 そうこうべをたれた。

 ‥‥‥。

 ‥‥‥。

 ‥‥‥。

 ‥‥‥ええええッ!? ちょっと待って‼

 今確かに『主様』って言った? 主って、『ご主人様』って意味、だよね?

 これは、笑うべき? それともツッコムべき?

 そして思考を停止することにしたわたしは、

「し、失礼します!」

 と、勢いよく立ち上がって、脇目もふらずに学校への道をかけ出した。

 背後で何か叫ぶ声が聞えた気がしたが、まあ気のせいだろう。






 飛鳥の姿が見えなくなると、和樹はため息をついてスマホを取り出した。チャットアプリを起動して、『兄貴』と書かれたトーク画面を開く。そして和樹はそのまま、そこにメッセージを送った。

『了解』

 と、すぐに返信がきた。

 これでよし、とホッと息をつきスマホをしまう。

 杖を一振りして魔力で編み上げていた杖を開放する。

「ったく、何も逃げなくてもいいだろう」

 和樹は後頭部をがしがしと乱暴に搔きむしると、近くに置いていた通学鞄を拾って、飛鳥の走り去った方に向かった。

 

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