テリオン粒子

……………………


 ──テリオン粒子



「結果から言おう。君は健康そのものだ」


 再び診察室に戻ってミアがファティマに告げた。


「問題なしってことですね。よかったです」


「いや。君の体は健康そのものだが、その健康が異常だと言える」


 ファティマが安堵の息を吐くがすぐにミアがその安心を否定した。


「え? それはどういうことなのでしょうか?」


「君はテリオン粒子について知っているかな?」


 ファティマの問いにミアはそう問い返す。


「地上を汚染している物質ですよね。地上がテリオン粒子で汚染されたから人々は空にエデンを作り、さらに衛星軌道上にエリュシオンを築いた。そうですよね?」


「そうだ。地上から富めるものたちが逃げたのはテリオン粒子のせいだ。この物質はあらゆる面において人体にも、他の生物にも、さらには無機物にすら極めて有害であると考えられている」


 ミアがテリオン粒子という物質について語り始める。


「まずテリオン粒子が人体に有害である要素はこの物質が放射線同様にDNA損傷を引き起こすということ。最初に判明した健康被害はテリオン粒子による発ガンと新生児死亡、奇形の発生などだった」


 テリオン粒子は人間だけでなく生物全体が有している肉体の設計図たるDNAを損傷させ、そのことでガンを引き起こし、妊婦が宿す胎児に影響を及ぼした。


「だが、最近の研究ではテリオン粒子は破損させるのはDNAだけではないと分かった。この物質は高濃度になればあらゆるものを破壊すると分かったんだ。タンパク質の三次元構造を変性させ、生命維持に必要な機能を停止させることすらある」


「そんな物質が地上には広がっているんですよね? 大丈夫なんですか?」


「大丈夫なものか。ゲヘナにおけるテリオン粒子に由来する健康被害は深刻だ。極めて深刻だ。ゲヘナでは毎日2000人以上がテリオン粒子による影響で死亡するか障害を負っている。今もまだずっと」


 ファティマが恐ろしい事実を前に僅かに怯えながら尋ねるとミアが悔し気に語る。


「私はフォー・ホースメンの軍医であると同時にテリオン粒子による健康被害を研究している研究者でもある。だから、テリオン粒子については少なくない知識があるつもりだ。もっともエリュシオンならばもっと高度な知識があるだろうが」


 エリュシオン。富めるものたちが築いたエデンの中で、さらに富めるものたちが衛星軌道上に作った楽園だ。


 高度な技術を有する世界であり、エデンで使われている技術のいくつかはエリュシオンで開発されたものが与えられる形で使用されている。


「テリオン粒子には謎が多いが、決して無害な物質でも、有益な物質でもない。とても危険な物質だ。新しい研究ではテリオン粒子は単純な健康被害だけでなく、精神障害すらも引き起こすと言われている」


「それはあまりにも物質として影響が多岐に及んでいませんか? ひとつの物質として考えられないほど多能だと思うのですが……」


「君が言いたいことは分かる。私たちはテリオン粒子を研究するにつれて思うのだ。『この物質には明確な悪意がある』と。生物だけではなく、無機物の構造にも影響を与え、劣化させるのだから」


 この世に自然に存在する物質には人間が思うような害意、悪意、殺意といった感情があるわけではない。


 確かに自然界で育った生き物は毒素や牙や爪などで獲物を狩り、同時に身を守る。しかし、それは悪意ではなく、あくまで自らの生存のために生み出したものだ。


 さらに言えば放射線は殺そうと思ってDNAを破損させる影響を及ぼすのではないし、重力はビルから落ちた人間を殺すために存在するのではなく、火山活動などで生じる硫化水素などの火山ガスも殺すために生まれるわけではない。


 だが、テリオン粒子からは悪意が感じられる。まるでこの世の全てを破壊するために生み出されたかのように。


「その、そのテリオン粒子と私の健康に何の関係があるのでしょうか……?」


「検査の結果、君の体内に少量ながらテリオン粒子が観測された。少ないがゲヘナに暮らしている人間が蓄積する濃度よりも濃い」


「そんな! それは危険なのですか? どうすれば……!」


「最後まで聞きたまえ。確かにテリオン粒子は君の体内に存在している。だが、君の体はテリオン粒子による健康被害を全く受けていない。健康そのものなのだ」


 あまりのことに衝撃を受け、慌てるファティマに対しミアが冷静に告げる。


「テリオン粒子は人体に有害だと説明されたのに、私の体内にあるテリオン粒子は私の健康に被害を与えていないというのですか? それは何故?」


「分からない。私もこのような症状は初めて見た。テリオン粒子が体内でどのように蓄積され、作用しているのかはもっと高度な検査機器がなければ分からない。君の体質が特別なのかもしれない」


 ファティマが全く事情が分からず問いを重ね、ミアが首を横に振る。


「よければ体組織のサンプルを提供してほしい。その代わりに強化外骨格エグゾのリーンフォースデバイスの装着手術は無料でやろう。どうだい?」


「ええ。構いません。私もどうしてなのか知りたいですから」


「ありがとう。テリオン粒子はまだ除染技術もない。ゲヘナの人々は危険に晒され続けている。それがもし君の体質を調べることで治療や除染の技術が確立できれば、大勢の人の命が助かる」


 ミアは本当に大勢を救いたがっているようだった。医者としてあらゆる人物を救うという義務を果たし、そして個人として救えるはずの命が失われることをなくしたいと思っているようだ。


「体組織のサンプルはすぐに終わる。それが終わったら手術を始めよう」


 そして、ファティマの体組織をミアが慎重に採取し保存する。この体組織からDNAを抽出したり、体組織を構成するタンパク質などの構造を分析することになる。


「それでは手術を始めよう」


 いよいよ117式強化外骨格を装着するために必要な脊椎へのリーンフォースデバイスの埋め込み手術が開始された。


「麻酔の導入完了しました」


 ファティマはまず全身麻酔で眠り、その状態で脊椎を補強し、脊椎の神経伝達を受信する形で117式強化外骨格のリーンフォースデバイスを埋め込む。


「では、脊椎へのリーンフォースデバイスの埋め込みを始める。まずは頸椎からだ。手早く終わらせるよ。メスを」


「どうぞ、先生」


 脊椎に超硬度ナノチューブを素材とするパーツが埋め込まれ、循環型ナノマシンが注入され、脊椎全体に黒いパーツが装着された。ファティマの背中には今では人工物が背筋に沿って走っている。


「手術は無事に終了した。経過観察のために2日入院してもらうが、問題は起きないだろう。入院の経費も無料にしておくよ」


「ありがとうございます」


 ファティマは経過観察のためにこのウェストロード医療基地に2日間入院することとなった。サマエルも家族扱いで一緒に泊ることに。


「病院食は微妙ですね」


「うん。あんまり美味しくない……」


 病院食は栄養学は重視されているようだが味は二の次のようだ。酷く味が薄い。塩分などが押さえられているのだろう。


「若い子が入院してるのね。何があったの?」


強化外骨格エグゾのリーンフォースデバイスの装着手術を受けたので」


「ああ。あなた兵士なの」


 それでもファティマはサマエルと談笑しながら食事をし、同じ病室で入院していた年配の女性とも話を弾ませて過ごした。


「君の体組織のサンプルを高度な検査機器を有する研究機関に送りたい。よければ同意書にサインを頼む」


「はい」


 ミアは何度かファティマの様子を見に訪れ、採取したファティマの体組織はこの病院よりも高度な技術がある研究機関に送られた。


 そして、2日後。


「さて、今日で退院となるが最後に検査を。その結果次第では入院は延長になる」


「分かりました。お願いします」


 病室でミアがそう説明し、ファティマが検査を受ける。


「神経系の検査だ。リーンフォースデバイスがちゃんと脊椎からの信号を受け取っているか、そしてリーンフォースデバイスによって君の体の正常な神経信号を阻害していないかと調べることになる」


 ファティマはミアがそう説明した検査を受けるために検査着に着替え、ミアと病院の検査技師が行う検査を受けた。


強化外骨格エグゾを装備した人間は必ず受ける検査だ。まず異常が見つかることはないが、万が一という場合がある」


 ミアはそう言って検査結果を待つようにファティマに言う。


「異常はないようです。全て正常値ですね」


 検査技師はミアの業務用のZEUSにファティマの検査結果を送り、そう報告した。


「退院が決まったよ。おめでとう。だが、今後は定期的に検査を受けるようにしてほしい。というのも君の体内に確認されたテリオン粒子の影響もあるし、リーンフォースデバイスが時間が経ってから神経系に干渉することもある」


「分かりました。できるだけ伺います」


「では、お大事にね」


 ミアは笑みを浮かべて診療室を出るファティマを見送り、ファティマは外で待っていたサマエルと落ち合う。


「お姉さん。問題はなかった?」


「ええ。健康そのものだそうです」


「そうか。よかった……」


 そうやってファティマに向けてサマエルは笑ったが、それは何かを隠しているかのような力ない笑みだった。


……………………

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